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星の海で遊ばせて  作者: ノマズ
4,月の光に見上げれば
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暮れのまつむし(7)

 詩乃の誕生日の翌週は、週明けの月曜日が学校で、火曜日は敬老の日で休みだった。テストはその翌日の水曜日から三連日で行われた。一年生、二年生は、十月末には文化祭もあるので、テスト期間中も、そのための活動をする生徒はいたが、三年生のほとんどの生徒は、放課後は翌日のテストのための勉強時間にあてた。


 茶ノ原高校は進学校を謳っているため、ほとんどの生徒は、テスト前やテスト期間中の勉強は宿命として受け入れている。三年生にもなると、教室に漂う緊張感を、あたかも果し合いに臨む武人の心地で、楽しむ生徒も多かった。


 宿命の三日間の最後は金曜日の三時間目。テストの最後の一コマは、特に緊張感が高まり、残る一分を切ったところで、ピークに達する。ページをめくる音、誰かの焦る息遣い、消しゴムが紙をこする摩擦音、そして、秒針の刻む一秒の音。


 やがて、鐘がなった。


 張りつめていた緊張が一気に緩まり、生徒たちが一斉に、思い思いの声を上げる。この瞬間、廊下が一瞬、驚くほどうるさくなる。


 答案用紙が回収され、各教室は、この時間試験管をやっていたクラス担任がそのままホームルームを進め、終わればこの日は放課となる。


 詩乃のE組は、ホームルームは翌週の必修科目の授業時間に変更がないことと、文化祭のステージ発表を希望する有志団体の応募締切の日付を確認しただけで終わった。テスト勉強はほとんどしていなかった詩乃も、教室の開放的な雰囲気にあてられて、座ったままぐいっと腕を伸ばした。


 父の面倒を見なければならない生活はこの後も続いていく。


 けれど、少なくともテストが終わって、新見さんとの時間が増える。


 詩乃は明るいため息をついた。


 そしてふと、この後、新見さんをご飯に誘おうかな、というアイデアが頭に浮かんだ。昼食はさっき食べたばかりだから、誘うなら三時のおやつ――デザートだろうか。


 テストを頑張っていなかった自分とは違い、新見さんは、きっとたくさん、勉強をしていたに違いない。だけどよく考えてみれば、指定校推薦をとるため、という以上に、自分は新見さんに、必要以上の頑張りを強いてしまったかもしれない。


 詩乃はそう思うと、胸の中に何とも言えない罪悪感が湧いてきた。


 もともと新見さんは、自分とは比べ物にならないほど、優等生なのだ。指定校――しかも大学入試ランキングの上位校として名の知れた大学への推薦を狙えるくらいの。そんな新見さんのことだから、自分なんかが心配しなくても、ちゃんと勉強は、必要なだけしっかりしていたのかもしれない。いや、たぶんそうだろう。新見さんに勉強を頑張るように仕向けたのは、結局つまるところ、自己満足に過ぎなかったのではないか。


 ホームルームが終わった賑やかな放課後の教室で、詩乃は一人、番号順の窓際の席で腕を組んだ。ちらりとその様子を遠目に見た千代は、詩乃が、よっぽどテストの出来が悪かったのだろうかと思った。


 詩乃はそれから、ふらっと教室を出て、三年A組に向かった。


 A組はまだホームルーム中だった。しかしそのホームルームも、すぐに終わった。詩乃のように、他クラスからやってきてA組のホームルームが終わるのを廊下で待っていた生徒たちが、遠慮なく、教室に入ってゆく。


 詩乃も、緊張しながら、教壇側の扉からA組の教室に入った。


 柚子は、友達に囲まれていた。紗枝と匠、その他、詩乃の知らない生徒が男も女も、合せて四人ほど。テストの内容にダメ出ししたりして、皆で笑っている。


 新見さんは皆でいる時、案外、聞き役なんだよなぁと、詩乃はぼんやりと思った。でも、新見さんの笑顔がそこにあるだけで、そのグループの会話はいつも弾んでいる。


 ――と、遠巻きに柚子たちを見つめる詩乃を、何かの拍子に、柚子が発見した。


 ぱちっと目を見開き、口も開いた。


 それだけでなく、ガタっと椅子から立ち上がった。


 急に柚子が一方向を見て立ち上がったので、皆も驚き、柚子の視線の先を追った。


「おっ!」


 最初に驚きの声を出したのは、紗枝だった。夏合宿の時の一件では、電話越しにやり取りをしたが、互いに顔を合わせるのは、随分久しぶりである。


 柚子は、小走りで詩乃のもとに近寄った。


「テストお疲れ様」


 柚子は、詩乃が何か言うより前に、そう言った。


 好きが溢れるような眼差しに見つめられ、その可愛さと無防備さに、詩乃は思わず笑ってしまった。柚子の背後では、早速皆が、騒いでいた。柚子と詩乃が二人でいる所を、実は、ほとんどの生徒は見たことが無い。しかし皆、柚子が、彼氏の前でどういう振舞をするのかについては、興味を持っていた。


「うん――いや、お疲れ様は新見さんだよ。お疲れ様」


 詩乃が言うと、柚子は満面の笑みを浮かべた。その瞳の中の輝きに、詩乃は呼吸を止めてしまった。頭が真っ白になって、言葉なんて出てこなかった。詩乃は困ったように瞼でひさしを作ったまま固まった。


 そのままキスでもするんじゃないかという見つめ合いに、オーディエンスは黄色い冷やかし声を上げた。そりゃあ黄色い声も上がるわねと、紗枝も思った。二人のやり取りは、見ている方がドキドキしてしまう。


「何か、あった?」


「何もないよ」


 と、詩乃はひとまずそう言ってから続けた。


「――この後、空いてる?」


 柚子は、さっきまで話していた紗枝や匠たちの方に顔を向けた。


「空いてるよー」


 そう答えたのは、紗枝だった。


 実は、この後柚子は皆から、ボーリングの誘いを受けていた。


 にやりと紗枝は、詩乃にだけわかる笑みを見せた。詩乃も、紗枝だけにわかる微笑を返した。こういう時、多田さんような友人は新見さんにとっては有り難いだろうなぁと、詩乃は思った。


「甘い物食べに行かない? 今日はご馳走するよ」


 詩乃が言うと、そこでまた、「フー」というような声をあげる生徒がいた。しかし柚子は、そういった周りの反応はもう意識の外だった。


「うん、行く!」


 無邪気に即答する柚子。


 詩乃にとってはいつも通りの柚子だったが、教室での、普段の柚子しか知らない生徒たちは、やはり驚いた。柚子は、普段から感情表現は豊かであるが、感情を曝け出すということはない。ところが今今の柚子は、危険を知らない子供の様だ。


「――じゃあ、正門で待ってるから」


 詩乃は、流石に注目を浴び続けるのも嫌だったので、そう言ってひとまず教室から出ようとした。ところが、そんな詩乃を、柚子は逃がさなかった。


「待って、一緒に行こ!」


 柚子はそう言うと、皆に注目されたり、声をかけられたりする中、手早く帰り支度をして、仕方なく立ち尽くす詩乃の隣に、すぐに戻ってきた。結局二人は、色々な声ではやし立てられ、見送られながら教室を出ることになった。


 正門を抜けるまで、二人はあまり何も言葉を交わさなかった。


 ただ柚子は、ずっと笑顔でいて、詩乃の顔を覗き込んでは、にやにやと、そのたびに頬を緩めた。詩乃は、柚子の気持ちを知るのに、わざわざ言葉を必要とはせず、柚子も、自分の嬉しさを表現する言葉が見つからないので、ただ気持ちのままに、笑顔でいた。


 学校を出てから駅までは、二人は肩がぶつかるような距離で並んで歩いた。先週降り続いた雨が、夏の残り熱を洗い流し、風や日差しは、秋の到来をいよいよ告げている。


 実家の八王子から、今は、詩乃は電車で通っているため、日暮里の駅までは徒歩である。今までは、駅まで一緒に帰るときには、詩乃は自転車を挽いていたので、それを見慣れていた柚子は、自転車を挽かずに歩く詩乃を見ると、その置かれている境遇を考えさせられ、心が痛んだ。


 そのうち柚子は、ぎゅっと詩乃の二の腕に抱き着いた。詩乃は、柚子から香るほの甘い香りと柚子の体の温かさで、頭も心もくらくらしてしまった。


「テスト、結構できたよ」


 柚子は、詩乃の腕に抱き着いたまま報告した。


 詩乃は、柚子の頭が、ちょうど良い所にあったので、空いている左手で、軽く柚子の前髪のあたりを躊躇いがちに撫でた。柚子はそれで、またにっこりと笑って、ぎゅうっと詩乃の腕を抱きしめた。その反動で詩乃はよろけてしまい、柚子は笑いながら「ごめんごめんと」軽く謝って、詩乃の腕を解放した。


「今日は新見さんのお疲れ会だから」


「そうなの?」


「うん」


「詩乃君は?」


「自分は、実は全然頑張ってないからお預け」


 やっぱり詩乃君だなぁと、柚子はそう思って安心した。テスト終わりの鐘の音よりも、詩乃の言葉は強く、柚子にテストが終わったのだということを実感させた。高校生の世界から、詩乃君の世界に戻ってきた、という気持ちになる柚子だった。


「私にお昼ごはん作ってきてくれた」


「今週は一回だけだったね……」


「嬉しかった」


「――別に頑張ってはないよ。自己満足だよ。食べてほしいなって、それだけ」


 首を垂れて、詩乃は言った。


 まるで罪の告白でもしているかのような詩乃の態度に、柚子はくすくす笑った。柚子があまりにも長く笑うので、詩乃は、自分が柚子に対して感じている後ろめたさが、実は取るに足らない些細なことのような気がして、それを確かめるために顔を上げた。


 そうして柚子の顔を見ると、詩乃は、新見さんが笑ってくれているから何でもいいか、という気になってくるのだった。


「お店、決まってるの?」


「うん」


 A組のホームルームが終わるまでの間に、詩乃は店を調べていた。池袋の、パフェで有名な喫茶店。メロンや苺や桃をふんだんに使ったパフェの画像が目に飛び込んできて、そこに決めた。


「――予約はしてないけど」


 柚子は、詩乃に連れられて、電車に乗った。


 この日、二人は詩乃がここと決めていた件の喫茶店でパフェを食べて、夕方前に、駅の改札口で別れた。柚子は丸の内線、詩乃は山手線。また明日ね、と互いに手を振って、詩乃は柚子がエスカレーターに消えていくのを目送った。


 詩乃はその後、新宿に寄って、すっかり伸びてしまった髪を、今となっては行きつけとなった理容院で切ってもらった。その帰り道、閉店セールをしているアパレルショップがあった。店頭のバスケットワゴンに小物類がどさっと入れられて、安売りされている。


 詩乃はふと、明日のために何か買おうかなと思い付き、ふらっと、その店に寄った。そこで二十分ほど品物を見て回り、通常価格の半額以下になっていた、四角いブラウンレザーのミニショルダーを買った。


 髪を切ったことと、新しいバックを買ったことが、実家に帰る詩乃の慰めになった。家に帰ればまた、父と顔を合わせなければならない。学校どうだ、とか、お前彼女いるんだっけ、とか、くだらない話題をふられて、夕食は何を食べたいとか、あれが飲みたいとか、そういう我が儘を一方的に聞かされる。自分で買いに行け、と言うとタクシーを使いだすので、詩乃はもう、自分で行けとは言わないようにしていた。


 帰りの電車の中では、詩乃はいつも、家に帰ってからのことを考えて気が滅入ってしまうのだった。しかしそれも、新しいバックや切ったばかりの髪の毛先を触ることによって、この日は、そこまで悪くない帰り道になった。

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