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星の海で遊ばせて  作者: ノマズ
4,月の光に見上げれば
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それだけのこと(1)

 十月の秋の風が吹き始めると、もうすっかり夏の気配は消えて、運動部の男子生徒も、ワイシャツ一枚という格好をしなくなった。茶ノ原高校の生徒たちはいよいよ文化祭の気分になって、受験勉強真っ只中の三年生であっても、うっかり部活に出たり、ステージ発表のための有志団体を作って、滑り込みで生徒会にステージの使用申請を提出したりする。廊下や教室が、飾りつけのための道具で日に日に賑やかになってゆく。


 柚子は、文化祭に向けて忙しい日々に突入していたが、クラスの模擬店やダンス部の発表、また、十月一週目にあった英検一次試験の勉強や指定校推薦の構内選考の結果などの全ての不安の総和よりも、詩乃への心配の方がはるかに勝っていた。


 箱根に行ったあの日から、詩乃君の笑顔が、二人でいる時にもどんどん減ってきている。そのうえ十月に入ってから、詩乃君は学校に来る時間が遅くなって、一時間目、二時間目、日によっては三時間目までを休むようになった。


 何かあったの、どうしたの、と聞いても、詩乃は考え込んでしまうだけで、そのことが一層、柚子の心配を募らせた。


「新見さん……自分、大学行かないかもしれない」


 詩乃が柚子にそれを告げたのは、ちょうど柚子が、指定校の校内推薦に通ったという知らせを詩乃にした翌日の昼だった。その時詩乃の喉には、『進学しないで就職する男と、本当に結婚の約束をするつもりか』という問いが出かかっていた。


 大学を出て、名の通った会社で働き、安定した収入を得る――自分にはそういう未来はない。それを突き付けられた時、新見さんは果たして、自分といることを選ぶのだろうか。詩乃はそのことを知りたいと思っていた。


 しかし詩乃は、そういう自分の欲求の卑怯さにも気が付いていた。新見さんなら、「大丈夫だよ」と言ってくれるのは、本当は、聞かなくたってわかっている。結局自分は、新見さんから許しの言葉を引き出して、保険をかけようとしているのだ。甘えた自分を新見さんによって正当化してもらおうとしているのだ。


「……働くの?」


 柚子は慎重に訊ねた。


「うん、たぶん」


 詩乃の声は小さかったが、きっぱりしていた。


 柚子はそれを聞いて、これはもう決まった事なんだと悟った。


 まだ決まっていない考え中のことや、答えの出ていないことに関しては、些細なことでも、詩乃君は言葉を濁す。けれど詩乃君が何かを、スパっと言う時には、それはもう、詩乃君の中で揺るがない答えがあるときで、それは覆せない。そのことを、柚子はもうわかっていた。


「そっか」


 柚子は、小さく応えた。


「どうする?」


 と、詩乃は柚子に訊いた。「え?」と柚子は聞き返した。聞いてしまってから、詩乃は自分の問いの馬鹿さ加減に自分で呆れながら、首を振った。


「ごめん、忘れて」


 詩乃はそう言った。


 その日詩乃は、情けない自分を恥じつつ家に帰った。


 夜の七時過ぎ、詩乃は家に帰ってきて玄関の引き戸を開けた。そして、リビングの様子を見た瞬間、カっと頭に血が上った。父が、うな重の重箱を前に、ビールを飲みながら、だらしなく足を足置きに投げ出して、テレビを見ていた。


「おぉ、おかえり。腹減ってるだろ。お前のもあるぞ、うな重」


 詩乃は、スクールバックを上がり框に放って言った。


「いらない!」


 髪の毛が逆立つほどの怒気だったが、詩乃の父は、あぁそうかと、それだけ言って、テレビに視線を戻し、ビールを飲んだ。


「鍋にご飯あったの知ってる?」


 詩乃は、靴を乱暴に脱ぎ、父に言った。しかし父は、「あぁ、あったな」と、たったそれだけしか反応しなかった。


「いくらしたの」


 詩乃が聞くと、詩乃の父は、悪びれる様子もなく詩乃に答えた。


「三千円くらいだったかな。でも特上でこの値段だからな、安いもんだ」


 生活費のことは、詩乃はもう、父には何度も何度も言っていた。一週間に一度くらいだったら、それくらいならまだいいけれど、お金がないんだから、無駄遣いはできるだけ避けてくれ、と。それなのに父は、金のかかることを平気でする。どうしてなんだと、詩乃にはもう理解ができなかった。血液の病気ではなく、父は、我慢ができない心か頭の病気なのではないかと、詩乃は本気で近ごろはそう思うようになっていた。


「外寒いか?」


 詩乃の父は、テレビに見ながら、詩乃に訊ねた。


「だったら何」


 詩乃は、鋭い口調で言った。


「何って、どうかなと思っただけだよ」


 ちらりと、父は詩乃の様子を見る。その不機嫌が、目元と口元に浮かんでいる。


 詩乃はその瞬間、手あたり次第、近くにあるものを父に投げつけて、殺してしまおうかという衝動にかられた。しかしそんな、烈火のような怒りの感情も、すぐに萎んでゆく。


 別に、ここで殺さなくても、自分が金のことだとか、生活全般のことを全部放り出してしまえば、父は生きていけない。輸血ができなくなれば、血液を正常に作れない父の身体は、壊れていくのだから。


「お父さん、どうするつもりなの」


 ぽつりと、詩乃は父に聞いた。


「どうって、何がだよ」


「お金、近いうちに無くなるよ」


「そんなの、年金もあるし、貯金もあるだろ」


「だからその貯金も無くなるでしょ、使うだけだと。年金なんて、焼け石に水だよ」


「まぁ、何とかなるだろ。お前まだ高校生なんだから、金のことは心配するなよ」


 ダメだと、詩乃は思った。


 詩乃は、父と話をするたびに、いつも同じような絶望感を覚える。


 いっそ、何も考えたくないなと、詩乃は思った。そうだ、もう、考えるのはやめよう、疲れるだけだ――と、詩乃は父との会話を切り上げて、リビングを横切った。自室で部屋着に着替え、それから、台所に向かう。台所の大鍋には、まだ二合分ほどの冷や飯が残っている。


 詩乃は鍋の蓋を開け、暗い台所で、じっと大鍋の白飯を覗き込んだ。腹は空いている。それなのに、食べる、ということを考えると、面倒くさくなる。最近は、簡単な料理――例えばパスタなんかでも、台所に立つと、湯を沸騰させるという行程が急に億劫になり、作るのをやめてしまう。作るのも、食べること自体も、面倒くさい。


 詩乃は鍋に蓋をして、冷蔵庫を開けた。


 豆腐と納豆がある。食べようかな、とも思うが、そのちょっとした準備のことを考え、固まってしまう。豆腐なら水を切って、皿に上げて、醬油をかける。納豆なら、白飯をレンジで温めて、納豆は混ぜないといけない。――面倒だ、と詩乃は思った。


 そこにふと、詩乃の視界に、父の買ってきたらしいビールの缶が数本置いてあった。銀色のシンプルな色の、目立たないような缶だ。詩乃は、無意識に、それに手を伸ばした。





 夜九時、柚子は食事も風呂も済ませて、広いベッドにダイブする。スポーツメーカーのロゴと黒いラインの入った、白いロングTシャツと黒に白いラインの入ったワイドパンツ。その上から、マロン色の袖付き毛布をかぶる。


 広いベッドでころんと一度寝返りをうち、柚子はそれから、枕元に置いておいたスマホを両手で持って、待ち受け画像を見る。


 ――詩乃の寝顔。


 以前、詩乃が家に来て、ベッドで寝てしまった時に、こっそり撮っていたものである。待ち受け画面の時間設定で、夜九時から翌朝六時半までは、柚子のスマホには詩乃の寝顔が表示される。それは、柚子の誰にも言っていないささやかな秘密の一つだった。寝る前に詩乃の寝顔を見て、そのスマホを枕元に置いて寝ると、詩乃と一緒に眠っているような気がして、気持ちが安らぐ。朝は、六時半を過ぎると画像が変わってしまうので、必ず、六時半よりも早く起きるようにしていた。実のところ、柚子の高校生とは思えないような規則正しい生活は、その習慣によって今は守られていた。


 もう一年高校生活があったらいいのになと思いながら、柚子は、待ち受けの詩乃の寝顔を見つめた。それから、端末内のパスワード付きフォルダに入れてある、二人の記念写真をランダム表示させて、一枚ずつ見始める。詩乃は写真を全く撮らないので、柚子はその分、写真をたくさん撮って、スマートフォンに保存していた。まだ付き合う前の写真もある。


 一枚見ては次の写真、そしてまた次と、指でスライド表示させていく。小さいモニターに表示される写真は一枚ずつだが、柚子の中には、過ぎ去った写真一枚一枚への思いが蓄積されてゆく。


 初めて詩乃君を花火大会に――お出かけに誘った時。当日は朝から落ち着かなかった。だけど花火大会の後、詩乃君は先に帰ってしまって、花火の終わった後も人混みの流れを無視して、必死で探し回ったっけ。


 それから詩乃君と付き合うことになった文化祭二日目の夕方――だけどあの瞬間まで、もう私は、詩乃君に振られてしまったんだと、絶望的な気持ちでいた。


 付き合った後の写真もたくさんある。


 どの瞬間も必死だった。でも、何とかなった。


 詩乃君は今、私には教えてくれない悩みを一人で抱えている。たぶん、将来に対する悩みを。だけど詩乃君、そんなに焦らなくてもいいよ。結婚のことも、きっと何とかなるよ。私たちが離れなければ、絶対に。大変なことがあっても、あとから振り返って、「そんなこともあったね」なんて二人で笑い合えるよ。


 ――だから詩乃君、今の私を見てよ。


「詩乃君――」


 柚子は詩乃の名前を呟くと、詩乃の電話番号を画面に表示させた。


 ところが、「発信」ボタンを押す前に、着信があった。


 発信者の名前を見て、柚子の心臓が高鳴った。


 電話の相手は、まさに詩乃だった。


 柚子はワンコールで電話に出た。


「詩乃君!?」


 柚子は弾かれたように、電話口に確認した。


『うん、新見さん?』


 詩乃の声を聞いて、柚子は心臓を締め付けられるようだった。


「今日は詩乃君からかけてくれたんだね」


 柚子は明るくそう言った。


『うん、ちょっと……話したいことがあって』


 柚子は、ドキリとした。


 話したいこと、と畏まられると、良い予感はしない。


「……怖いよ、何、悪いこと?」


『悪いことじゃないと思う。新見さんにとっては』


「どういうこと?」


 うーん、と電話先で詩乃の小さく低く唸る。


 考えている時の息遣いが聞こえてくる。


 柚子はぎゅっと唇を引き結んだ。

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