雪の中(1)
文化祭の五日後にはハロウィンコンサートが、茶ノ原高校の体育館で行われた。管弦楽部、ピアノ部、吹奏楽部、合唱部が合同で作り上げる本格的なオーケストラのステージである。受付の生徒は、今年の文化祭のテーマにちなんで、海賊や魔女のコスプレをしていた。
柚子は一人で、そのコンサートを鑑賞した。女子からも、そして相変わらず柚子を横取りしようとしている男子からも誘いがあったが、柚子は全部それらを断っていた。
席に座り、コンサートが始まるまでの間、柚子は去年のコンサートのことを思い出していた。
午前中に授業が終わり、詩乃君と二人、文芸部の部室で一緒に昼食を食べた後、CL棟から体育館までの短い道を、詩乃君の大きな黒い傘に二人一緒に入って歩いた。それだけのことを、今もよく覚えている。
――今日は晴れてるけど、寒いよ。
と、柚子は心の中で、詩乃に報告した。
ハロウィンコンサートの後も、数日は、詩乃は学校を休んだ。柚子も、毎日電話をしたりはしなかった。ただ、生存確認のように、二日に一度は短いメッセージを送った。最後には必ず『返信は大丈夫だからね!』とつけて。返事は、ある日と無い日があった。
本当は柚子は、毎日でも詩乃に会いに行きたかった。しかし柚子は、自分が会いに行くことで、詩乃に何がしてあげられるのだろうかと考えて、その気持ちを律していた。たぶん、今は自分は、何もしてあげられない。支えになってあげたいなんていうのはきっと、自分のエゴなのだ。それを押し付けるようなことをしては、詩乃君を追い詰めてしまう。心配だけれど、でも私は、詩乃君の今の気持ちや抱えているものを「わかる」なんてとても思えない。
十一月も、変わらずに柚子は学校に通った。休み時間ごとに友達と笑いあって、家に帰れば、家族がいる。食卓を囲み、姉と父のちょっとした口論を、笑って母と聞いている。兄は我関せずと、食事をしながら勉強をしている。そんな日常生活の折々にふと、柚子は詩乃のことが頭によぎった。そんな時柚子の目は、詩乃が時折見せる寂しそうな瞳と同じような愁いを帯びるのだった。
詩乃の父の死から二週間と二日が過ぎた、十一月二週目の土曜日、その日は午前中授業があった。詩乃は久しぶりに学校にやってきて、一時間目から授業を受けた。担任からは特に、詩乃の親族に不幸があったことの説明をE組の生徒も受けていなかったが、そういう噂は、普段詩乃に興味の無い生徒でも耳が早く、どうやら水上は父親が死んだらしい、ということを、クラスの生徒の半分ほどは知っていた。
朝、教室にやってきた詩乃は、おはよう、と恐る恐るクラスの生徒に声をかけられた。詩乃は「おはよう」と短く返したが、心の中では、「話しかけてくるな」と思っていた。気遣っているように見せて、実際の所、皆が自分に向けている感情はそれではないと、詩乃は敏感に洞察していた。
「あぁ、水上君、久しぶりだね。おはよう」
他の生徒たちよりも明るく詩乃に声をかけたのは、千代だった。
詩乃は千代の隣の席に荷物を置いた。
「雨森さん、あの、ありがとうね」
詩乃は、千代にだけは目を見て、そう言った。
千代は早速、柚子に、詩乃が登校してきたことの連絡を入れた。
一時間目は必修、二時間目、三時間目は履修コース別の選択授業なので、一時間目が終わると、クラスはそこでバラバラになる。一時間目が終わって教室移動の前、教室の入口で千代は詩乃に声をかけた。
「水上君、文化祭のさ、柚子のダンス、もうすぐ動画の編集終わるみたいだから、できたらすぐに送るよ」
「あぁ、うん」
「あと、文芸部の部誌、すごく良かったよ。私普段本なんてあんまり読まないんだけど、文芸部のは読んじゃった」
「あぁ、本当?」
詩乃は、気さくに笑みを浮かべて応えた。
うん、と千代は強く頷いて言った。
「水上君、小説家になれると思うよ」
詩乃の頬が緩んだ。
水上君の、こんな嬉しそうな顔は初めて見たと千代は少し驚いた。一つ年下の彼――〈みっくん〉もたまに、嬉しい時に、そういう顔をする。子供の様な、純粋な笑顔。
「――なりたいけどね、先のことはわからないよ。でも、書くのは続けると思う」
「うん! 続けた方がいいよ! 水上君絶対才能あるよ!」
随分力が入った言い方だなと、詩乃は思った。慰めているのか、本当にそう思っているのかはわからない。どっちにしても真実は、自分にとって一番大事な真実は――雨森さんが自分を元気づけようとしてくれている、という一点にある。
「水上君、今日は、まだ帰らないよね?」
「うん、今日は、全部授業出るつもりだよ」
詩乃が答えると、千代はほっとした表情を浮かべた。
きっと新見さんのことを気にしているんだなと、詩乃にはすぐにわかった。
「――あ、来た来た」
千代は、A組の教室の方からやってくる柚子に気づき、柚子に小さく手を振った。柚子は、黒のダッフルコートに、スクールバックを左の肩にかけた姿で、小走りで二人の前までやってきた。
「ちーちゃん、おはよ、連絡ありがと」
柚子は弾ませた息で千代にそう言い、そして、詩乃の顔を見つめた。
柚子の必死な様子に、千代は思わず笑ってしまった。
「じゃあ柚子、また――あ、明日英検頑張ってね!」
「うん」
「水上君も、またねぇ」
千代はそう言うと、二人の元を離れた。
柚子にじいっと見つめられた詩乃は、その目の中に微かな恨めしさを見つけ、良心がちくりと傷んだ。今日登校するということを、そういえば連絡していなかった。
「ひ、久しぶり……」
目を泳がせながら、詩乃が言った。
柚子は、小さく頬を膨らませ、詩乃のブレザーの腹のあたりを握り、コツリと小さく叩いた。
「あ、ごめん、ちょっと、コート忘れた」
詩乃はそう言うと、教室に戻り、ロッカーに入れていたコートを引っ張り出した。柚子は、アヒルの雛のように、詩乃の後ろにくっついて歩いた。何も言わずにただそうされるので、詩乃は困ってしまった。
「実家の片付けがひと段落したんだよ。――やっと北千住の家に戻って来たから、久しぶりに来てみようかと思って」
柚子は、詩乃の両手の袖を握って、やはり無言で、じっと詩乃を見つめた。
「すみませんでした……」
どうしようもなく、詩乃は謝った。
柚子は、詩乃の殊勝な態度に、ぷくくっと笑った。
「おかえり」
ただいま、と言うには照れくさく、うん、と詩乃は小さく頷いた。
「実家の方、片付いたんだ」
「いやまだ、全然残ってはいるんだけど、まぁ、家具とか、回収業者が見つかったから、とりあえずはね。昨日来て、査定してもらったんだ」
「そうなんだ」
「うん、結構な額になったんだけど――スピーカーとか、二十万だよ? でも確かに、いい音だったんだよね」
「欲しくなっちゃった?」
「うん。だからスピーカーは、売ろうか迷ってるんだけど」
くすくすと、柚子は笑った。
二時間目の鈴が鳴り始めた。
あっ、と二人は天井を見上げた。
「詩乃君、今日は、三時間目までいる?」
「いるよ」
と、詩乃は答え、そこでいいことを思いついた。
「新見さん、何もなければ、放課後……」
「何もないよ!」
「じゃあ、待ち合わせしよう。ここでいい?」
「うん」
そうして二人は、一旦そこで別れ、二時間目の授業に向かった。
放課後、三年E組の教室で待ち合わせた詩乃と柚子は、二人で学校を出て、学校から徒歩十分ほどの谷中銀座に向かった。詩乃は自転車を右手側にしてハンドルを握って押し、柚子は詩乃の左肩に寄り添って歩いた。
詩乃は、昨日の夜、谷中商店街にある『たまかづら』という甘味処を予約していた。今日――十一月八日は詩乃にとって、母の命日同様に意味のある日だった。この日は、故あって、詩乃は毎年白玉団子を食べることにしていた。『たまかづら』は去年の十一月八日に、たまたま見つけた喫茶店だった。
店は予約済みで、人数が一人増えますという連絡も、二時間目の授業に出る前に店に連絡していた。しかし詩乃は、新見さんを連れて行っていいものかどうか、学校を出てからずっと悩んでいた。
「どこに行くの?」
と柚子が聞いても、詩乃は曖昧な声を発するだけで、答えなかった。詩乃の足取りは、間違いなく目的地に向かって進みながらも、のろのろと、気が進まないようだった。
甘味処『たまかづら』は、商店街の道の角にある小さな店だった。三階建て、木造風の黒壁と入口の奥まった感じは、高校生では少し入りずらい、高級そうな印象を与える。
詩乃は店の前で歩みを止め、店の一階から三階までを見上げた。
「ここ?」
「うん……」
詩乃は頷くと、自転車を店の前の小さな駐輪スペースに置いた。今更悩んでも仕方がないと思い、詩乃は柚子を連れて店に入った。帳場には紺の割烹着を着た年配の女性の従業員がいて、いらっしゃいませ、と品の良い笑みで二人を迎えた。
「――はい、水上様ですね。こちらでございます」
二人が案内されたのは二階の個室だった。掘り炬燵の座席に、艶々した黒い木製テーブル。丸い小さな障子窓が壁にしつらえてある。二人はテーブルをはさんで、柚子は目を輝かせ、詩乃は複雑な表情で座った。
「詩乃君、素敵なお店知ってるんだね」
「たまたまね」
「初めて?」
「ううん、二回目」
そうなんだ、と柚子。
詩乃は柚子の前にメニュー表を広げて置いた。柚子はありがとうと礼を言って、メニューを見た。うどん、味噌にぎり、団子、その他は甘味ばかりである。自分はそれで良かったが、どこかで昼食をとってからの方が良かったかなと、詩乃は思った。
「新見さん、お腹は? うどん食べる? あと、お昼っぽいのは、味噌おにぎりと、団子くらいかな」
柚子は少し考えてから応えた。
「でも折角だから、甘いの食べる。何がいいかなぁ」
そう言って、柚子は引き続き甘味を選んだ。