それだけのこと(5)
全然良くない、と柚子は思った。
詩乃君が思ってるほど、私は今日、楽しくない。ステージは大成功だったけれど、私には詩乃君が足りない。そういうこと、詩乃君にはわかってほしい。だからそんな声で、私が楽しめてるなんて無責任に、そんなこと言わないでよ――柚子は口を開いた。
「ホントは、楽しくないよ」
『え?』
「だって、詩乃君いないんだもん。――やっぱり、何があったのか気になるよ。迷惑かもしれないけど、でも、気になるんだよ。私、そんなに邪魔かな? 詩乃君の力になれないかな?」
柚子が言うと、詩乃は電話の向こうで沈黙した。
柚子は、詩乃の答えを待った。
このまま電話を切られるかもしれないけど、でも、もうずっと、何かを隠したまま話している。それはもう嫌だと柚子は思った。
長い沈黙の後、詩乃が応えた。
『今日、お通夜なんだ……』
「お通夜……?」
『うん』
柚子の頭に、最悪の予感が差し込む。
「……親戚?」
『父親の』
柚子は息を止めた。
確認のために、聞き間違いを期待して聞き返す。
「詩乃君の、お父さん?」
『うん。――三日前にね』
三日前――停滞する柚子の頭が少し動いて、三日前の出来事思い返す。ちょうど、詩乃君から、しばらくは学校にいけないという連絡をもらった日だ。
『――ごめん、文化祭に水を差したくなかったんだ。自分は大丈夫だから、新見さんは最後まで文化祭、最後なんだから、楽しんでよ』
詩乃がそんな事を言う。
柚子は、頭の整理がつかず、言うべきことも見つからず、唇を震わせていた。詩乃の悲しみや孤独感を想像すると、それは遥かに底知れず、柚子は恐ろしくなってしまった。
『落ち着いたら電話するから、だから、そんなに心配しないでよ。だいたい父さんなんて、ずっと死んでたようなものなんだから、今更何ともないよ』
そう言われても、柚子は、言葉が出てこなかった。
詩乃の気持ちと、そんな時に自分は、という自分に対する感情がごちゃごちゃになって、言葉も何も思い浮かばない。
『新見さん?』
「うん。ごめん、ごめんね……でも、詩乃君、そうなんだ……お父さん――」
柚子は悲しくなって、涙を零した。
それは、電話の奥の詩乃にも、気配で伝わった。
『……十五分だね。新見さん、また連絡するよ』
「でも、詩乃君――」
辛くないの? 本当に大丈夫なの?
柚子は、心の中で詩乃に訊ねる。
『大丈夫だから。新見さんは、文化祭を楽しんで。文化祭を楽しんでいる新見さんがいると思うだけで、嬉しいんだよ。それがまぁ、慰めみたいなものかな。あ、別に、慰めが必要なことなんて何もないけどね』
最後は少し早口になって、詩乃が言った。
柚子は、こくりと頷いた。
『じゃあまたね。電話ありがと』
そう言うと、電話は詩乃の方から切られた。
柚子は顔を上げた。鏡に映る自分の頼りなさを見て、柚子はさらに不安になった。胸元のネックレスが、寂しく煌めいていた。
文化祭の全てのイベントが終わり、柚子はA組に戻った。模擬店の片付けがある。夕日が沈む前に片付けてしまおうと、皆テキパキと働いた。受験生も、今日だけは、それぞれに打ち上げの予定がある。
柚子は黙々と、段ボールをまとめる作業をしていた。声をかけられたり、ステージ発表を褒められると、その時はにっこり笑って対応するが、それが済むと、柚子の顔から笑顔が消える。その様子を、玉子の空パックをハサミで切りながら、紗枝は見ていた。
「新見さん、何かあったのかな」
紗枝にそう聞いてきたのは、匠だった。
あんた同じダンス部なんだから、何か知らないの、と紗枝は目で匠に詰問する。
「怒ってるのかな」
匠が言った。今日は、玉子を数パック丸々ダメにしてしまった失敗をやらかしている匠である。まさか新見さんがそんなことで怒るとは思わないが、そうだとしたら、今すぐにでも土下座をして許してもらおうと思っていた。
「怒っちゃないでしょ」
紗枝は、匠にハサミを渡しながら答えた。
匠は紗枝の隣にしゃがみ、紗枝に倣って、空パックをハサミで切って、大きなゴミ袋の中に入れる作業を始める。
「悪口でも言われたかな」
「いやぁ、違うと思うけど――」
匠の発言を、紗枝はすぐに否定する。
「はぁ……聞いてみるかね。――柚子、こっち手伝ってよ」
紗枝が柚子に呼びかけると、柚子はぴくりと顔を上げた。それから、小さく「うん」と頷くと、紗枝の隣にやってきた。床に転がっていたハサミを手に取る。
シャキシャキ、シャキシャキと、プラスチックの容器をを三人で刻む。
頃合いを見計らって、紗枝は柚子に聞いた。
「柚子、何かあった?」
聞かれて柚子は、「うーん」と、曖昧に、悩むような生返事を返した。
「水上がいなくて、寂しかった?」
柚子はハサミを切る手を止めた。
紗枝もハサミを止める。
「いっつ……」
匠は、手元が滑って、プラスチックの端で指を切ってしまった。
「あ、タク君、大丈夫?」
柚子は手提げのポケットから絆創膏を取り出して、匠に渡した。
「ドジ」
「うっせ」
匠は、紗枝と軽いやり取りをしながら、柚子から絆創膏を受け取ると、それを、傷口に張った。匠が絆創膏の残り紙をゴミ袋の中に放り、再びハサミを握ったところで、柚子が口を開いた。
「今日、ステージの後水上君に電話したんだけど――水上君のお父さん、亡くなったって」
柚子が言うと、紗枝と匠は、ええっと、声を上げた。
「いつ?」
紗枝が質問する。
「三日前だって」
匠も紗枝も、開いた口から息を吸い込んだ。
「じゃあ、それで休んでるって事?」
紗枝の質問に、柚子が頷く。
「マジかよ……」
匠は、左手で額を覆う。
「そういえば、柚子に連絡あったのって、三日前じゃなかったっけ?」
紗枝の言葉に、柚子は頷く。
「たぶんあの日、お父さんが亡くなった後、電話してくれたんだと思う」
柚子の唇は震えていた。
あの時の詩乃君の声は、確か、落ち着いていた。大丈夫だからと、その時も、そう言っていた。
「今日お通夜ってことは、明日お葬式?」
紗枝に質問されて、柚子は初めて、そのことに気が付いた。
「そっか……そうだよね」
「何時から?」
わからない、と柚子は応えた。すると、紗枝は眉を寄せた。
「え、言われなかったの?」
「うん」
「水上、何だって?」
「大丈夫って……」
紗枝は少し考えてから言った。
「――いやでも、それは私も出るよ」
「お葬式?」
「うん、知らない仲じゃないし、だって、水上でしょ? お父さん、何の仕事してるんだっけ?」
「樹脂加工の自営業だって言ってた」
柚子は紗枝に答えた。
匠は、ハサミを動かしながら、詩乃の境遇を思って悩んでしまった。父親とよく口論になる自分が、ひどく子供っぽく思えてくるのだった。
「場所は、どこでやるの? 実家の方かな?」
「わからない……」
「柚子、それはちゃんと聞いた方がいいよ」
「でも、水上君、大丈夫って言うんだよ……聞いていいのかな」
紗枝は腕組みをして、ダルマのような険しい顔つきになった。紗枝の家では、自分の家はもちろん、その親せきや、近隣住民でも、冠婚葬祭はしっかり連絡を取り合って、できる限りは参加する、それが普通だった。
「家族葬なのかね」
紗枝の疑問に、どうだろうと柚子も考えた。
そしてふと、以前詩乃が、自分には親戚がいない、と言うようなことを言っていたのを思い出した。父方の親戚は音信不通で、母方の方も、ほとんどいないようなものだと言っていた。そこまで思い出して、柚子はひやりと、嫌な予感がした。
「詩乃君、一人じゃ、ないよね……?」
小さく柚子が呟く。
紗枝と匠は、顔を見合わせた。二人は、詩乃の親戚のことまでは知らない。
匠は、少し考えてから言った。
「なんで水上君、通夜のことを言ったんだろ」
「え?」
柚子は、匠の顔を見る。
「いやだってさ、たぶん、水上君は隠してたわけだろ、今日まで。なのになんで今日……来てほしくなかったら言わないんじゃないか? 水上君は、ペラペラ口の軽いような男子には思えないし」
言われてみれば確かにそうだと、柚子も思った。詩乃君が本気で隠そうとしたら、絶対に言わないはずだ。そのつもりで、お父さんの亡くなったことを今日まで伏せていたのだろう。お葬式のことも、言わなかった。
隠し通すつもりが、思わずぽろっと言ってしまったのだろうか。
そうだとしたら、それはやっぱり、詩乃君のSOSのサインなのではないだろうか。
「確かに」
紗枝は、匠の意見に強く頷いて同意を示した。
「水上、わかんないんじゃないの、どうしていいのか」
「うん、それに、大丈夫ってさ、本当に大丈夫な奴は言わないと思う」
紗枝と匠は、次々にそう言った。
その二人の意見は、どっちも、その通りだと柚子は思った。柚子は、心の中の靄ついていたものが、さっと吹き飛ばされたような気がした。
「そうだよね。うん、聞いてみる」
柚子はそう言うと、スマホ片手に廊下に出た。
今日二回目の電話。
一日十五分の約束を破ってかける電話。
でももう、そんなの関係ない。詩乃君にはきっと――たぶん、絶対に、助けが必要なんだ。もし詩乃君の言っていた通り、親戚が一人もいなかったとしたら、詩乃君が一人だったとしたら、私は――。
『もしもし、新見さん? どうしたの?』
「あ、詩乃君。あのさ……詩乃君今、親戚の方と一緒?」
『親戚? 親戚はいないよ』
ドキンと、柚子の心臓が痛みを訴える。
「……一人?」
恐る恐る、柚子が訊ねる。
『まぁ、うん。一人だよ』
弱弱しい笑い声の息遣いとともに、詩乃が応えた。
柚子は、右手の拳を握った。
「詩乃君、今どこにいるの?」
『今? 実家の方の斎場だけど――』
「住所教えて」
『え、住所?』
「うん。今日、お通夜なんでしょ」
『そうだけど……いやいいよ、気にしないでよ。家の問題だし、自分は本当に――』
「いいから教えて!」
電話の奥で、詩乃はたじろいでいた。
こんなに怒ったような新見さんの厳しい声は、滅多に聞かない。
『わ、わかった。えっと、ちょとじゃあ、電話切った後でメッセージに入れる』
「うん。――詩乃君、私今日、そっち行くから」
『えぇ!? いや、大丈夫だよ。打ち上げあるでしょ?』
「なんでそんなこと気にするの! それどころじゃないでしょ! 行くから」
柚子はそう言うと、電話を切った。
柚子の怒った声に、廊下に出ていた生徒たちは驚いて、固まっていた。柚子は教室に戻ってくると、スマホを手提げのポケットに入れ、スクールバックを引き寄せた。
「二人ともごめん、私ちょっと、水上君の所行ってくる。一人だって」
先ほどのまでの頼りなさげな態度が一変、柚子の顔つきは強く、凛々しくなっていた。
紗枝と匠は、頷いた。
「いっといで、こっちは全然大丈夫だから。あ、お葬式のことも、分かったら教えて」
「うん。――皆も、本当にごめん、でもちょっと、今日だけは許して」
教室で片付けをするクラスメイトに、柚子は手を合わせて頭を下げる。
いっといでいっといで、とA組の生徒たちは、柚子を促した。学級委員長としての柚子の頑張りは、皆良く知っていたので、否を唱える生徒などは一人もいなかった。柚子は、教室の後ろのロッカーから深紅のダッフルコートを取ってそれを着て、もう一度皆に謝りながら教室を出た。廊下で片付けをしている生徒たちを通り過ぎながら階段を降りる。
正門を出て日暮里の駅に向かう途中に、詩乃からメッセージが入った。
斎場の住所が書いてある。
柚子は早速ナビゲーションアプリで道を調べた。