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星の海で遊ばせて  作者: ノマズ
4,月の光に見上げれば
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たまくしげ(2)

 詩乃の言葉を聞いて、柚子はほろっと、泣きそうになってしまった。誰に媚びるでもなく、裏があるわけでもない心そのままの言葉を詩乃が口にしてくれたこと。柚子にはそれが嬉しかった。


 登山電車は折り返し、折り返し、箱根の山を登った。細長く暗いトンネルをいくつも抜けて、やがて電車は、終点の強羅駅に着いた。二人はそこから、ケーブルカーに乗る前に、駅の外に出た。外に出て、駅を振り仰いだ詩乃は、おおっと声を上げ、息を呑んだ。


 屋根の広い、北欧の山小屋のような(ただし、山小屋にしては大きいが)木造建築の外装。この強羅の駅の建物は、詩乃の記憶そのままの姿だった。当時はこの駅の名前や、ここが登山鉄道の終点だということは知らなかった。しかし、この特徴的な駅は、詩乃の心の奥にずっとしまわれていて、色褪せてはいなかった。


「やっぱり、ちゃんと来てたんだ」


 詩乃は呟いた。


 駅を見上げる詩乃の、過去を思い返す懐かしそうな眼差しを見て、柚子は、胸を締め付けられた。ここは、詩乃君にとっては、亡くなったお母さんとの思い出の場所なんだ。修善寺のあの虹の里もそうだと言っていた。熱海もそうだった。そしてこの強羅の駅も。


 柚子はそしてこの時に、詩乃が言っていた、「娯楽じゃない」という言葉の意味がわかったような気がした。柚子は、詩乃の胸の内を思うと感情が溢れてきてしまい、思わず鼻をすすった。


 驚いたのは詩乃だった。


「どうしたの新見さん? ――大丈夫だよ」


 詩乃は、目に涙を浮かべる柚子の肩に手を回し、ぽんぽんと優しく擦った。柚子は、ぐすん、ぐすんと鼻をすすって、瞼で涙を絞った。


「なんで新見さんが泣くの」


 詩乃は笑いながらそう言って、柚子の頭を撫でた。


「だって……」


「大丈夫だから、ね。アイス買ってあげるから」


 詩乃はそう言うと、柚子を宥め宥め、駅横の喫茶のテイクアウトカウンターで二人分のミルクアイスクリームを買い、一つを柚子に渡した。柚子は、詩乃の差し出したアイスクリームの天辺を、唇だけでちょこんと食べた。


「甘い……」


 柚子は詩乃からアイスを受け取った。


 二人は、土産屋の前に出ていた赤布の和式ベンチに並んで座った。


「新見さんはここ、初めてなんだよね?」


 詩乃の質問に、柚子は、うん、と小さく頷いてアイスを舐めた。


「まだ小さいころの記憶だから、自分が本当にここに来たことがあったのかどうなのか、あんまり自信無かったんだ」


「来て良かった?」


 柚子は、心配そうに、詩乃を見つめながら聞いた。


 詩乃は深く頷いた。


「たぶん、一人だったら、一生ここには来なかったと思う。一人じゃなくても……新見さんとじゃなかったら、やっぱり来なかったかな」


 柚子は、ベンチから見える駅前の様子を眺めながら言った。


 柚子は、詩乃の顔をじっと見つめた。


「来られて良かった。新見さんと一緒に」


 詩乃が言うと、柚子は、恥ずかしがって詩乃の肩に自分の肩をぶつけた。


 ソフトクリームを食べた後、二人はケーブルカーに乗って早雲山の駅に上った。早雲山駅には、広々とした展望テラスがあり、二人はそのテラスで、箱根の山の景色を楽しんだ。山の上には雲が浮かび、山の緑には雲の影ができている。綺麗だね、と素直に感動を口にする柚子の横顔に、詩乃は自分が男であることを自覚させられた。柚子の髪は風になびき、その可愛らしい耳とうなじのラインが露になる。


 柚子は髪を軽く押さえつけ、詩乃が見ているのに気づき、ちょっとした戒めを含ませた目で詩乃を見つめた。詩乃は、湧き起こった衝動に突き動かされて、柚子の左頬から耳の後ろまでにかけてを、右手で優しく触れた。


 柚子は息を吸い込み、途端におとなしくなった。


 柚子の瞳が揺れて、潤む。


 一体自分は、なんでこんなことをしているのだろう。このあと、どうすればいいのだろう。詩乃の思考が停止している間に、柚子は微かに顔を上に傾けた。詩乃は、柚子の瞳の強さに導かれ、吸い込まれるように、柚子の唇に自分の唇を合わせた。


 詩乃は、柚子の唇の感触がはっきりわかるほど自分の唇を押し付けて、ちゅっと、柚子の口を吸った。柚子は、詩乃の吸引に抵抗せず、自分の舌をそれに預けた。詩乃は柚子の舌を自分の窄めた唇の中に招き入れ、ソフトクリームをなめとるように柚子の舌を舐めて、そのまま顔を離した。


 ぞくぞくっと、柚子は背中に電気が走ったようになり、ぎゅうっと肩甲骨を引き締め、息を吐きながら瞼を開いた。詩乃は、柚子を驚かさないように慎重に柚子の頬から手を離し、にやっと微笑んだ。


「いい景色だね」


 詩乃が言うと、柚子は恥ずかしそうにしながら笑った。


 その後は二人は、ロープウェーに乗って大涌谷の駅で降りた。子供のころの旅行では、詩乃は大涌谷も来たはずだったが、この場所の景色は、硫黄の強い匂いを吸い込んでも、詩乃にはピンとこなかった。


 駅から玉子茶屋へと続く山道を二人で歩き、玉子茶屋では、〈地獄のような〉と表現される噴煙地の景色を眺めながら、名物の黒玉子を分け合って食べた。地面から噴き出す湯気が、たまに風に乗って二人の座るベンチまで流れて来て、そのたびに顔をしかめる詩乃の姿が、柚子にはやけに面白く映った。


 その後、山道を下って大涌谷駅に戻る途中で、二人は延命地蔵尊に寄った。そこには湯かけ地蔵というのがあった。四十センチほどの錫杖を持った姿の可愛らしい座像で、穏やかな表情を浮かべ、石の蓮の上に座っている。その横には石の小さな手水鉢があり、上方の石穴から、ちょぼちょぼと湯が注ぎ込まれて溜められている。鉢には柄杓があり、参拝者はその柄杓で手をすすぎ、地蔵に湯をかけるのである。


 詩乃は柄杓に湯を汲んで自分の手をすすぎ、柚子の手をすすぎ、それから、地蔵にかける湯をまた汲んだ。しかしすぐには湯をかけなかった。地蔵を見つめ、呼吸を整える。このお地蔵さんは、何百年もここで湯をかけられながら、何を思っているのだろうと、詩乃はそのことを少し考えていた。


 それから詩乃は、お勤めご苦労様です、という思いを込めて、地蔵の頭から湯をかけた。


 地蔵を見る詩乃の眼差しの優しさに、柚子の心が温かくなった。他の観光客は地蔵に、楽しそうに湯をかけている。願い事叶うかな、とか、腰痛いから腰にかけよう、だとか、そんな風にして。しかし詩乃は黙々と、地蔵を見つめながら、その丸い頭に湯をかける。湯をかけた後はまた、じっと、空の柄杓片手に地蔵を見つめる。


「何かお願いしてるの?」


「え、お願い?」


 詩乃には神仏に願掛けをするという習慣がなかった。神社に行く機会があっても、賽銭して手を合わせることがあっても、それは願い事のためにそうするのではなかった。


「してないよ」


 詩乃はそう言って、柄杓を柚子に渡した。


 柚子は柄杓を受け取ると、「私はしようかな」と呟いて、地蔵の頭に、丁寧に湯をかけた。詩乃と同じように、ゆっくりと三度。


「何お願いしたの」


 柄杓を置いた柚子に詩乃が訊ねた。


「なーんだ」


 柚子がクイズを出してきたので、詩乃は少し考えてから、答えた。


「子宝に恵まれますように?」


「違うよ! 気が早いよ!」


 柚子は、顔を赤くして言った。


 気が早い、というのを聞いて、詩乃は、そういう意味じゃないよと心の中で思った。地蔵は子供の守り神なので、願い事は子供にまつわるものだと詩乃は考えて、思いついたままに言ったに過ぎなかった。詩乃は、参ったなと恥ずかしげに笑った。


 二人は大涌谷の駅に戻り、そこから芦ノ湖へと向かうロープウェーに乗った。ゴンドラに乗ってすぐ、立派な富士山が進行方向に見え、同乗していた観光客も歓声を上げた。


 眼下には緑の森、奥には湖が見える。


 傾斜を下るゴンドラから芦ノ湖の静かな湖面を眺めつつ、詩乃はぽつりと、柚子に言った。


「誕生日、母さんの命日なんだ」


 突然の告白に、柚子は目を大きく開いた。


 詩乃は、そのことを、今言わなければいけないと思った。聞かれてはいないけれど、きっと新見さんは、気になっていたに違いない。誕生日のお祝いのこんなに楽しいデートの最中だけれど、これを言わずに今日を終えてしまったら、それこそ、新見さんに対して不実ではないか。


「――別に、めそめそしてる気はないんだけど、なんか、やっぱりね……祝う気になれなかったんだよ」


 柚子はそれを聞いて、血の気が引いた。


 詩乃君は、私が誕生日を祝おうとするのを、どういう気持ちで受け止めていたのだろうか。そのことを考えると、柚子は、さっきまで笑っていた自分が恐ろしくなってきた。そして、どうして、その可能性を少しでも考えなかったのだろうと、柚子は自分の浅はかさを恥じた。詩乃君のお母さんの命日とも知らずに、私は、その日をお祝いしようとしていた。


 そして次に柚子は、自分はそのことで、実はもうすっかり詩乃君に嫌われてしまっているのではないか、と思った。誕生日を翌週の今日に回したのは、本当はテストのためではなく、祝ってほしくないからだったとしたら――私は詩乃君の思いを無視して、強引にここに、詩乃君を連れてきてしまった事になる。詩乃君と、詩乃君のお母さんの思い出のあるこの場所に。そして私は、何も知らずに、能天気にはしゃいでいる。


 私はなんて残酷なことしてしまったのだろうと、柚子は思った。


 自分のしたことの恐ろしさに、柚子は唇を震わせた。


「私、そんなつもりじゃ……」


 柚子は、両手で口元を押えた。


 それ以上、言葉が出てこなかった。何を言っても、言い訳になってしまうと思った。


「私……」


 どうしよう、と柚子はそう思うばかりで、何も考えられなくなってしまった。


「――思ってないよ、そんなこと」


 詩乃は、柚子の瞳の奥から、柚子の思考を汲み上げて言った。


「むしろ逆だよ。誕生日が待ち遠しかったのは初めてだった。今年は一週間分、多めにわくわくできた。テスト前でラッキーだったよ」


 詩乃の言葉に、柚子は目を潤ませた。


「ほら、富士山も綺麗だよ」


 詩乃に言われるまま、柚子も富士山を眺めた。


「湖も青いねぇ」


 詩乃がまたそう言い、柚子は今度は、だんだん大きく見え始めた芦ノ湖の、たっぷりした湖面に目をやった。


「龍見つけたら教えてね」


「え、龍?」


「芦ノ湖には龍の神様がいるんだよ。いない?」


「えっと……」


 咄嗟に、本気で探し始める柚子がおかしくて、詩乃は笑ってしまった。


「次の駅は〈姥子〉だよ。金太郎探してよ」


「え、金太郎?」


「そうそう。金太郎が傷を癒した温泉があるんだって」


「そうなの?」


 うん、と詩乃は笑って頷いた。

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