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星の海で遊ばせて  作者: ノマズ
4,月の光に見上げれば
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それだけのこと(2)

『あのさ……結婚の話とか、したでしょ?』


 そう切り出されて、柚子の心臓はまた、大きく飛び跳ねた。


 その話題を、柚子はずっと避けていた。


 しかしもう、こう切り出されては逃げられない。仕方がないと、柚子も本心を打ち明ける覚悟を、心の中で決めた。詩乃君と結婚はしたい、結婚するなら詩乃君しかいない。でも先のことは、正直ピンとこない。だから、結婚よりも、今一緒にいたい。だから詩乃君、文化祭一緒に回ろう、と、そこまでのセリフを心の中で準備した。


 しかし、詩乃の続きの言葉は、柚子の予想していたものとは違っていた。


『あれ、無かったことにしていいよ』


「……え?」


『先の話だから、わからないと思う。だから、結婚の話も、もうやめようと思って』


 新見さん、きっと、ずっとそのこと、気にしてたでしょ――と、詩乃は続けた。


「なんで、どういうこと?」


 柚子は、焦燥感に駆られて、詩乃に聞いた。


 どうして、どういう心境の変化でそうなったの、と柚子の頭は軽いパニックを起こしていた。近ごろ感じていた気の重さとはまったく別種の不安が、柚子を焦らせた。


『――先のことだから、もういいよ』


 もういいよ、という詩乃の何気ない言葉は、柚子の心に突き刺さった。


 言葉に詰まり、息ができなくなる。


 なんでもういいの、と柚子は詩乃に聞きたかった。


 しかし、色々な言葉が喉の奥で交通事故を起こし、何も言えなくなってしまう。


「なんで!? え、なんで!?」


 柚子は辛うじて、その単語を詩乃にぶつけた。


『うーん……』


 と、詩乃の呻きが再び聞こえる。


 柚子は、詩乃が電話先で、父のビールの350ミリリットル缶を二本開けていることを知らない。詩乃の思考は、いつもよりぼんやりしていたが、気分は妙に明るかった。


『このまま行く所までいって、あとはもう、どうにでもなれって思ってねぇ』


 柚子は詩乃の言葉の内容と、その口調に、明らかな違和感を覚えた。いつもの詩乃君と、何か少し――というより、だいぶ違う。何かあったのだろうかと、柚子は心配になってくる。


「詩乃君、何かあった?」


 柔らかい気遣いの声で、柚子は詩乃に聞いた。


『何もないよー。死にぞこないが贅沢してるだけで』


 詩乃の、妙に間延びした、変に機嫌の良さそうな声が返ってきた。その不自然な上機嫌に、柚子はどうしょうもなく、悪い予感を覚えてしまう。


「詩乃君、本当に大丈夫? お父さんも」


 柚子は詩乃にそう聞いて時計を見た。


『大丈夫だよ』


 詩乃が応えた。


『いっそ大丈夫じゃなくなりたいけどね』


「詩乃君――」


『でも大丈夫だよ。――あ、もう時間だね。十五分』


 柚子は、画面脇の時刻表示を見た。


「でもさ、今日だけちょっと延長しようよ」


『電話じゃわからないよ。会った時に話そう』


 詩乃はそう言った。


 仕方なく柚子は、詩乃との通話を切った。必ず明日、会って話を聞こうと、柚子は心に決めて。


 しかし翌日、詩乃は学校を休んだ。その次の日は、昼休みの終わる十分前に登校してきた。そしてその次の日、土曜日は、必修授業があるにもかかわらず、詩乃はまた学校を朝から欠席した。


 柚子はそんな日も、毎日詩乃に電話をしたが、詩乃は結局、その翌週の週明け月曜日も学校には来なかった。詩乃が学校を休んだ月曜日の夜も、柚子は詩乃に電話をかけた。詩乃は、電話は好きではないので、つい最近までは、柚子から詩乃への電話は、二日や三日に一回くらいにしていた。しかし詩乃が学校を休みがちになってからは、柚子は、毎日詩乃に電話をかけるようになっていた。


 電話をかけると、詩乃の声はいつも妙に明るかった。その電話で、柚子は詩乃と、一緒に文化祭を回る約束をした。その翌日の火曜日には、詩乃は二時間目の途中に登校したので、昼には、やっと柚子は、詩乃と会って食事をとることができた。その日の昼食の話題は、もっぱら、文化祭についてだった。文化祭のパンフレットも出来上がっていたので、それを広げながら、二人で、どこを回ろうかという話をした。詩乃が、結婚について「もういいよ」と言ったことに関しては、柚子は、また今度、それとなく聞こうと思い、その話題の保留を決めた。


 久しぶりの昼食なのだから、折角二人で、楽しく食べているのだから、今はそれでいいと、柚子はそう思った。


 ところが文化祭前々日の木曜日、詩乃はまた学校を休んだ。


 そしてその日の夕方、日の沈んだ後、柚子のもとに、詩乃から電話があった。柚子は教室で、模擬店の飾りつけをしていた。着信音が鳴って、柚子は妙な胸騒ぎを覚えながら、電話に出た。


「もしもし、詩乃君?」


 柚子は電話に出た。


『あぁ、新見さん』


 落ち着いた詩乃の声が聞こえてきた。


「詩乃君、お家?」


『家じゃないんだけど、ちょっと、その……――』


 詩乃の声が一度途切れる。


 どうしたの、言っていいよ、と柚子は詩乃の言葉を促した。


『一週間くらい学校に行けないと思う』


「え!? どうしたの? 何かあった?」


『ちょっとね。でも、大丈夫だよ。ただ、学校にはしばらく行けないから、文化祭は、ごめん……』


 柚子は、教室を出て、静かな場所を探しながら廊下を歩いた。


「文化祭はいいけど……」


 柚子の頭に色々な可能性が浮かんでくる。


『新見さんのダンスが見られないのは残念だよ』


「本当にどうしたの? 私のダンスだったら、いつでも見せてあげるけど……でも、詩乃君の方が心配だよ。ねぇ、詩乃君、何かあったなら、言ってよ。言えないことならいいけど、でも、心配だよ」


 本当に何があったのだろうと、柚子は考えてた。


 電話の向こうで、詩乃の、弱い笑い声の吐息が聞こえてきた。


『新見さん、今学校?』


「うん」


『準備?』


「うん。でも――」


 必要なら、今すぐ詩乃君の所に行くよと、柚子は心の中で呟いた。


 しかしそんな柚子の心の声を止めるように、詩乃が言った。


『本当に大丈夫だよ。ちょっと、家のことで色々あって』


 色々ってどんなことなのと、柚子はその質問をしようかどうしようか迷った。家の事というのは、お父さんの事だろうか。お父さんに、何かあったのだろうか。


「詩乃君、本っ当に大丈夫? 体調崩してない? 辛いことない? 私彼女なんだから、そういうの、困ってたら頼っていいんだよ」


 電話の奥で沈黙があり、やがて、詩乃の声が応えた。


『辛いどころか元気だよ。文化祭終わったら、またどっか行こう。――あ、ごめん、ちょっともう切るね』


「え? う、うん、詩乃君――」


『新見さん、心配しないで。じゃあね』


 電話は、詩乃の方から切られた。


 ツー、ツーという終話音に、柚子は廊下の肌寒さを思い出す。


 心配しないで、という最後の一言が柚子には辛かった。心配するに決まってる。今の私たちは、心配さえさせてもらえないような、そんな関係じゃないはずなのに、どうしてそんな冷たいことを言うの。まだ詩乃君に、それくらいの信用さえされていないの、と。しかし柚子は、他の誰よりも、そうじゃない、ということはわかっていた。詩乃君が言わないのは、私を信用していないからではなく、それが、詩乃君なりの、私への優しさなのだ。――わかってる、わかってるけど。


「大丈夫かな……」


 柚子は、ぽつりと呟いた。


 丁度その時、教室二つ分ほど先の廊下に、法被姿の男子生徒が三人、飛び出してきた。三人とも歌舞伎役者のようなメイクをし、店の呼び込み看板を持っている。「あ、やべ、ここ二階だ!」、「おい、ふざけんなよ!」と、そんな掛け合いをすると、その三人はまた、階段の方に走り出し、柚子の視界から消えていった。その後すぐに、「関節あった!? 関節!」と、よくわからない問答が二年生の教室の方から聞こえてきた。


 あぁ、詩乃君が来ないのに、文化祭は明後日から始まるのだなぁと、柚子はそんな事を思った。





 土曜日――茶ノ原高校の文化祭の一日目だったその日の夜七時過ぎ。


 詩乃は、誰もいなくなった実家のリビングにいた。


 詩乃の父は、二日前の木曜、朝救急車で運ばれて、その日の夜、息を引き取った。


 木曜日の朝、いつにも増して朦朧としている父を詩乃は不審に思い、救急車を呼んだ。うわごとのように、「あぁ、リコモン」と、掠れた、聞きづらい声で詩乃にそう言って、幽霊のように手を持ち上げた。詩乃は、テレビのリモコンを、父に渡した。


 それが、詩乃と詩乃の父が交わした、最後のやり取りだった。その後は、詩乃の父は意識をほとんど失って、救急車で病院まで運ばれている最中には、目や口は開いていても、何かを話せるような状態ではなくなってしまった。


 詩乃は、父が病院を出る時に、父の担当医から、こういったことの危険性を説明されていて、それを覚えていた。父は血液の病気で、普通だったらすぐにふさがるような傷も、血小板が正常に働かないから、塞がりにくい。脳の小さな血管の傷でも致命傷になる、と。


 病院で詩乃は、父の担当の萩原医師から、父が脳出血を起こしている可能性が高い、ということを伝えられた。やっぱりそうだったかと、詩乃はすんなりと、父の状態を受け入れることができた。


 詩乃は昼過ぎにいったん家に戻った。病院から連絡があったのは夕方だった。詩乃が病院に戻ると、父はもう、昏睡していて、詩乃がベッド脇にやってきて間もなく、心肺停止の状態になった。


 ピピピピッ、ピピピピッという心停止のアラーム音が、静かな個室に、ただただ繰り返された。アラームの音にも耳が慣れ始めたころ、担当の萩原医師が、死者に敬意を払う厳かな様子で、父の手や首や、瞼のあたりを触り、直接その〈死〉を確かめた。


 それから萩原医師は、詩乃の目を真っすぐ見ながら、「お亡くなりになりました」と言った。詩乃は、「ありがとうございました」と答えた。父の死は、詩乃にとっては、遅いか早いかだけの問題だった。こんなに早くその時が来るとは思っていなかったが、不思議はなかった。

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