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星の海で遊ばせて  作者: ノマズ
4,月の光に見上げれば
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雪の中(3)

 フォンデュの鍋や皿、スプーン類が片付けられると、最後にデザートが運ばれてきた。金縁の白皿に凍った苺とラズベリーが、真っ白いシャーベットに添えられ、ルビー色のソースが全体にかかっている。


 柚子がシャーベットを半分くらい食べたころ、ピアノの演奏曲が変わり、詩乃はそのタイミングで、バックから柚子へのプレゼントを取り出した。手に乗るサイズの、青い小さな包み。それを詩乃は、テーブルの真ん中に置いた。


「プレゼント」


 詩乃が言うと、わぁっと、柚子は目を輝かせた。


 柚子は詩乃に了解を得て、袋を開けた。


 プレゼントは、ペンギンのスノードームだった。ペンギンの大人と子供が、ガラスの中、白い雪の上に寄り添っている。


「全然実用的じゃないけど――」


「嬉しい!」


 柚子は、スノードームをひっくり返し、ガラスの中に雪を降らせた。明りに照らされて、チラチラと舞う雪。愛らしい二羽のペンギン。


「たぶん、コウテイペンギンだと思うんだよね。胸のあたり、黄色いから」


「うん、本当だ!」


 柚子はにこにこと笑って、プレゼントを見つめた。


「あと、――これ」


 詩乃はそう言うと、もう一つ用意していたプレゼントをバックから出した。A4用紙十枚をホッチキス止めしたもの――この日のために詩乃が書いた短編の物語だった。約一万文字、縦書き二段で印刷されている。


「これ、小説!?」


「うん。ほら、竜宮城行ってみたいって言ってたから」


「ええっ!」


 柚子は驚いた。


 その話をしたのは、一週間前だった。それを聞いて、この短い時間の中で書き上げたのだろうか。タイトルは、『星のお姫様』。なんて可愛らしい題名なのだろう。お姫様って言うのは、私の事なのかなと、柚子はそう考えて顔を赤らめた。


「私に?」


「うん」


 詩乃は頷いた。お城のなかで、自由に外に出られなかったお姫様が、誕生日に盗賊の手引きで城を抜け出し、竜宮城や竜の暮らす雲の国や月の世界をめぐる物語。月へは馬車ではなく竜の背に乗って行き、帰りは流れ星に乗って城に戻ってくる。新見さんのオーダー通りのコースになっている。


「竜にも乗るし、月でおしるこもあるよ」


 詩乃は、そう言って目元に笑みを浮かべた。


 やっぱりこの人しかいないと、柚子の瞳は揺れた。


 夢や空想や、常識はずれなこと、変なこと、目には見えないもの、言葉でも上手く説明できないもの、そういうものを、詩乃君は馬鹿にしないし、からかうこともない。私の、自分でもよくわからない心の中のもの、あやふやなものから何から全部、詩乃君は受け止めてくれる。海が、あらゆるものを受け止めて、その海中に抱いていくように。


 食事の後、詩乃は柚子を、家の前まで送っていった。


 電車に乗る時からずっと、柚子の身体は熱く、柚子は自分の身体のほてりを自覚して、頬を赤らめていた。駅から自宅への道を歩いている時も、冬が顔をのぞかせる夜なのに、血は、温泉に入った後のように体の隅から隅までを駆け巡っていた。


 柚子の家の前、詩乃は柚子の頬に小さくキスをして、柚子にとっては風のように、夜道へと消えていった。自分を本当にお姫様扱いしてくれる詩乃の愛情を、目に見るよりもはっきりと、柚子は感じていた。


 親を亡くして、親戚もなくて、そんな、自分にはとても想像もできない孤独の中、詩乃君はこんなに優しい温かさを私にくれる。本当は自分が一番辛いのに。そう思うと、柚子は詩乃に対して、強い尊敬の念を抱かずにはいられなかった。


 今まできっと私は、詩乃君の世界に憧れているだけで、見えていなかったものがある。柚子はそう思った。


 詩乃君は、お花畑の住人じゃない。私の前に一面の花畑や幻想的な星空を見せてくれる。その詩乃君の住んでいるのは、壁の薄い安アパートの一室だ。就職のことも、お金のことも――詩乃君は、2ペンスでは生きていけないのを、身をもって知っている。私が気安くプレゼントした2ペンスは、今ならわかる、なんて残酷なプレゼントだったのだろう。『好きだけで結婚できると思う?』――その問いの意味が、柚子は、やっと分かった気がした。


 柚子を送って一人帰路についた詩乃は北千住に向かう電車の空いた座席の上で、深く息をついていた。一つの大きなイベント終えて、思い出すのは柚子の笑顔、笑い声、肌の柔らかさと温もり。そして、考えることは、数日前に到来した些細な心配事。


 正確には、〈些細なことにしていた〉心配事である。


 実家に届いていた一枚の封筒。それは、催促状だった。


 どうやら父には借金があるらしい――。





 十二月二週目の月曜日からは、三年生は冬休みに入ったが、詩乃は、必修授業の出席日数が足りていなかったので、その補講のために、二週目以降も引き続き、学校に通うことになっていた。


 父が死に、ひと月が経ち、実家の借り家も引き払った。父の死に決着がついて、詩乃は、先のことを考えられるようになっていた。新見さんと、モラトリアムのような数年を過ごすのも悪くない。バイトをして、毎月の学費よりも少し多く稼いで、余ったお金で新見さんにプレゼントを買おう。新見さんの子供のころに行ったという北海道の牧場にも行こう。お互いに大学生なら、そういう旅行もできる。高校生ではできなかったことを、たくさんしよう。そういう生活は、すごく楽しそうだと、詩乃の心には一足も二足も早い春が来ていた。毎日の補講も、受験のためのテスト演習も、その意味を得て、詩乃はしっかり取り組むようになっていた。


 補講は大体午前中に終わり、その後は、柚子と詩乃は、二人で昼を過ごした。柚子はもう補講や講習に来る必要はなかったが、詩乃と昼食をとるために、毎日学校にやってきた。詩乃が授業を受けている間に、家で二人分の弁当を作って、そして登校してくる。わざわざ良いよと、と詩乃が遠慮して言うと、柚子は、「定期一年分あるから、もったいないじゃん」と笑うのだった。


 しかし、そんな心穏やかな日々も、長くは続かなかった。


 十二月の二週目の終わり、詩乃のスマホに電話がかかってきた。


 電話の相手は、工業用機械のリース会社だった。父が仕事で使っていた機械の一台を長期契約で貸していて、そのレンタル料の支払いが滞っている、という連絡だった。


 その日、家に帰り、詩乃は実家から持ってきていた催促状のことを思い出し、その封筒の中身を確認した。催促状の差出人は、昼の電話とはまた別の会社だった。機械の販売会社で、父が購入した機械のローンが未払いになっているということを伝えていた。


 この二つの会社への支払いは、両方合わせると月十万にもなった。十万――それだけなら払えない額ではない。しかし詩乃は、父の銀行の口座にあった金額を何となく覚えていた。貯金としては少なく、いくらかは治療費の支払いのために引き出したが、それでも残りは、一月、二月でなくなるような額でもなかった。少なくとも、十万の引き落としくらいでは。


 もしかすると、このリース代や催促状のローンは氷山の一角なのかもしれない。


 そんな不安が詩乃の頭によぎった。


 しかしすぐに詩乃は、自分が、意図的にこのことを忘れていたのに気が付いた。父に借金があることは、何となくわかっていた。わかっていながら、新見さんとの幸せな時間のために、見て見ぬふりをしていたのだ。そうすれば問題も、うやむやに消えていくのではないかと、そんな期待をしていた。


 しかし詩乃は、それが都合の良い幻想だと思い知らされた。


 詩乃は、催促状の会社にも電話をかけて、ローンの内容を確認した。もしかしたら、父の死を伝えれば、温情をかけてくれるかもしれない。相手は、自分が高校生だということくらいは、知っているだろう。しかし、相手の対応は機械的なものだった。「お悔み申し上げます」という一言はあったが、その言葉の後は、支払いがいつになるのか、ということだけを聞かれた。まだ少し待ってほしいと伝えると、今月の二十五日までに入れてほしいと言われた。無理な場合は連絡をしてくれ、とも。


 あぁそうか、これが現実なんだな、と詩乃は思った。


 そして、馬鹿な期待をしていた自分を恥じた。


 どんなに逃げたって、自分と父の血がつながっている事実は消えない。父の借金も。逃げ回ったところで、事実は背中からついてくる。ついてきて、自分に〈清算〉を迫ってくるのだ。自分と父の間で解決できなかった問題が、借金という形をもって。それは本当の所、父だけの責任でもない。自分勝手だったのは父だけれど、関係そのものを無くしたい、捨てたいと思っていたのは自分だ。


 父への罰は死という形でやってきた。きっと〈清算〉の時なのだ。どんなに捨てようと思っても、捨てたと思っても、罪は消えず、罰からは逃れられない。その瞬間は逃げ切ったと思っても、何かの折にひょっこりと、〈催促状〉が届くのだ。


 もう逃げられないことを悟った詩乃は、いくつかの借金の相談窓口で助言を受けた後、専門家を雇うことに決め、弁護士事務所と連絡を取った。正式に依頼を出し、担当弁護士が決まるまで、三日とかからなかった。


 詩乃の心には暗雲が立ち込めていたが、クリスマスは近づいてきた。


 詩乃と柚子の話題は、自然とクリスマスのことになっていった。お出かけしようか、どこいこうか、夜どうしようか、一緒にケーキ食べたいね――そんな話の中から、ぽろりと柚子は詩乃に言った。


「詩乃君ちにお泊りとか……」


 恥ずかしそうな表情だった。


 しかし詩乃は、柚子のその目の中にある真剣さを見逃さなかった。


 一途な瞳。


 うちはまだ荷物が片付いてないからダメだよと、詩乃は断った。それならと柚子は、クリスマス・イヴに詩乃を自分の家に誘った。


「学校のクリスマス会はどうするの?」


「行かない。詩乃君と過ごしたい」


 柚子が思いの他そのことをきっぱり言うので、詩乃は柚子の招待を受けることにした。今までなら、「いいよ、行っておいて、自分のことは気にしないで」などと言っていた詩乃だったが、今回は、柚子が、詩乃にその発言を許さなかった。


 詩乃の全ての補講が終わった日――十二月二十四日の昼に、詩乃は日暮里駅近くの喫茶店で弁護士と会った。そこで、父の残した借金の全てを告げられた。わかりやすくリストアップされた借入先の名前と借入額、支払い契約の詳細、利息。全てを合わせると、二千万円を超えていた。嫌な予感はあって、覚悟はしていたものの、その数字は、詩乃にはあまりにも大きかった。


 この借金を払わないで済む、相続放棄という手段がとれることを弁護士は詩乃に話した。弁護士は年配の女性で、さすがに詩乃の境遇に同情し、これを強く勧めた。しかし詩乃は、支払うための手段は無いかと弁護士に訊ねた。弁護士は、債務整理の話を詩乃にした。しかし弁護士のその女性からすれば、債務整理をするくらいなら、相続放棄を選ぶべきだと考えて、あくまで支払おうとする詩乃を説得しようとした。弁護士の方も、すでに詩乃に残されたプラスの財産のことも大方リサーチ済みで、二千万を相殺できるような大きな財産が詩乃に残っていないことを知っていた。


「もし水上さんが任意整理をする場合でも、交渉は私が責任を持って進めます。返済計画も一緒に立てていきましょう。でも――」


 と、弁護士はそこでまた最後に相続放棄の話をした。自分の息子ほどの年齢の詩乃を見ると、弁護士といえども人間の、母親としての情が出てくるのだった。何もこんな年齢で、親の作った大借金を背負わされることはない、そんな不幸を選ぶ必要はない、そのために私がいるんだから、と。

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