それだけのこと(4)
「よろしくね。千葉ちゃん、緊張してるの?」
柚子は、からかうように美祈に言った。
「……はい。だって、先輩と、最後ですよ」
美祈は、真っすぐに柚子を見つめた。
柚子は、やんわりとした笑顔を美祈に向ける。
「先輩と、もっと一緒に踊っていたかったです」
美祈の目に涙が浮かぶ。
普段美祈は、感情を表に出す女の子ではなかった。そんな美祈の涙に、他の後輩たちも、泣き出してしまう。舞台前になに泣いてるのと、柚子と千代は慌ててしまう。そんな千代の目にも涙が光っていた。
なんだか、良いステージになりそうだなと、柚子は後輩たちを宥めながら思った。詩乃君がいないことは心残りだけど、いると思って、目一杯踊ろうと柚子は気持ちを入れ直した。
暗闇の中、静かに幕が上がった。体育館の、立ち見が出るほどの観客は、始まりの雰囲気を感じ取って、声を潜めた。二本の白いライトが舞台の真ん中を照らした。背の高い丸椅子が一つ、ぽつんと置かれている。舞台上の、ライトの当たっていない暗がりにはベンチが二つ置かれ、その上で、ツーペアのカップルがねっとりとキスを交わしている。
静寂を破って、悲鳴のような歓声が上がる。
たっぷり取った間の後に、不意に舞台袖から、青いドレスを着た女性が現れた。
「千代じゃない!?」
「千代ー!」
青ドレスの千代は、手に怪しげなアルミのアタッシュケースを持っている。ツカツカと、靴の音を響かせて、真ん中のライトアップされた椅子までやってきて、バックを、その椅子の上に置いた。
バタン、という大きな音が、体育館に響く。
その音の反響音もすっかり聞こえなくなったころ、千代が出てきた方と反対側の舞台袖から、シルバーズボンに赤ワイシャツ姿の柚子が現れた。ヒーローが登場した時のような歓声が沸き起こる。
「柚子―!」
「新見先輩!」
マイケルジャクソン扮する柚子は、熱い声援を浴びながら、千代のもとへと歩いてゆき、千代と、バックを挟んで向かい合う。
いつ踊り出すんだ、曲が始まるんだという緊張感の中で、千代はおもむろにロックを外して、バックを開けた。柚子はバックの中に手を入れて、キラキラ銀色に輝くジャケットを取り出し、千代に渡した。青いドレスの千代はそれを受け取ると、柚子に着せた。
柚子はバックから、中折れ棒を取り出した。今度はそれを、千代が柚子の手から奪う。千代はその帽子を、自分の身体のラインを撫でるようにして胸元に持って行き、鎖骨から仰け反らせて喉、そして顎の先へと、帽子のつばを移動させる。
柚子は千代の帽子を持つ手首をつかみ、引き寄せ、その手の甲にキスをするようにして帽子を取り返し、そして、それを被った。たっぷり時間をかけた二人のエロチックな絡みと、暗がりのカップルのシルエットが、見る者の興奮を掻き立てる。
全て、振り付けを考えたのは柚子だった。
どうしたらこんな振り付け思いつくんですかと後輩に聞かれた柚子は、秘密、とだけ答えたものだった。
いよいよ曲が始まると、スポットライトの本数が増え、舞台上のライトにも明かりが灯った。柚子と千代、そしてベンチにいカップル役の四人が踊り始める。前奏間に、オーバーコートの生徒が舞台を横切って、椅子とアタッシュケースを回収し、舞台袖に戻ってゆく。
柚子が踊り始めると、歓声と、拍手が沸き起こった。
舞台袖でオーバーコートを脱いだ美祈はそれを聞いて、息を吸い込んだ。
ダンスそのもののスキルやテクニックは、私の方が上手いと思う。でも、新見先輩には、圧倒的な華がある。そこに美祈は憧れていた。新見先輩のダンスは、特別なことをしていなくても、ターン一つで皆を釘づけにしてしまうような、理屈を超えた魅力がある。顔の綺麗さのためか、すらりと伸びた四肢のためか、胸や腰やヒップの、メリハリがありながらもバランスの取れた曲線美のためか――とにかく、新見先輩のステージには、特別な熱がある。
これから、新見先輩と踊るんだ――そう思うと美祈は、緊張と期待感で心臓が高鳴り、身体は勇み立って震えた。
『Billie Jean』の曲が終わると、ライトが消えて暗転となる。美祈のいる舞台袖に戻ってきた柚子は、「頑張ろう!」と、囁き声で美祈に微笑むと、急いで、次の曲の衣装に着替える。舞台袖にいた男子が、慌てて柚子に背を向ける。
「あ、ごめんごめん」
柚子は頬を赤くして、男子生徒たちに謝った。
「先輩、待ってます」
美祈はそう言うと、照明を落としている舞台の上に出て行った。
程なく、大人っぽい妖艶なジャズ音楽が流れて、舞台にライトがあてられる。音楽は、ジャズ研に作ってもらったものである。舞台の上にはドレスの女子が千代含めて三人、スーツ姿で男装した女の子が七人出ていて、ゆったりと煙草を吹かしたり、酒の入ったグラスを持ち、女を口説いたりしている――そういう演技をしている。
もうじき銃声が鳴り、ライトが落ちる。
ジャズサウンドは消え、微かな沈黙が体育館を包む。
短い暗転。
そしてライトが付いた時、舞台の中央には、白スーツ姿の主人公――柚子のマイケルジャクソンが登場し、音楽がかかる。もう一度マシンガンの銃声が響き渡り、CD盤よりもアップテンポの『Smooth Criminal』の音楽が流れる。皆の歓声と同時に、ダンスが始まる。スーツ男とドレスの女が交差し、千代のセクシーな踊りと、美祈のキレのあるステップとバク中の大技が皆を沸かせる。
柚子は頭の中で良いイメージを膨らませた。
銃声が鳴った。
ライトが消え、舞台が暗くなる。
よし、と柚子は白い帽子を片手に、舞台中央へと向かった。
発表の後、柚子たちは体育棟の二階、いつもダンス部が活動している多目的ダンスルームに集まった。舞台袖から一旦体育館を出て、体育棟の正面玄関からもう一度体育棟に入って階段を上り、ダンスルームに行く――その皆の足取りは、興奮のために駆け足になっていた。
ダンルルームに入るや、二曲を踊り切ったダンス部の一年生、二年生たちは、うわーっと、大きな声を上げた。すごい舞台をやったんだ、という魂の叫びだった。学年関係なく、舞台衣装のまま抱き合って、ぴょんぴょん飛び跳ねる。
「お疲れぇー!」
千代は、部屋に入るなり、後輩たちに言った。
後輩たちは、叫び声で返事をした。緊張からの解放と、やりきったという達成感から、皆泣いている。まだこれからダンス部の一年生と二年生は、〈コラボレーションステージ〉の出演がある。それなのに、皆、さっきの十五分がラストステージだったかのような感動の仕方をしている。
それから少し遅れて、白スーツ姿の柚子が、部屋に入った。
柚子が部屋に入るなり泣き崩れる後輩が一人、二人出てきたので、柚子はええっと、驚いてしまった。
「みんなすごく良かったよ、どうしたの!?」
柚子は、ぺたんと腰が抜けたように座り込んでしまった後輩を、屈んで慰めながら、皆に言った。千代はもらい泣きの涙を光らせて、笑みを浮かべている。二曲目で大技を決めて客を沸かせた美祈は、ダンスルームの真ん中に体育座りをして、ぼーっと天井を見上げている。
「ねぇ柚子……ありがとね」
千代は、柚子に言った。
何のこと、と柚子は首を傾げる。
「なんか、今回の発表、ずるい誘い方しちゃったから、ちょっと罪悪感あったんだ。でも、やれてよかった。私の我が儘かもしれないけど。最高の舞台だった。過去一かな、私の中じゃ」
興奮に顔を上気させながら千代は言って、額に滲んだ汗をタオルで拭った。
柚子は、千代の言葉に、じーんとしてしまった。ちーちゃんは、そんな風に思っていてくれたんだ、と。
「水上君にも見せてあげたかったね」
千代が言った。
詩乃の名前が出てくると、柚子は、急に胸に込み上げてくるものがあった。
「――ちょっと、着替えてくるね」
柚子は千代にそう言うと、自分の制服の入った手提げを持ってダンスルームを出た。階段を上がり、三階の更衣室に入る。更衣室の奥にはシャワールームがあるが、今は誰も使っていず、更衣室は静かで、シャワールームの電気は消えている。
柚子は髪をほどき、ジャケットを脱ぎ、赤シャツのボタンを外した。衣擦れの音と自分の息遣いが、柚子の気持ちを落ち着かせた。肌にぴったり張り付いた鼠色のスポーツブラを取り去り、息をつく。白いスラックスに裸の上半身――洗面台の鏡に映る自分の姿を、柚子は眺めた。
私の裸は、詩乃君の目から見るとこんな風に映るんだな、と柚子はそんな事を思った。膨らんだ乳房と臍があるだけで、他に面白いものは何もない、見慣れた上半身。自分の胸を見ると、柚子はいつも、寄せ豆腐を思い出す。あるいは、中華街で食べた桃まんを。しかし柚子は、胸よりも、ちょこんと縦長の臍のほうが、自分の身体のパーツとしては好きだった。見ていると、なんだか面白い。
柚子は、臍の上、鳩尾のあたりを手で撫でた。今になって、舞台の緊張を思い出し、震えが出てくる。柚子はぐいっと肩甲骨を引き絞り、両手を伸ばした。ふうっと、吐息が漏れる。
――やっぱり、詩乃君に電話しよう。
柚子はそう決めると、残りの服を脱ぎ棄て、熱いシャワーを浴びた。
スポーツタオルで体の水滴を拭き取り、髪を乾かした。下は制服のスカートまでを穿き、そこで柚子は、思いついてネックレスをつけた。裸の上半身の、胸の谷間に詩乃から貰ったネックレストップが輝く。それを鏡で見て、柚子は無性に興奮してしまった。
いけないいけないと、その後は、ちゃんと上半身も制服を着て、ソックスも履き、洗面台の横に置いておいたスマホを手に取る。最後にもう一度だけ、本当に電話していいかどうか考える。それから決意して、柚子は詩乃に電話をかけた。
電話はすぐに繋がった。
「もしもし、詩乃君?」
『うん』
「今電話、大丈夫?」
『大丈夫だよ』
柚子はそれだけで、ほっとする。
もう片方の手で、ネックレスに触れる。
『今、まだ文化祭だよね?』
「うん。でも、今日はもうステージおしまい。さっき終わったところなんだ」
『楽しめた?』
「うん、すごく良いステージになったよ。詩乃君に見せられないのが残念」
電話の向こうで、詩乃の小さな笑い声があった。
何とも言えない、儚い笑い声。
柚子は詩乃を楽しませようと、今日の面白かったことや、ダンスステージのことなどを詩乃に話した。
『――新見さんが楽しめてて良かった』
詩乃の声は妙に落ち着いていた。