たまくしげ(5)
「行こうか」
安産杉を暫く見上げていた詩乃は、静かにそう呟いて、階段に向かって歩き出した。
「うん……」
柚子は小さく返事をして、一旦は詩乃の後について、階段を降りた。
一段、二段降りた時、柚子は安産杉を振り返った。
詩乃も、その気配を感じ取って立ち止まった。
「やっぱりお願いしよ!」
柚子はそう言うと、詩乃の手をぐいっと引っ張って、二人で階段を上った。
柚子は巨大な杉の神木を見上げ、パチンと手を合わせて目を瞑った。それを見て、詩乃もあわてて手を合わせ、目を閉じた。
「これでよし」
目を開いた柚子は、そう言って詩乃に微笑みかけた。
階段を降りながら、詩乃は、困惑した頭で柚子に訊ねた。
「自分と結婚しても、いいと思ってるの?」
詩乃の直球な質問に、柚子は息を呑む。
それでも、答えに躊躇うことはなかった。
「うん。詩乃君がいいよ私、結婚するなら」
そう言われた詩乃は、その言葉を心の奥で何度も繰り返して、味わいながら吟味した。
「それがさ、今のこの感情が、自分たちの年齢にありがちな、子どもっぽい幻想だとは思ったりしない?」
柚子は、一瞬、胸が苦しくなった。しかし、意外には思わなかった。何となく、いつかは、詩乃の口からそういう言葉が出てくるものと、柚子も知らず知らずのうちに覚悟していた。
「詩乃君は、そう思う?」
恐る恐る、柚子は聞き返した。
詩乃はきっぱりと即答した。
「全く思わない」
柚子は思わず、声を上げて笑ってしまった。もう少し、深刻な答えが返ってくるものだと思っていたのだ。
「新見さんの優しさとか、向けてくれる愛情が幻想だったら、もうこの世界には多分幻想しかないと思う。――でもそうじゃなくてさ、そこじゃなくて……」
詩乃は一旦考えて、それから再び口を開いた。
「好きだけで結婚できると思う?」
詩乃の問いに、再び柚子は息を呑んだ。
柚子は、出来ると思っていた。けれど、こう聞かれると、自分がそれについて、真剣に考えていなかったことを自覚させられるのだった。
日が傾き始めた参道には、赤灯篭がぼんやりと灯りをともしていた。杉並木を歩いて、二人が元箱根の駅に着くころには、オレンジ色の丸い太陽が、湖の奥の三国山に沈みかけていた。太陽がいよいよ山の影に消えると、夕日のオレンジ色は一層濃くなって、空に浮かんでいた雲を染め、湖にその光を反射させた。まるで断末魔のような夕日は、しかしその光も、やがて穏やかなセピアへと変わっていった。
二人は、夕日が沈み、空や湖の色が移り変わる様子を、湖の畔の石段に座って眺めていた。
美しい芦ノ湖の夕日だったが、それを〈綺麗〉とは、詩乃も柚子も言わなかった。
夕日の最後の光が消えようとした瞬間、柚子はたまらなくなって、詩乃に抱き着き、その唇に吸い付いた。詩乃は柚子を抱き止めて、その頭と背中を撫でつけた。
「来年も来よう、再来年も、その後も、ずっと……」
柚子は、詩乃の耳元に、消え入りそうな声で言った。
詩乃は微かに目元を緩ませて答えた。
「鬼が笑うよ」
日がすっかり暮れた後、二人はバスに乗って箱根湯本の駅に戻ってきた。柚子はバスの中でも、ずっと詩乃に寄り添っていて、バスから降りた後も、駅前の商店街で土産屋を巡るときも、詩乃の近くから離れなかった。
柚子は、ダンス部や家族や、友達にお土産を買った。紗枝、千代の他に、愛理にも個別で用意した。柚子は、愛理に対して、妹に対するような親近感を覚えていた。
詩乃も、文芸部の皆に買っていこうかとも考えたが、柄じゃないなと思ってやめた。父に買うつもりは毛頭ない。自分にも。そこで詩乃は、柚子にお土産を買うことにした。寄木模様の箸と箸置きのセット。それを、柚子にバレないようにしれっと買った。
柚子もお土産を買い終えて、帰りの、八時半のロマンスカーに乗るために、駅に入ろうとした。しかしその駅前で、柚子は立ち止まった。どうしたのかと詩乃も歩みをとめる。
柚子は少し顎を引いて、詩乃の足先のあたりをじっと見つめ、それからぱっと顔を上げた。一拍か二泊かそうして詩乃を見つめた後、柚子は口を開いた。
「今日、泊まっていかない?」
柚子の声は、裏返っていた。
詩乃は驚いて、息を止めた。
「温泉来たのに温泉入ってないし……もし、詩乃君が良かったら……」
柚子は早口で話し始めたが、最後は消え入りそうな小さい声になっていった。柚子の頬は緊張して、唇はきゅっと結び閉じている。詩乃は柚子の瞳をじっと見つめた。
健気で、一生懸命な柚子の気持ちが見て取れた。そしてその奥には、自分の身体をかえりみないような、燃えるような献身の心が、詩乃には見えた。いっそ、新見さんの愛情を言い訳に、流されてしまいたいと詩乃は思った。そうしたら、どんなに楽だろうか、気持ち良いだろうか。
二人は見つめ合い、その目交いに風が通り抜ける。
詩乃は、両手で柚子の右手を取り、その手の甲に口づけした。詩乃の息が手の甲にかかり、柚子は背中を小さく反らした。詩乃は、柚子の手を口元に添えながら、言うべき言葉を考えた。
「今日はきっと、湯あたりをするから、やめておこうよ」
詩乃はそう言うと、ぎゅっと柚子の手を強く握って、さらに言葉をつづけた。
「好きだから、流されちゃいけない時があると思うんだ」
詩乃の真っすぐな瞳を受けて、柚子は、ほっとした気持ちと、寂しい気持ちと両方を同時に感じて、どういう顔をしていいのか、分からなくなってしまった。
詩乃は、バックから、先ほど買ったばかりの箸セットを取り出して、柚子の眼前に差し出した。
「これ、何?」
「お土産」
「え、私に?」
「うん、お土産」
「くれるの?」
「うん」
柚子は、詩乃から箸セットを受け取った。そこでやっと笑顔になってくれた柚子に、詩乃はほっと安心した。
「ありがとう!」
詩乃は頷くと、柚子の手を取って、駅に入った。
電車が来るまでの十分少しの間、柚子はずっと、詩乃の手を握っていた。お泊りを断られたという悲しさは尾を引いていたが、その断った理由が詩乃君の愛情からきていると思うと、柚子の心は温かかった。『好きだけで結婚できると思う?』――詩乃君の問いかけに不安になって、その衝動に任せて誘ってしまった。恥ずかしいことをしてしまった。しかし柚子はそう思う一方で、でもやっぱり、衝動でも何でも、流されてしまったとしても、詩乃君とだったら構わないのにな、とも思っていた。
新宿へ向かう特急電車がやってきた。乗車ができるようになるまでには少しの時間がある。その時間で、詩乃はメモ帳を取り出して、電車の扉が開く前に、急いで一筆書いた。
――玉くしげ 箱根の山をすぎ見れば 同じみうみの 底のけけら木――
柚子は、詩乃のメモ帳を覗き込んで、その歌を見た。
詩乃が、隠すそぶりも無いので、柚子はその和歌を声に出した
「――今作ったの?」
「うん」
すごい、と柚子は声を上げた。
「綺麗な和歌だね。ちょっと、意味までは難しいけど、でも、この歌好き」
柚子に褒められて、詩乃は照れ笑いを浮かべた。
その子供っぽい照れ方に、柚子は思わず、詩乃を可愛いと思った。ものすごく大人っぽい時もあるけれど、こっちの詩乃君もいいなぁと、柚子は思った。
電車のドアが空いて、二人はホームを振り返りながら、電車に乗った。
ほどなく電車は箱根湯本の駅を出発した。
新宿へと向かう電車の中で、二人は、今日の出来事を思い出して、話し合った。登山鉄道の枯れたあじさい、強羅駅で柚子が急に泣いたこと、早雲山駅の展望テラスでのこと、大涌谷の黒たまごと湯かけ地蔵、ロープウェーから見えた富士山、大権現ランチに焼き魚、二週も回った遊覧海賊船、そして、箱根神社と安産杉。
温泉に入れなかったのは、それはそれで、詩乃にはやはり心残りではあったが、しかし旅は、心残りがあるくらいがきっと丁度良いんだと思いなおすと、今日の心残りも腑に落ちた。
特急電車の短い旅の後、詩乃は(柚子は最初遠慮したが)柚子を家の前まで送ってから、実家へと電車を乗り継いで帰った。
詩乃が家に帰った時、父はリビングのソファーに寝そべりながら、ビールを飲んでいた。テーブルには、他にも見るからに高価そうな洋酒のガラスボトルと、にぎりの数貫が残った丸い寿司桶が放っぽり出されてあった。
「おぉ、帰ったか」
詩乃は、舌打ちしたいのをこらえて靴を脱ぎ、リビングに上がった。
「お前、食うかと思って寿司とっといたぞ」
詩乃は眉間にしわを寄せた。
色々言いたいことはあったが、いちいち言いたくもなかったので、詩乃は一言だけ聞いた。
「酒、ダメなんじゃないの」
「いいんだよ。あの医者の言うことなんて信用できるか」
詩乃は何も応えず台所で手を洗い、小さな自室に戻った。
部屋着に着替えて、寝る前にスマホを確認すると、柚子からメッセージが届いていた。
『もうおウチ着いたかな? 今日は本当に楽しかった! ありがとう。また行こう、絶対だよ!』
そんなスタンプ付きのメッセージ。
詩乃は深いため息をついて、引きっぱなしの布団に倒れ込んだ。新見さんのいる世界とこの家が、同じ現実だとは思えなかった。詩乃は、夢と現実の間をさ迷っているような居心地の悪さを覚えた。
『素敵な時計ありがとう、大事にするね。また学校で』
詩乃は柚子に、そうメッセージを入れると、スマホを放って、リビングに戻った。父を尻目に、寿司に醤油をかけ、寿司桶を抱えて部屋に戻る。それから詩乃は、ふちの黒ずんだ赤身の握りを口の中に放り込んだ。
水分を失ったシャリの固さと、かけすぎた醤油の塩分が、現実を思い出させる。
――新見さんとの楽しい時間は終わってしまった。
咀嚼するほどに、その実感が湧いてくる。
詩乃は本当は、今日は柚子との幸せな時間の余韻に浸りながら、もう眠ってしまいたかった。今、現実にある諸々の問題を、今日だけは放り出して忘れたかった。しかし詩乃には、それは出来なかった。現実から新見さんとの関係を遠ざけるのは、新見さんに対する裏切りのような気がした。
詩乃は結局その後、空になった寿司桶と父の使った食器類を洗って、寿司屋の置いて行った伝票を確認し、風呂に入った。風呂から上がると、もう眠気は飛んでいた。コーヒーを淹れて自室に戻り、部員の短編の添削でその夜を過ごした。
その翌日から、詩乃の父に微熱が続いた。それはそれで、詩乃にとっては悪いことではなかった。一日中寝ているので、無駄金を使うこともない。果物やらゼリーやらを、情けない声で欲しがるのにはうんざりしたが、それでも、寿司やらピザやらの出前を頼まれたり、無駄な買い物のためにタクシーを使われたりするよりはマシだった。しかし、詩乃の、先行きに対する鬱屈とした気持ちは、日に日に増すばかりだった。
父が日がな寝てばかりの生活になって出費が減っても、収入が増えるわけではない。やがてこの生活は、そう遠くないうちにジリ貧に陥る。大学なんて行っている場合ではないということは、数字の上で明らかだ。毎年百万からかかる学費なんて、とても払えない。
しかし詩乃は、就職して、あるいはバイトをして、父を自宅療養させながらの生活を続けていくという未来も見えなかった。自分が父のために金を稼ぐなんて、そんな苦痛には、とても耐えられそうにない。かといって、父が生きている限りは、見捨てて逃げるということも、自分にはたぶん、できないだろう。
自分の未来は、実は、来年の三月か四月で終わるのではないかと、詩乃の脳裏に、そんな予感がよぎる様になったのは、このころからだった。