それだけのこと(3)
心電図の電子モニターのアラームが消されると、詩乃は、ほっと息をついた。
その後は、あっという間だった。
病院の地下の霊安室に移動し、そこで、葬儀屋と通夜や葬儀の日取りなどを決めた。月曜日に焼き場が取れたので、日曜日に通夜、月曜日に葬儀をするということに決まった。決めるべきことが決まった後、父の遺体は、病院の裏手から葬儀屋の車で斎場に運ばれていった。
それが、二日前の出来事。
この二日の間に、詩乃は葬儀の規模などを葬儀屋と話し合って決めた。
火葬のための書類など、そういった細々したことは全て、葬儀屋の方でやってくれるということになったので、詩乃が主にやらなければいけなかったのは、葬式の連絡だった。父の仕事関係者には分かる範囲で連絡を入れた。仕事先でも付き合いの長い大人たちは、水上の家の息子さんは数年前に母を亡くしたばかり、ということを知っていたので、詩乃が父の死の連絡をすると、皆電話口で、深い沈黙とため息をついたのだった。
親戚への連絡はできなかった。
父の兄弟は蒸発して音信不通であり、父方の祖母、祖父はもうずいぶん昔に亡くなっているらしい。それも、墓参りの一つも行ったことが無いので、詩乃には確かめるすべはなかった。
母方の親戚筋も、詩乃には辿るのが難しかった。
一番親しくしていた母の兄、詩乃からすると伯父にあたる人物は、母が亡くなった翌年の十一月に、同じくこの世を去っていた。その葬儀の席には、伯父の元奥さんと子供がいたが、それ以来、顔を合わせてもいず、連絡も取っていない。
詩乃は、ふうっと息を吐き、身体を伸ばした。
テーブルの隅に置いたスマートフォンを、何とはなしに確認する。
柚子から、メッセージが届いていた。
文化祭の動画と写真と、そして新見さんにしては長い文章。
金曜日――昨日も夜には長文のメッセージが柚子から届いていた。今日は、昨日以上に文字数が多く、情報量が多い。絵文字もたくさん使っている。そして最後には、『忙しいと思うから、返事は大丈夫だよ。また明日も連絡するね。あと、何かあったら絶対に連絡ちょうだいね!』の言葉が添えてある。
詩乃は立ちあがり、コーヒーで一息つくことにした。
詩乃はこの日、実は昼過ぎから、ずっと文章を書いていた。
内容は、自分と父について。
特に物語にする気もない、エッセイほどにもまとまっていない文章。それでもなぜか、書かずにはいられなかった。
そうして気づけば、いつの間にかもうすっかり夜になっていた。
ソファーに深く座ると、全身が痛んだ。詩乃はコーヒーを飲みながら、送られてきた写真、動画をスマートフォンの画面いっぱいに表示させた。お化け屋敷の呼び込みに廊下を歩くミイラと貞子のツーショットや、ショッカー喫茶(店員の生徒が悪者のボディースーツのコスプレを着ている)の様子などの面白い写真。動画の方はどれも柚子の声入りで、模擬店や、舞台発表を映してくれている。柚子の、自分だけに向けてくれる声を聞いて、その健気さに、詩乃の頬は緩んだ。
柚子の写真や動画を見ている間に、今度は、詩乃のスマホに、別の二人からメッセージが届いた。紗枝と千代だった。内容は、写真。開幕セレモニーで踊る海賊衣装の柚子や、ファッションショーの『木の精霊』をテーマとしたエルフドレスの柚子、その他、柚子の写真が、二人の合計で十五枚ほど送られてきた。
もしかすると、三人は今ごろ、一緒に夕食でも食べているのかもしれないなと、詩乃は思った。勝手に自分の写真を送られて、恥ずかしがる新見さんの姿が目に浮かぶ。
詩乃は、葬儀に必要なことは昨日のうちに大方済ませてしまったので、その気になれば、今日は、文化祭に行くこともできた。しかし詩乃は、やっぱり今日は行かなくて正解だったと思った。
自分に染み付いた〈死〉の気配のようなものを、文化祭の場に持ち込みたくはない。
詩乃は、父の手の冷たさを思い出して、ぞくりと身震いした。
――最後、父にテレビのリモコンを渡した時、一瞬、父の手に触れた。その時に感じた冷たさが、まだ右手人差し指の中節あたりに残っている。父は死ぬんだなと、思えばあの瞬間に悟ったのだ。自分が触れたのは、死人の手だった。
詩乃は、コーヒーカップを両手でぎゅっと包むよう握った。それでも、指先の冷たさが消えない。それどころか、寒さだけが指から這い上ってきて、詩乃は肩を窄めた。暖房も効いていて、部屋は暖かいはずなのに、鳥肌が立つ。心臓が勝手にドクドク早鐘をうって、息苦しくなってくる。
詩乃は背中を丸めて、じっと、耐えるしかなかった。寒さを感じている理由も、鳥肌も、心臓の音も、息のしづらさも、どうして体がそんな反応をしているのか、詩乃にはわからなかった。
なんで自分が、こんな思いをしなきゃいけないんだと、怒りも湧いてくる。この境遇も、よくわからない体の不調も、なんて理不尽なんだと、詩乃は思った。悔し涙が目じりから滲む。詩乃は、コーヒーカップを置いて、代わりに、スマートフォンを両手で握った。どうしてスマホなんて握るのか、詩乃は自分でもよくわからなかった。
一粒、二粒と涙が零れてきた。
よくわからない涙が。
詩乃の唇が微かに震えた。
「助けて……」
と、詩乃は呟いていた。
誰に何を、ということは、詩乃にもわからなかった。ただ、そう言いたかった。涙と同じように、言葉が、喉の奥から出てきたのだ。
詩乃は、涙が出てくるのと、感情の良くわからない波が静まるのを、腹痛をかばう時のように腕組みをして、身体を二つに折って耐えるしかなかった。眠気と疲労で意識がぼんやりしてくる中で、詩乃は柚子の名前を、知らずに呼んでいた。やがて詩乃は、そのまま意識を失った。
文化祭の二日目、柚子は初めて、開演セレモニーを客として見物した。吹奏楽部、管弦楽部の協奏で、ハイテンポの〈蛍の光〉がまずは演奏される。これは、毎年の恒例である。そこから――今年の文化祭のテーマ〈冒険〉にちなんで、アレンジされた『ドラゴンクエスト』のBGMメドレーに繋がる。音楽に合わせて、アラビアンナイトに出てくるような踊り子や冒険者衣装のダンス部、チアダンス部が踊り、コーラス部が合唱で花を添えた。
本当は、詩乃君と一緒に見るはずだったのにな、と柚子は、セレモニーの終わりに、演者たちに熱心な拍手を送りながら、考えるのは詩乃のことだった。本当はこのあと、グランドで始まるサッカー部の紅白戦を観戦して、それから二人で、模擬店や展示を見て回るはずだった。今日はそのために、時間はたっぷり作っていた。
二日目のダンス部の見せ場は開演セレモニーと、文化祭の大取りを飾る〈コラボレーションステージ〉である。ダンス部の三年生は、これに出演する優先権を持っていたが、柚子はそれを放棄して、両方とも出ないことに決めていた。ダンス部の一年生、二年生にとっては、ひと枠分の出演枠が空いたので、本来は喜ぶべきことだった。しかし、ダンス部の後輩たちは、柚子が出演しないことを皆残念がった。柚子と同じステージに立ちたい、というモチベーションで頑張っていた後輩も一人や二人ではない。しかし、柚子が珍しく頑ななので、顧問の阿佐教諭や同級生の仲間も、説得を諦めた。
そんなわけで、二日目の柚子の出番は、A組模擬店の店番担当の五十分と、有志として出場するステージ発表の十五分ワンステージのみだった。しかし、詩乃のいない今、柚子にとっては、体育館で十五分間のみが、この二日目の全てになりそうだった。
昼食後の一時半過ぎ、A組での仕事を終えた柚子は、有志発表のために舞台袖で待つ皆と合流した。千代と、他はダンス部の一年生と二年生、合わせて十人。どうしても柚子と一緒に踊りたい、というダンス部の後輩女子たちである。後輩たちの思いを聞いた千代が、最後には柚子にそのことを話して、ワンステージやることになった。実は千代は、文芸連の議長である生徒会長からも、二日目のステージに柚子を上げてほしいと頼まれていた。
どうして皆、私に言うのよと、千代も思わないではなかったが、その理由も、千代は良く知っていた。皆、柚子に遠慮しているのだ。柚子について何かあると、私はいつも柚子のマネージャーのような役回りにされてしまう。それが、嫌だった時期も実はあった。一年生の最初のころは。けれど、柚子と仲良くなっていくうちに、そんな思いはいつの間にか無くなっていった。気さくな柚子は、自分から皆に声をかけ、頼まれれば嫌とは言わない。けれど柚子には、人気者の孤独さがあった。そのことを、一緒にいて気づいた。そこに気が付くと、柚子の事をより好きになった。
事あるごとに立つ噂。妬みから来る敵意。柚子は、受けて立つでも受け流すでもなく、いつも笑顔でいる。危なっかしくてお人よしで不器用、じれったくなるほど得をしない。だから、彼氏と一緒に文化祭を回るくらいの、それくらいの良い思いはしていいはずだ。――千代はそう思っていたので、柚子には、有志団体の話を持ち込みたくはなかった。しかし全く話さないわけにもいかなかった。出演を引き出すような卑怯な聞き方にならないように、さりげなく柚子に話を持って行った千代だったが、結局は、後輩たちが柚子と踊りたがっているということを言わざるを得なくなった。
「遅くなってごめんね。――すぐ着替えちゃうね」
舞台袖にやってきた柚子は、真っ赤なワイシャツを手にとって着替え始めた。他の皆は、もう着替えを終えている。千代は、膝上丈の際どい青のワンピースドレスを着ている。管弦楽部の友達に借りた衣装である。
「あ、柚子待った! ほら、男子はあっち向く!」
千代が慌てて言うと、舞台袖にいた男子は、弾かれたように、柚子に背を向けた。
「ごめんごめん、うっかりしてた。皆ごめんね」
柚子は男子に謝ると、着替えを始めた。
後輩たちは、露になる柚子のすらりと長い手足や、女性らしい身体のラインに、顔を赤らめた。ダンス部で、同性の下着姿なんて見慣れているのにこれだ、と千代は呆れてしまった。半分は後輩たちに、そして半分は、柚子の身体の綺麗さに。
「もう大丈夫だよ」
柚子は着替えを済ませて、後ろを向いていた男子に声をかけた。
柚子は椅子に座り、用意されていた三面鏡を使って、髪をオールバックのポーニーテールにキメる。ワックスもつけて、ぴったりと固める。千代も、柚子の髪のセットを手伝う。
一曲目は『Billie Jean』、二曲目は『Smooth Criminal』。『Smooth Criminal』は、一度は踊ってみたいと柚子が思っていた曲である。『Billie Jean』は、後輩のリクエスト曲だった。リクエストしたのは、今年の夏の発表で、柚子と同じグループにいた一年生と二年生の後輩である。どうしてももう一度一緒に踊りたいと、毎日猛練習をして、この発表に臨んでいた。
キラキラ光るミラーボールのようなズボンとジャケットを着た柚子は、その場で靴の具合を確かめるために、回転してステップを踏んだ。後輩たちは、それを見て一気に緊張した。「おぉ」と、男子生徒が感動の声を上げる。ムーンウォークにトゥーストップ――よし、バッチリと、柚子は頷いた。
柚子はジャケットを脱いで、手筈通りにアタッシュケースの中に入れた。黒い中折れ帽子も入れて、ケースを閉じる。
「先輩、よろしくお願いします」
ケースを閉めたところに、二年生、千葉美祈が柚子に近づいてきて言った。美祈の衣装はマフィアをイメージした黒スーツ。次期部長に推されている後輩で、踊りのテクニックはすでに、部内で一位二位を争う。今日は、バク中を伴う見せ場がある。そんな美祈が、緊張に顔を強張らせていた。