それだけのこと(6)
『駅に到着。あと十分くらいで着くからね』
詩乃のスマホに、柚子からそんなメッセージがあったのは七時ごろだった。
斎場は、駅から徒歩十分ほどの、賑やかな通りに面した場所にある。詩乃はベージュのロングコートを着て、斎場の入口に出た。十分、と言いながら五分ほどで、柚子が現れた。赤バラを連想させる鮮やかな赤い色のコート。
詩乃は自分も喪服で、最近はずっと黒っぽい物ばかり見ていたので、柚子の赤には、救われたような思いがした。詩乃を見つけた柚子は、一直線に詩乃に近づいた。笑顔かなと詩乃は思ったが、近づいてきた柚子は、ぱっちりと目を開き、昂った感情を理性で押さえつけたような顔つきをしていた。詩乃は何となく、ハヤブサを思い出した。
「詩乃君……、大変だったね」
柚子は、手提げとスクールバックを左手に持ち替え、空けた右手で詩乃の背中を抱き寄せた。突然そうされて、詩乃は驚いてしまった。
「大丈夫、大丈夫」
詩乃は軽く柚子を抱き止め、コート越しにその背中を撫でた。
柚子から離れて、詩乃は改めて柚子を見た。
詩乃は弱い笑顔を浮かべながら言った。
「本当に来るとは思わなかったよ」
柚子は応えず、じっと詩乃の顔を見つめた。
あまりに真剣に見つめられるので、詩乃は目を逸らし、式場を振り返った。
「中入ろう」
詩乃は柚子の荷物を貰うと、柚子を連れて、式場の控室側の入口から中に入った。細長い控室の真ん中には長テーブルと椅子が置かれ、その奥には和室がある。また、横には扉があり、その奥が式場になっている。
詩乃は、柚子と一緒に、控室奥の和室に上がった。
和室は六畳の広さで、その中央には四角い木製テーブルが二畳をまたいで置かれている。テーブルの上には、A4のコピー用紙とメモ帳、万年筆にボールペンが、赤、青、黒と一本ずつ転がっている。
詩乃は柚子のコートを預かり、壁際のコート掛けにかけた。その隣に、自分のコートもひっかける。
「お茶入れるから座ってね」
「いいよ、私がやるよ!」
柚子はそう言うと、ポットの湯を沸かし、急須の中の古い緑茶パックを捨て、新しいのを入れた。そうして、詩乃の向かい側に座った。
柚子は、詩乃が本当に一人でいるということに、衝撃を受けていた。
「遠かったでしょ」
「全然近かったよ」
詩乃の言葉に、柚子は応える。
「詩乃君、この度は……」
「いいよいいよ、そういうのは。全然悔やまれることないんだから」
詩乃は、喪服のジャケットを脱いで、部屋の隅に投げ捨てた。ふうっと息をつき、体の後ろに手を置いて上半身をのけぞらせる。柚子は立ち上がり、詩乃が放ったジャケットの前に正座して、膝の上に拾い上げた。ジャケットの内側に、柚子は微かな温もりを感じた。
「あぁ、置いておいていいよ」
柚子は詩乃の言葉には首を振り、皺を伸ばすと、自分のコートの隣に、詩乃のジャケットを掛けた。柚子がジャケットをかける丁寧な所作の――その後ろ姿を見ていた詩乃は、そんなことをさせている自分を情けなく思った。
柚子はもといた座布団の上に戻った。
詩乃は俯いている。
給湯器が湯気を吐き出したので、柚子は急須に湯を入れ、急須をくるくると回した。
「はい、詩乃君」
柚子は、テーブル隅のお盆から湯のみを取って茶を入れ、詩乃に渡した。
「ありがと」
詩乃は湯呑を受け取り、ふうっと、息を吹きかけた。
柚子は自分にも茶を入れて、詩乃と同じようにして、火傷をしないようにゆっくり、湯呑に口をつけた。一口飲んだ後、両手で湯呑を持つ詩乃の姿は寂しく、柚子の方が辛くなってしまった。
お茶を一杯飲む間、二人の間に会話はほとんどなかった。
柚子は、詩乃にかける言葉を探したが、見つからなかった。本当は、文化祭の話もしたかったが、詩乃の気持ちを考えると、とてもそんな浮かれた話は出来なかった。詩乃の方は、柚子が自分のことを思って作る沈黙を、肌に痛いほど感じていた。柚子の思いやりに値する言葉はないものかと、詩乃は、ぼんやりした頭で考えていたが、詩乃の方も、丁度良い表現や言葉は見つからず、沈黙は続いた。
「明日、お葬式?」「うん」、「後夜祭、良かったの?」「うん」――ぽつり、ぽつりと、思い出したかのようにどちらかが聞いては、素朴な相槌でもう片方が応える。詩乃は伏し目がちで、柚子はそんな詩乃を、黙っている間も見つめていた。
「小説、書いてたの?」
テーブルの上に散らばった紙には、詩乃の走り書きの文字。人に見せるために書くときは、蘭亭序に見る王羲之の風格の漂った格好良い行書を書く詩乃だったが、小説の草案やメモ書きを書く時の走り書きは、ほとんど、詩乃にしか解読できない暗号のようになっている。
「あぁ、うん」
詩乃は、小さく笑って頷いた。
「書こうと思ったんだけど、小説にはならなかったかな。ただ、書いただけ」
ばらまかれた紙と走り書きの文字。走り書きというよりも、殴り書きのような文字。今目の前にいる詩乃君は落ち着いて見えるけれど、本当は、やっぱり心の中は、このテーブルと同じような状態なのかもしれないと柚子は思った。
「こんな時にね」
詩乃が言った。
「でも、全然悲しくないんだ。好き勝手生きた父親だったから、どっちかっていうと、死んでほっとしてる」
「そっか……」
柚子は「わかるよ」とも言えなかったが、詩乃と父の間に確執があるのも良く知っていた。詩乃君がお父さんに抱いている感情は、反抗期にありがちなそれとは、根本的に違うということも。
「……でも詩乃君、よく頑張ったと思うよ。お父さんのためにご飯作ってあげたり、色々やってあげてたんでしょ。実家から学校通うのも、大変だったよね」
「それは結局――」
流されてそうしてただけだよと、詩乃はそう続けようとして、喉で言葉がつかえた。
詩乃は息を吸い込んで喉の緊張を解いた。
「本当は、やりたくなかったよ」
詩乃は応えた。
「勝手に倒れて、勝手に死ねばいいって思ってたのに、なんだかんだ看病してたのが、本当に悔しいよ。死んじまえって、一言でも言えなかったのが、本当に……」
詩乃は、目元に滲んできた涙を乱暴にぬぐった。
「お父さん、ここにいるの?」
「うん、式場で寝てるよ」
「顔、見てもいい?」
「あぁ……そうだね。うん」
詩乃はそう応えると、柚子を控室から隣の式場に案内した。学校の教室を縦に二つ並べたくらいの大きさの式場、すでに祭壇も、参列のための椅子も整えてある。白い生花の祭壇には、父の笑っている写真が掲げられ、祭壇の両脇には供花が二基ずつ出されている。詩乃は柚子を連れて経机を回り込み、木棺の前にやってきた。棺の小窓は開いていて、柚子はこの時に初めて、詩乃の父親と対面した。
じっと、父の顔を見つめる柚子を見て、詩乃は、父が生きている間に一度は、新見さんを合わせるべきだったと、その時初めて、強く後悔した。新見さんも、口には出さなかったけれど、たぶん、一度は会っておきたかったはずだ。
「――会わせたくなかったんだ」
詩乃は、柚子に告白した。
「でも、ごめん……新見さんには、会わせるべきだった」
柚子は、首を垂れる詩乃の肩を撫でた。
「いいよ、気にしないで。……私こそごめんね、こんな、押し掛けちゃって」
鼻を啜りながら、柚子が言った。
それから柚子は、両手を合わせ、目を閉じた。
こんな可愛い子に手を合わせてもらえて、良かっただろと、詩乃は心の中で父に言った。柚子が合掌を解いた後、詩乃は椅子に座って腕を組み、祭壇全体を眺めた。詩乃の複雑な心の内を思い、柚子は詩乃の傍らに立って祭壇を眺めながら、詩乃の沈黙に付き合った。
やがて、詩乃は口を開いた。
「――新見さん、明日も学校あるんだから、もう大丈夫だよ」
柚子は詩乃に微かな笑みを浮かべて言った。
「明日振り替え休日だよ」
「あぁ……そっか。でも――」
「詩乃君、夕ご飯は食べた?」
「あ……」
詩乃はそう言われて初めて、自分の空腹を思い出した。近ごろは、空腹が普通の状態になっているせいで、腹が減っていても気づかない詩乃だった。今日も、今朝コンビニで塩にぎりを一つ食べたきり、後は何も食べていない。
「私、何か買ってくるよ」
「いいよそんな――」
「ダメだよ、ちょっとでも食べないと」
柚子は、そう言って、詩乃の様子を観察した。もし、本当に嫌がっているのなら、大人しく帰ろうと思った。しかし詩乃は、嫌がっているというより、はっきりした態度が取れず、困っているだけのように柚子には見えた。きっと、私のことを考えて困っているのだろうと柚子は思った。夜遅くなる前に私を帰そうと、そんなことを考えているのだ。
「詩乃君もお腹空いてるでしょ?」
「……新見さんは、夕食はまだなの?」
「うん、私もお腹空いちゃって」
詩乃は難しい顔をしたまま、頼りない口調で言った。
「食べるんだったら、一緒に買い出しは行くけど……」
柚子は温かい微笑を浮かべて、詩乃の手を両手でぎゅっと握ると言った。
「ね、行こ、詩乃君」
うん、と詩乃は、わがままが通らなかった子供の様に頷き、二人は夕食の買い出しに行くことになった。駅地下のスーパーに行くと、閉店三十分前で、惣菜や飯類やパンが半額になっていた。詩乃は、柚子が気に入ったものを片っ端から買い物かごに入れた。
閉店の音楽とともに店を出て、二人は斎場に戻った。和室のテーブルに、買ってきた夕食のプラスチック容器を広げると、ちょっとした晩餐会のように、テーブルの上は随分賑やかになった。エビチリや焼き鳥、コロッケ、ミートボールに天ぷら、キクラゲのサラダなど、ちょっとずつかなりの種類の料理を買ってきていた。半額をいいことに買いすぎたかな、とも詩乃は思ったが、二人で並べた料理を見ると、少し楽しい気分になるのだった。
夕食の後、柚子は十時ごろまで詩乃と一緒にいて、そして、帰っていった。柚子は、出来ることならもっとずっと――詩乃が許すなら寝ずの番も一緒に、詩乃と過ごしたかったが、詩乃を心配させるのも悪いので、帰ることに決めたのだった。
翌日、葬儀は午前中に執り行われた。父の仕事の関係者が、ぽつりぽつりと参列し、帰っていった。幾人か、父が脱サラする前の旧友も訪れた。詩乃の学校関係者では、神原教諭と副校長が教員の代表として参列した。柚子、千代、紗枝の三人も連れだって参列した。喪服を着、悲しそうな表情の三人を見ると、詩乃は申し訳ない気持ちになってしまうのだった。そして、三人がそっとやってきて、そっと帰って行ったのは、詩乃にとっては有り難かった。
葬儀の後、告別式は行わないことになっていた。父の棺を霊柩車が乗せ、詩乃は位牌を持ってハイヤーに乗り、火葬場に向かった。二十分ほどで到着し、火葬場に着くと、三十分程度の待ち時間があった。その後、白手袋をはめた職員が待合室にやってきて、詩乃は火葬炉に案内された。
エレベーターのような炉の前に、父の棺桶が運ばれて置かれていた。同じような炉がその部屋には他に三基あり、一組の親族が、ちょうど詩乃と同じように、故人の棺桶を前にして最後の時間を過ごしていた。
首元まで花で敷き詰められた父の顔を、詩乃は小窓から覗いた。これほど花の似合わない人間もいないのになと、詩乃は思った。しかし、父のことは嫌いでも、これが父の顔を見る最後だと思うと、何とも言えない口惜しさが胸に込み上げてくるのだった。焼却炉に入れてしまえば、その後はもう、父は骨だけになる。母がそうだったように。
「お願いします」
詩乃が告げると、職員は機械を操作して、炉の扉を開けた。エレベーターよりも厳かに、その銀の扉は開いた。棺桶が炉の中に押し込まれてゆく。不意に、「待って」と言いたくなる衝動をぐっと堪える。
一時間ほどで火葬が終わり、その後は、職員に骨の説明を聞きながら、父の骨が白い骨壺に入れられていくのを、詩乃は時折相槌を打ちながら見物した。父の骨はまだ丈夫でなかなか骨壺に入りきらず、ガリガリ、ゴリゴリと職員が骨を潰していくのを、詩乃は見ていられず、その作業の最中は、詩乃は顔を背けて拳を結んでいた。
火葬場から骨壺を持って斎場に戻り、そこから詩乃が実家に帰ってきたのは夕方、日の落ち始めるころだった。