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星の海で遊ばせて  作者: ノマズ
4,月の光に見上げれば
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たまくしげ(4)

 それから十分ほどもすると船は箱根町の港に着いた。柚子が眠っているうちに下船、乗船が済み、船はまた出航した。それから十分ほどで船は元箱根港に着いた。本当はそこで降りる予定だったが、柚子が起きる気配が無いので、いっそ新見さんが起きるまでこのまま船に揺られていようと、詩乃は柚子を起こさず、眠るままにした。そうして再び船は港を出て北上し、桃源台港に向かった。


 時計を掌に持ち、肩に柚子を感じながら、自分は新見さんを守れるほど強くなれるだろうか、ということを考えた。柚子の可愛らしい仕草を見るたびに、詩乃の心に、その使命感のような気持ちが強く芽生えるようになっていた。


 物語は、『愛さえあれば』、とよく語る。『人生に必要なのは勇気、想像力、そして少しの金だ』――確かにそういう人生の哲学を持って、そのように生きられたら幸せに違いない。〈夢と希望とサムマネー〉。詩乃はこの言葉が好きだった。しかし同時に詩乃は、そうはいっていられない残酷さが現実にはあるのだろう、とも思っていた。


 ――サムマネー。


 少しの金。


 きっとそれなんだと、詩乃は考えていた。父の入院費、薬代、その他の治療費はタダじゃない。生活費はこっちの事情なんてお構いなしに、機械的に取られてゆく。おまけに父は、仕事もできず、自営の家業はもう廃業になるような有様の中、稼いでいたころの浪費癖のままに家で振る舞っている。


 子どもはお金の事なんて考えなくてよい――と、昔父か母が言っていた。高校生は、たぶんまだ子供だ。だけど現実はそうじゃない。もし自分が新見さんと生きていきたいとか、一緒にいたいとか、今日みたいなデートをしたいと思ったり、プレゼントを贈りあいたいと思うなら、真っ先に必要なのは、それができるだけの生活力だ。つまり、お金だ。それは果たして自分にとって、〈少しの金〉なのだろうか。


 子供は金のことを心配するな。


 自分がもし親になったら、子どもにはそう言いたい。でも今、自分に必要なのはファンタジーではない。だけど自分を励ましているのは、金ではなく、新見さんの存在と、そして自分の中にあるファンタジーなのも事実だ。でもこれが、だんだんと生活に追われていったら、変わっていくのだろうか。そうしたら自分は、自分の心を燃やしている火種を消さなければならないのだろうか。そうなったら自分は、もう自分ではなくなってしまうのではないだろうか。


 全部を忘れて、今は新見さんのぬくもりを感じて、湖に浮かんでいたいと詩乃は思った。


 しかし詩乃は、柚子のぬくもりと時計の輝きを感じるほどに、現実について考えてしまうのだった。父の収入が無くなれば、いつかは自分の大学進学のための貯金も底をつく。それも、そう遠くないうちに。


 だから自分も、そう遠くないうちに、稼がないといけなくなる。新見さんと一緒にいたいなら、新見さんと一緒にいられるだけのお金を。しかしどうにも詩乃は、自分がネクタイを締めて出勤したり、一端の社会人のように仕事をしている未来を想像できなかった。新見さんとは一緒にいたいけれど、新見さんと一緒にいたいがために、果たして自分は、就職活動をしたり、満員電車に揺られたりといった頑張りができるだろうか。


 自問して、詩乃は、たぶんできない気がすると直感した。


 だからもし新見さんがそういう安定のようなものを求めたとしたら、この幸せな関係が終わるのはそのときだろう。


 詩乃はそこから、いつもは物語を考えるのに生かしている想像力が働いて、白昼夢のように、自分と柚子の未来についてを想像した。


 あと半年もすれば自分も新見さんも高校を卒業して、少なくとも新見さんは、大学生になるだろう。大学生の内はきっと、楽しい思いができる。お金の事なんて心配せずに、今日みたいなデートを月に一回か二回はするのかもしれない。


 だけどその後は、就職が待っている。大学を出た後は、新見さんも仕事に就くだろう。同棲だとか、結婚だとか、そういう話を、新見さんが社会に出て二、三年のうちに話し合うことになるかもしれない。その時に、新見さんの目には、自分がどう映っているかがわからない。


 自分も、大学に行こうが行くまいが、生きていくために何か、仕事はしているだろう。でもきっと、派遣やバイトに違いない。それまでに作家として世に出ていれば良いが、世に出ていたとしても、物書きとして生計を立てられるほどになっているとは思えない。


 自分は作家志望のフリーター、新見さんは、たぶん勉強もできてこの容姿と性格だから、就職に困ることはないだろう。――お互いのステータスがそうなった時、新見さんは自分に対して、嫌気がさしているのではないだろうか。きっとそのころには、自分の欠点を、新見さんはしっかり見えるようになっているだろうから。


 詩乃は、船に揺られながらそこまで想像して、ため息をついた。


 そして、夢の中にいる柚子の顔を眺めた。


 ――でももし、新見さんが、それでもずっと変わらずに自分に今の優しさと愛情を向けてくれるとすればどうだろうか。いやむしろ、その方が悲劇ではないだろうか。


 詩乃はそんなことを思った。


『躄勝五郎』のはつ花のようには、絶対にさせたくない。考えると、むしろこっちの方が可能性はあるのではないだろうかと、詩乃は思いなおした。新見さんはずっと無邪気に、自分のことを信頼してくれる。自分は大した稼ぎもないフリーター。そんな将来、何か嵐が起きた時、新見さんはきっと、自分の身を顧みず、全部投げ出して自分を助けるのではないだろうか。


 それは絶対に嫌だ。


 自分のために新見さんが苦労をする姿なんて、見たくない。


 詩乃は懐中時計を握り締めた。


 船は再び桃源台の港に戻り、再び箱根町、元箱根港に向かって出航した。


 詩乃が一人で思い悩み、自分たちの将来についてや、それに付随した自分のどうしょうもない性分を直視して思いつめている間、柚子はペンギンの羽毛に抱かれてお菓子を食べている夢を見ていた。マカロンを食べて綿菓子を食べて、アイスクリームを舐めている最中にぼんやりと目を覚ました。


「うーん、しょっぱい味するー……」


 柚子はそんなことを口にしながら目を開けて、詩乃が、驚いた顔で自分を見ているのに気が付いた。あれ、と柚子は目をこすった。


「……おはよ」


「あー……私寝ちゃったんだ」


 目をパッチリ開けて、柚子はきょろきょろと船室を見渡した。壁際の、奥まったところの席なので、二人の様子を見ている人もいなかった。


「どれくらい寝てた?」


「一時間ちょっとかな」


「そんなに!?」


 船二週目だよと詩乃が言うと、柚子はさらに驚いた。むにむにと、柚子は自分の頬を揉み解した。引きずるような眠気はなく、柚子は今日の空のようにすっきりと覚醒した。柚子は首を動かし、肩甲骨を回した。そうすると、柚子の胸の丸みが白いニットにはっきりと現れて強調され、詩乃は理性を奪われそうになってしまった。


 船は箱根町を経由して元箱根の港に着いた。二人は船を降りて、湖沿いの道を歩いた。〈クイーン芦ノ湖〉号が、スクリュー音も静かに港を離れてゆく。少し先には、紺碧の湖の中に立つ鳥居が見え、その鳥居の奥に森の木々が青々と茂っている。日の光に照らされた明るいシアンの空には、小さな白雲がいくつかちぎれ飛んでいる。柚子はその光景の美しさに立ち止まると、柵に駆け寄った。


「わぁ、綺麗だね!」


 柚子は、柵から乗り出すように声を上げた。山から吹き下ろす爽やかな風が、柚子の髪をなびかせ、緑のスカーフの短い端が微かに揺れた。詩乃は思わず、柚子の後ろからその肩に手を置いた。柚子は詩乃の両手をぎゅっと掴んだ。


 船が行ってしまうまで景色を楽しんだ後は、ボート乗り場の点在する湖沿いの開けた道を二人で散歩した。道の正面にはプリンのような形の山があり、それを見て美味しそうと柚子が言うので、詩乃は笑ってしまった。デザートは別腹だよと柚子は言った。


 二人はそのまま道なりに歩いて、箱根神社の鳥居をくぐった。鳥居から拝殿に向かう参道は杉並木になっていた。その杉の木は、一本一本が、見上げても天辺が見えないような立派な巨木である。


「おっきい杉の木だねぇ。樹齢どれくらいなんだろう」


 感心して柚子が言った。


「この木の一本一本に神様がいるんだよ」


 詩乃も、感心しながら言った。


 二人は手水舎までやってきた。その横には大きな鳥居があり、鳥居からは真っすぐ拝殿まで、長い石階段が連なっている。その石階段もまた、両脇に杉の木が並び立って、鳥居から階段を見上げると、人が随分ちっぽけに見えるなと詩乃は思った。天高く伸びた杉と、それよりも背の低い広葉樹のまだ緑色の葉が、階段の上と横から、覆いかぶさるように三方を囲み、人はその中を、身をかがめながら進んでいるように詩乃には見えた。その光景に、詩乃は深い感動を覚えた。


〈矢立ちの杉〉や宝物殿、〈けけら木〉などを見て回った後、二人はいよいよ、鳥居をくぐって、本殿へと続く石階段を上った。長い石段だったが、柚子の足取りは確かで、手すりなんて使わずに、ともすると飛ぶように軽やかに、足を進めた。ダンス部からすれば、これしきの石段は何ということもなかった。階段の途中には曽我神社があり、詩乃はそこで手を合わせることにした。


「あ、待って」


 柚子は、詩乃が目を瞑る前に、詩乃に声をかけた。


「どういうお願いすればいいのかな?」


「お願いはしないよ」


 詩乃は答えた。


「供養するんだよ。神様にも、お地蔵さまにも、自分はいつもそうしてるよ」


「神様も、供養するの?」


「うん。皆好き勝手に欲望ばっかりぶつけて、可哀そうじゃない。だから、安心して眠ってくださいって――お祈りみたいなものかなぁ」


「あぁ、そっか! それいいね。私もこれからそうする」


 二人はその会話の後で並んで手を合わせ、曽我神社の小さな本殿に頭を下げた。


 それから再び階段を上り、箱根神社本殿の立派な神門をくぐった。拝殿で箱根大神に手を合わせ、龍神水でのどを潤し、九頭竜神社の新宮に参拝した。その後、絵馬殿の奥に、詩乃は安産杉という神木を見つけた。幹の周りは赤い、大人の腰ほどの高さの木柵で囲まれていて、その柵の周りには人が集まり、神木の写真を撮ったり、手を合わせたりしている。


 詩乃もその神木の柵の前にやってきた。巨大な安産杉は、見上げてもその樹体の先は、枝葉に遮られて見ることもできない。その巨大な身体を支える幹は太く、その付け根は二股に別れて、洞窟のようになっていた。なるほど、だから安産杉なのかと、詩乃はその名の由来がわかったような気がした。


「〈安産杉〉様にはお願いしようかな」


 詩乃が言った。


「え!? 何を?」


 柚子は吃驚して詩乃に聞いた。


「安産だよ」


「気が早いって!」


 柚子は頬を赤らめて応えた。


 詩乃は顔に微笑を浮かべ、そうしてまた、安産杉を仰ぎ見た。


 こんなのは、高校生カップルの言葉遊びだと、詩乃は自分に言い聞かせた。結婚も、妊娠も、出産も、そして子育てということの現実も、全く考えていない、この場限りの言葉遊び。――しかし本当は、詩乃は、ただ柚子をからかうためだけにそう言ったわけでもなかった。自分は本当に、今この杉のご神木に手を合わせても良いと思っているけど、新見さんはどう思う、と詩乃は心の中で柚子に訊ねていた。

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