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星の海で遊ばせて  作者: ノマズ
4,月の光に見上げれば
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たまくしげ(3)

 ゴンドラは程なく姥子の駅を通り、正面に芦ノ湖をとらえた森の斜面の道を、木々の樹頭と同じほどの高さで下った。詩乃は、終点の桃源台駅に着くまで、箱根の伝承や伝説について、柚子に話した。――芦ノ湖で悪さをしていた悪龍を改心させ、守り神にしてしまうような説法とは、どんな感動的なものだったのだろうか。大涌谷を見て〈憐れ〉と思ったという弘法大師は、そこに住む人を〈憐れ〉と思ったのだろうか、それともその大地そのものを〈憐れ〉と思ったのだろうか。はたまた、芦ノ湖を作ったという噴火は、どれだけ凄まじいものだったのだろうか――そういう話になると、詩乃の本領は存分に発揮された。普段の口数の少なさが嘘のように饒舌になる。


 百年前、二百年前、何千年という昔のことも、詩乃は当たり前のことのように語り、疑問を柚子に投げかけた。曾我兄弟も弘法大師も、龍を改心させたという万巻上人も、詩乃の世界では共存して生きている。柚子は、そんな詩乃の世界に入り込むのが好きだった。


 終点でゴンドラを降りた時には、柚子の顔に笑顔が戻っていて、その笑顔で「お腹空いたね」と柚子が言ったので、詩乃はほっとした。


 桃源台駅のすぐ外には、桃源台の港がある。港からは〈海賊船〉と呼ばれる観光船が出ていて、それに乗って芦ノ湖を遊覧するのが、箱根旅行の定番コースである。


 港の、湖に飛び出したコンクリートの桟橋の横には、大航海時代の戦艦を思わせるシルエットの、三本マストの船が停泊していた。赤と白の、イギリスの近衛兵を連想させる色彩は玩具のようで、詩乃の趣味には合わなかったが、その派手な色や船型が、青い湖と、背景の森の緑にはよく映えていた。その船に乗っても良かったが、二人は、先にお昼ごはんにしようと決めて、湖沿いに食事処を探すことにした。


 湖を取り巻く道沿いには土産屋や料理屋が軒を連ねていた。カレー屋に蕎麦屋にフランス料理、食事喫茶にホテルのランチビッフェ。どれもこれも美味しそうに映って、柚子は目移りしてしまう。


「えぇ、どうしよう、全部美味しそう。全部食べよっか!?」


 柚子の無茶な提案に、詩乃は笑ってしまった。本気で言っていそうな所が、何とも新見さんらしいと詩乃は思った。自分が「そうしよう」と言ったら、本当にそうしかねない。ふんわりゆったりしている割に、新見さんは案外、刺激的なノリの良さを持っている。


「新見さん、フードファイターだったっけ?」


「違うよ! でも、お腹空いてると、うっかりファイトしたくなっちゃうんだよね。詩乃君、何がいい?」


「折角だし、焼き魚が食べたいかなぁ」


 詩乃が言うと、柚子はすぐに「じゃああそこにしよう」と、店を見つけた。木造二階建ての和風料理屋で、店の前の看板に、川魚料理が売りだと宣伝されている。お品書きにはしっかり、鮎やニジマスなどの焼き魚の写真も載せてある。魚の焼ける匂いが漂ってきて、二人の腹が同時に鳴った。二人は互いに顔を見合わせて、笑った。


 二人は暖簾をくぐり、二階の、湖が見える窓際のテーブル席に座った。テーブルには四角形の七輪が埋め込まれていて、詩乃はそれだけで、最高の昼食にありつけたと目を輝かせた。


「詩乃君、焼き魚好きなの?」


「川魚は特にね。――あ、ありがと」


 柚子から献立表を受け取り、詩乃は早速、網焼き料理の一覧を確認した。焼き魚は鮎とニジマスとイワナ。三つとも頼もうと詩乃はすぐに決めた。山菜やキノコ、鳥や野菜の串焼きもある。


「わぁ、すごいよ詩乃君、大権現ランチだって」


 随分大仰な名前だなと思って、詩乃もそのランチメニューを見た。ランチにしては値段も高いが、内容は確かに、それらしかった。魚の焼き物一品にとろろ蕎麦、白飯、鶏肉と野菜の串物、茶碗蒸し、ワカサギの天ぷら、松茸の澄まし汁、デザート一品。


「新見さん大権現になる?」


「うん、今日は大権現になる。詩乃君は?」


「焼き魚三尾と、何か串焼き頼もうかな」


 注文をして、少しすると、次々に料理が運ばれてきた。大権現ランチは、食器や飾りも華やかで、一足早い秋の賑わいを見る様だった。とろろ蕎麦には紅葉の飾り葉が一枚置かれていた。詩乃はそれを見て、思わずつぶやいた。


「――ここらあたりは山家ゆえ、紅葉があるのに雪が降る」


「それ何!」


 人懐っこいセキセイインコのように、柚子はぐいっと、詩乃を見つめて聞いた。詩乃は、そのセリフの由来を柚子に説明しながら、温度が上がってきた七輪に鮎と串物を乗せた。柚子は、詩乃の言ったセリフが箱根を舞台にした浄瑠璃の一場面なのだということを知って、どうして詩乃君は、そういうことに詳しいのだろうと、いつものことながら感心してしまった。


「浄瑠璃って、名前知ってるくらいで、全然知らないよ」


「自分もよくは知らないよ。観たのは、歌舞伎の方だったから――あぁ、えっとね、浄瑠璃と歌舞伎って、お互いに同じのをよくやってたんだって」


「へぇ、そうなんだぁ。詩乃君、昔話とか、そういう古典とか、本当によく知ってよね。尊敬しちゃうよ」


「そんなことないよ。今日新見さんに話した話だって、ここに来るから調べただけだよ。もとから知ってたわけじゃないし」


「え、そうなの!?」


 そうだよと、詩乃は当然のように応えた。


「何も知らないで来たら、箱根に失礼かなって」


 じゅじゅじゅっと、鮎の目の隅やエラから水分が出始まり、空腹には耐えがたい魚や肉や野菜の焼ける美味しそうな匂いが、七輪から立ち上り始める。詩乃は、鮎の串を持ってひっくり返し、柚子もそれに倣った。白い煙が上がり、詩乃は鮎と一緒に焼いている串物の面倒を見た。そんな詩乃の様子を、柚子は煙越しに見つめた。


 人だけではなく、動物や草、水や空気や、その土地の心までもを汲み取ろうとする、そんな詩乃君の信心深さと懐の深い優しさに、体も心も運命も、全部委ねて溶け込んでしまいたくなる柚子だった。


 私の全部をあげるって言ったら、詩乃君は何て言うだろう。いらないって言うだろうか。困るだろうか。柚子は、鮎の焼け具合を確認する詩乃を見つめながら、そんなことを考えていた。


 詩乃は魚を一尾ずつ、ゆっくり焼きながら、味の違いを楽しみ、柚子も大権現ランチを、詩乃が魚を食べるのと同じくらい時間をかけて平らげた。食後には、柚子にはデザートの白玉あんみつが運ばれてきた。詩乃はホットコーヒーを頼んだ。柚子が金のスプーンに白玉を乗せて嬉しそうにしている様子を見ると、詩乃は、自分の理性が蕩けてしまいそうになるのだった。


 詩乃は、柚子と目が合うたびに、柚子があんみつを口に運ぶたびに、コーヒーを口に含み、その苦みを舌で転がした。


 食事の後、二人は港近くの浜辺を散歩した。三十分ほどのんびり、湖の景色を見て腹ごなしをして、その後で、港から遊覧海賊船〈クイーン芦ノ湖〉号に乗った。規律と重厚感と華やかさを混ぜ込んだ、英国風の作り込まれた内装は、海賊船というよりは豪華客船である。二人は展望デッキに上って出航を待ち、船が出ると、柚子は、離れてゆく小さな港に手を振った。近くにいた家族ずれの子供が先にそうしていて、柚子がそれを真似したのだった。


 桟橋にいる人たちも手を振っていて、まるでこの船が、大海原へと向かうかのようだと、詩乃は笑ってしまった。しかし一度船が動き出すと、詩乃の心は急に心細くなった。今自分たちは船の上にいて、船は、地面を離れて湖の上を浮かんでいる。その実感が押し寄せてくる。


「寒いね」


 と、柚子は詩乃の腕にぎゅっと掴まって言った。詩乃は、柚子の温かさに安堵した。二人は展望デッキを降りて、船室に戻った。二階船室の、ゆったりした二人掛けのソファーに座り、詩乃はふうっと息をついた。柚子はその肩に身体を預けた。


「暖かい?」


 身体をくっつけて、柚子は詩乃の顔を覗き込んだ。


「新見さんの体、いつもぽかぽかしてるよね」


 ふふっと、柚子は少し恥ずかしがって微笑んだ。


 柚子は、一旦詩乃の体から離れて、ソファーの横に置いていた手提げのチャックを開けた。そして取り出したのは、赤い包装用紙に包まれた、平たい四角形の箱だった。柚子はそれを、両手で持って、詩乃に差し出した。


「はい、お誕生日プレゼント」


「え……」


 詩乃は、この旅行がプレゼントだと思っていたので、驚いてしまった。


「開けてみてよ」


 遠慮する詩乃に、柚子が言った。


 詩乃は箱を受け取り、包装用紙をとった。金色のアルファベッド文字が中央に書かれた、四角い黒い箱。詩乃は恐る恐るといった調子で箱を開けた。


 中身は、懐中時計だった。


 金色のピカピカ光るハンターケース。ケースの中央はガラスがはめ込まれていて、そこからは、蓋を開けなくても文字盤を見ることができる。ガラスから見える文字盤には時間を示す時計の三つの針と、三日月形に切り取られたムーンフェイズの夜空が見える。時計の裏には、詩乃の名前と〈Birthday〉の文字、今年の西暦と、詩乃の誕生日の日付が彫刻されている。


 詩乃は、柚子の顔を見た。


 柚子は、詩乃の反応を楽しむために、いたずらっぽい黒目がちな瞳で、詩乃のことを見つめていた。


 詩乃は言葉が出てこなかった。


 新見さんはなんて優しいのだろう、という気持ちが波のように詩乃の感情を飲み込んだ。新見さんは、自分を喜ばせようというその一心で、このプレゼントを選んでくれたのだろう。今日の旅行も、今日見せてくれる笑顔も、身体のぬくもりも、きっと全部そうなのだろう。詩乃は懐中時計の金色の輝きに、それを気づかされるようだった。


 そうすると詩乃は、ただ柚子の優しさに圧倒されて、じいっと、懐中時計に視線を落とし、もじもじとその蓋を撫でることしかできなくなってしまうのだった。


「どう、懐中時計?」


 柚子は、詩乃に訊ねた。


 詩乃は、喉の奥をきゅっと閉じて蓋をして、うんうんと、頷いた。


 詩乃は、自分の手の中にあるこの美しい懐中時計を、どうしたものかと思った。大切にする、ずっと使う、贈ってくれてありがとう――それは当然として、その上で何か、相応しい言葉はあるだろうか。


 詩乃はハンターケースを開いた。


 ローマ数字の文字盤が明らかになる。


 新見さんと同じ時間を進めたらどんなに良いだろうかと、詩乃はふと、そんなことを考えた。止まった様な同じ時間を繰り返すのではなく、自然の流れの通りに、月の満ち欠けのある世界を、二人乗りで進めたら、と。


「いいのかな……貰っちゃって……」


 詩乃は、呟くように言った。


「いいんだよ、詩乃君へのプレゼントなんだから。貰ってよ!」


 うん、と頷いた詩乃は、再び時計をしげしげと見つめた。詩乃は両手の掌で時計を持ち、その文字盤を見つめ、そしてハーフハンターのケースを親指で撫でた。まるで、鳥の雛を愛でるかのような詩乃の様子に、柚子は胸を打たれてしまうのだった。自分の心そのものが、詩乃に撫でられて、大事にされているような気がした。


 柚子は気持ちのままに、再び詩乃の肩に体を預けた。


 詩乃は暫くじっと、時計を見つめていた。


 そうしているうちに、耳元で寝息が聞こえてきた。いつの間にか柚子は、詩乃の肩に首を乗せて、眠っていた。安心しきった横顔の、すべすべしたその頬を、詩乃は鉤形に曲げた人差し指の横腹で撫でた。


 たくさん食べたから、お昼寝の気分になったのだろう。


 詩乃は眠っている柚子に微笑んだ。

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