たまくしげ(1)
新宿駅の小田急線乗り場の改札口に、柚子は、待ち合わせの十分前にやってきた。
タイトな白いニットに、下はシナモンブラウンと亜麻色で組み合わされた業平格子模様のプリーツスカート。靴は、ハイキングにも耐えられるように選んだ若草色のスニーカー。ベージュホワイトのバックは姉から譲り受けたものを、服に合わせて選んできていた。首には、落ち着いた深緑色を基調とした、シックなデザインのスカーフ。それを、結び目が左側になるように二重巻きにしている。全ては、詩乃にもらったネックレスが映えるように、という柚子なりの工夫だった。
改札口付近の人の流れのない場所で立っている柚子は、そこにいるだけで人目を引いた。詩乃は遠目から、柚子の立ち姿をガラス窓越しに少しの間見ていた。実は詩乃は、三十分前には到着していて、時間を埋めるために、改札近くの喫茶店に入っていた。詩乃は、柚子の姿にうっとりとため息をつき、それから、コーヒーの最後の一口を飲んで店を出た。
喫茶店を出た瞬間に、柚子は詩乃を発見した。細身のジーンズにVネックのシャツ、その上からオーシャンブルーのカーデガンを着ている。昨日切って整えたばかりのセンターパート――髪型の変化を意識して、詩乃ははにかんだ。
「おはよう!」
柚子は、満面の笑みで詩乃を迎えた。
「あの後切ったの!? すごく似合ってる! 格好いい!」
無邪気にそんなことを言って褒めてくれる柚子に、詩乃は、どうしょうもなく照れてしまった。そう言う新見さんは、靴からバックから、何から何まで似合っているじゃないかと、詩乃は心の中で叫んだ。特にその、スカーフ。なんて大人っぽいのだろう。自分は、新見さんと並んだら鼻たれ小僧に見えるのではないかとさえ思う。それに、ネックレス。――自分のあげたそれは、新見さんの審美眼に適ったものだったろうか。
笑顔の柚子を、詩乃は不意打ちで抱きしめた。
新見さんも似合っているよ、だとか、可愛い、だとか、服やらコーディネートのセンスやらをそう言う言葉でいちいち一つずつ褒めるのは、無粋なような気がした。
「おぉ!?」
柚子は抱きしめられるままに、驚いて声を発した。
腕を解き、詩乃は驚く柚子に小さな笑みを見せて言った。
「おはよ」
それから二人は、改札を通り、九時過ぎのロマンスカーに乗った。展望席を予約していた柚子は、その席に詩乃を案内した。自分のために予約してくれたんだ、高かったでしょ、ありがとうね――と、そういう思いは言葉にはせず、胸の内にしまって、詩乃は代わりに柚子に言った。
「新見さん、窓側座りなよ」
柚子は、詩乃の小さな優しさを受け取って窓際に座った。その隣に、詩乃が座る。
「なんか、本当に全部、エスコートされちゃって……」
「うん、そうだよ。今日は詩乃君の誕生日だからね。お姫様気分でいいよ」
詩乃は、柚子の冗談に笑ってしまった。
ラッパの発車ホーンが軽快に響き、窓の景色が動き出した。
詩乃は、すうっと息を深く吸い込み、背もたれに体を預け、目を閉じながら、息を吐いた。温泉に体を沈み込ませたときと同じような感覚を覚えていた。近ごろ感じていたストレス、生活の面倒くささから解放されたような気がした。
「旅だねぇ」
詩乃は、しみじみとそう言った。
そう言われると、柚子も、その通りだなぁと改めて感じた。柚子は、箱根はこれが初めてだったが、旅行なら、国内も国外も、随分行ってきた。けれどこの旅行は、今までのどの旅行よりも旅行らしいと、柚子は思った。
「詩乃君、旅行好き?」
「どうだろう」
詩乃はひとまずそう言ってから、電車の走行音を聴きながら考えた。
「娯楽みたいな旅は好きじゃないかなぁ」
詩乃は少し考えた後、気の抜けたような間延びした口調で答えた。
詩乃がリラックスできていることに柚子は安心した。
「今日は、娯楽じゃない旅?」
「うん、自分にとっては、たぶん、全然違うと思う。新見さんとの旅は、どこに行ったって娯楽じゃないよ。娯楽じゃなくてその、なんて言うんだろう……」
詩乃はそう言って、今度はさっきよりも深く考え込んだ。
柚子は、詩乃の言わんとしていることが、分かるような気がした。柚子は、詩乃の右手に触れて、その手を、マッサージするようにして弄んだ。詩乃は柚子の手を、微かに握り返した。
背の高い建物の都会の風景が、だんだんと変わってゆく。線路の両側が民家になり、その民家も、家と家の間の空間が広がってゆく。やがてトンネルを抜けると、景色はすっかり変わり、線路の両側は森に、正面は緑生い茂る山になった。水色の空と薄い白雲、朝の光が、木々の葉を照らして、色々な緑に光を反射している。
「新見さんは、行ってみたい所ある?」
詩乃に聞かれて、柚子は、一番思い出に残っている旅行のことを詩乃に話した。小学生の一年生か二年生のころ、家族で夏の北海道に行った。その時の牧場でのことを、柚子は今でもよく覚えていた。買ってもらったばかりの、小さな電子ピアノを持って行った。たたむと小学生でも持ち運べる手提げ型になる、赤いピアノ。
「――弾いてたらね、牛が聞きに来たんだよ。しかもいっぱい!」
大きな牛や小さな牛、白いの、黒いの、白黒のマダラに、茶色い牛。それが、遠くの方からたくさん、群れごと近づいてきて、私の演奏を聞いてくれてるの――柚子の話す思い出の景色を、詩乃は想像した。
「何弾いたの?」
「花のワルツ」
柚子はそう言って、そのメロディーを詩乃のために口ずさんだ。
詩乃は、小学生の小さい柚子が、牛たちを前に花のワルツを弾いているその景色を、まるで自分もそこにいたかのように、ありありと想像できた。
「たぶん、ちょうどピアノの先生に習ってたんだと思う」
詩乃は、目元に笑みを浮かべ、かみしめるように頷いた。
「目に浮かぶよ。牧草の匂いまで。――北海道の牧場は、夏でも涼しいの?」
「うん、風が涼しかった気がする」
目を瞑る詩乃の横顔を、柚子はじっと見つめた。
「いいなぁ」
詩乃は、瞼の内側に広がる光景を、今まさに眺めているような気持ちで言った。風の吹く草原。幼い新見さんが小さなピアノの鍵盤を、小さな指で、一生懸命弾いている。牛たちは黒い瞳で少女を不思議そうに見つめながら、オルゴールのような音の可愛らしい花のワルツに耳を傾けている。そのうち新見さんは顔を上げて、集まってきた牛たちに気づくと、牛たちに笑顔を見せる。
詩乃はゆっくりと瞼を開けて、柚子に言った。
「指定校推薦、もしダメでも、そんなこと全然気にしなくていいからね」
「え?」
「新見さんは、新見さんらしく居てくれるだけで本当はいいんだ。――何か、変に頑張らせちゃった気がして……ごめんね」
柚子は、詩乃の手を一層強く握った。
電車は小田原を超えて、山間の町を眺める一本道のレールを走り、やがて、終点の箱根湯本駅に到着した。バス通りの観光地らしい風景、電車を降りた観光客たちの嬉しそうな声、そして山林の中にある宿泊施設の白い建物。ホームからの景色と気配に、二人は、箱根にやって来たんだな、という確かな実感を覚えた。
「どこから回ろっか」
柚子は、詩乃に訊ねた。
どうしようかと、詩乃はぼんやりと応えた。箱根の伝承や伝説は調べて来ていた詩乃だったが、どこをどのように回ろうというツアールートについては、全く頭になかった。
「一応、ここから登山鉄道に乗って芦ノ湖をぐるっと回って戻ってくるのが一般的みたいなんだけど――逆回りのほうが、空いてるんだって。逆回りで行く?」
詩乃君は人混みが苦手だろうと柚子は考えて、空いている方を提案してみた。ところが詩乃は、柚子にとっては少し意外な答えを返した。
「普通の方で回りたいな」
じゃあそうしよう! と、柚子は元気よく返事を返し、ぐいっと握り拳の手を持ち上げた。そうして二人は、ドアを開いて待っていたオレンジ色の登山電車に乗り込んだ。
電車は、発進すると早速急なカーブを上り始めた。ゴトン、ゴトンという腹に響く音が二人の冒険心をくすぐった。左手はすぐに箱根駅前の町を見下ろすほどの高さになって、その景色もすぐに、木々に遮られた。右手はすっかり山の斜面である。小さくて暗いトンネルをいくつもくぐらないうちに、詩乃は、記憶の中に鮮明に残っている紫陽花を見つけた。右手のレールの外側に、花弁はすっかり色あせて、コーラのような色になっているが、紫陽花だ。
「ほら、紫陽花だよ」
詩乃が指さした。
柚子はそれを見たあと、詩乃の表情を覗った。
紫陽花は紫陽花でも、すっかり枯れてしまっている。こんな枯れた紫陽花で、詩乃君はがっかりしたんじゃないかな、と柚子はそう思ったのだ。
しかし詩乃の表情は穏やかで、目には、活力が溢れていた。
柚子はバックのミニポケットから、パティックフィリップの革タグ付きキーリングを取り出した。去年詩乃がプレゼントしたものである。そのキーリングには、詩乃とペアのペンギンキーホルダーと、そして、一月ほど前詩乃が、気分で柚子にプレゼントしたピンク紫陽花のキーホルダーがつけてあった。
柚子は紫陽花のキーホルダーを、嬉しそうに詩乃に見せつけた。
詩乃は、そんな子供っぽいことをする柚子に、思わず笑ってしまった。柚子はキーホルダーをしまいながら、詩乃に訊ねた。
「前に来たの、何月ごろだったの?」
「雨っぽい時期だった気がするんだよね。曇ってたと思う。でも紫陽花ははっきり咲いてたから、五月とか六月だったんじゃないかなぁ」
「そっかぁ……」
その時と同じ、綺麗な紫陽花を見せてあげたかったなと、柚子は思った。
今更ながら詩乃は、彼女ってこんなに可愛い存在なのだろうかと、柚子の自分の気持ちを考えてくれる様子を見て、感動を覚えた。
「遊園地のどんなアトラクションも、この登山鉄道には敵わないと思うよ」
詩乃は、柚子に言い聞かせるような口調で言った。
柚子は、詩乃の次の言葉を待った。
「どんなに危険そうに見える乗り物も、面白く作ってある人形も、人間のために作られてる。だけどここの紫陽花は見てごらんよ。人間の事なんて知るかって感じで、気ままに色づいて、気ままに色あせてる」
詩乃の、少し演劇めいた抑揚の強いセリフに、柚子はくすぐったそうに笑った。
「――それがいいんだよ。綺麗な花だからいいんじゃなくて、綺麗とかどうとかは、人間の勝手な価値観で――ほら、よくオウムとかサルとかを見て、頭がいいとか悪いとか、人間でいうと何歳児並みとかって言われたりするじゃない」
柚子はうんと頷いた。
「ああいうのと一緒で――ここの紫陽花も、人間の一方的な価値観に媚びたりしてないでしょ。だから、それがいいんだよ。鳥やサルからしたら、人間は相当馬鹿だと思うよ。……嬉しいのは、ここに紫陽花が本当にあったんだって、分かったことだよ。あと……」
詩乃は一旦言葉をやめて少し考えてから、続きを口にした。
「それを、新見さんと分かち合えることが嬉しい」