暮れのまつむし(6)
詩乃が、父から入院治療をやめたいと言われたのは、服を届けに行った二日後のことだった。父の担当医から、今後の治療について説明の必要があると、服を届けに行ったその日に言われて、その二日後、詩乃は説明を受けるために病院に行った。担当の萩原医師を交えたその説明の席で、詩乃は初めて、父が入院治療を終わりにしたいと、もうどうやら決めているということを聞かされた。
「なんで?」
詩乃は、隣に坐る父に、静かだが鋭い口調で聞いた。
父は少し口籠って、明確には応えなかった。代わりに答えたのは、萩原医師だった。萩原医師は、詩乃の父が今の治療についてどういう認識でいるのかを、詩乃に説明した。治療について父が、「良くなっている気がしない」と感じているということを。
詩乃は、萩原医師の説明を受けながら、また、それに補足するような形で言葉を挟む父を見ながら、捨て鉢な気持ちになってきた。退院したきゃ勝手にしろ、と、そう思った。今父の治療に使われている薬の値段を、詩乃は知っていた。輸血のための血もタダじゃない。今の治療をするためにだって、お金も、労力もつぎ込まれている。
それを、「良くなっている気がしない」という理由で、やめようとする父。しかし詩乃は、父が退院をしたいと思っている本当の理由を知っていた。
自由がほしいのだろう。
自由と言えば聞こえは良いが、要は、我が儘である。病院食が不味い、起きる時間、寝る時間、スケジュールを管理される、ベッドの寝心地が悪い――でもそういったことを理由にしたら我が儘と思われるから、治療のことを口実にしているのだ。
「退院して、一人で生活できるの?」
詩乃は、父に訊ねた。
父はまた口籠る。
「お父さんが退院するってことは、自分は、こっちの家に住まなきゃいけないんだよね?」
「……そういうことになるなぁ」
詩乃は、父の無責任な言葉を聞いて、ぎゅっと奥歯を食いしばった。
「なぁ、頼むよ詩乃」
詩乃は腹に力を入れながら応えた。
「本当は嫌だ。でも、退院したいなら、自分がそうするしかないよね」
父は、そうだな、と小さな声で呟き、頷いた。
詩乃は、これ以上この場で、退院を許す、許さないの押し問答をするつもりはなかった。先生も看護師も困るだろう。
萩原医師は、父の血液は、依然として良い状態ではないので、入院をしていた方が良いと言った。血小板の異常があるので、今の状態だと、体の小さい血管――例えば脳などの――に傷ができただけでも、致命傷になる恐れがあると。
しかし、父は聞き入れなかった。
最終的に、父は、来週の祝日月曜日での退院が決まった。
説明室での話が終わった後、詩乃は父に付き添って、父の病室のベッドに戻った。
詩乃、ありがとうな、と父から言われたが、詩乃にはその言葉は、少しの慰めにもならなかった。むしろ、かえってすさんだ気分になってくるのだった。
父は、病院の不満や、看護師の対応、担当医の萩原医師への不信感などを詩乃に語った。詩乃は、相槌も打たず、退院の流れをメモ帳に書く作業をして、父の言葉を聞き流した。最初はあんなにお願いしますだの何だのと言っていたのに、たった数週間で、医者や病院の悪口を言っている。詩乃の心は父が言葉を発するごとに、冷たくなっていった。
その日から数日をかけて、詩乃は、実家と北千住の家を往復し、父の退院とその後の生活のための準備をした。必要な衣類、食器類、手元に置いておきたい小物や本、そしてパソコンを、北千住の家から実家に運んだ。
父が退院して来て、その翌日から詩乃は、実家から学校に登校することになった。学校までは電車とバスを使って、片道二時間ほどかかる。それでも詩乃は、何とか五時過ぎの日の出とともに起きて(または、昨日から一睡もせず)、授業の一時間目に間に合うように登校した。テストを翌週に控えて、詩乃は、柚子に心配をかけたくなかった。そしてまた、新見さんもテスト勉強を頑張っているのだから、自分もテストが終わるまでは、ちゃんと遅れずに学校に行くくらいの頑張りはしなければと、詩乃はそんな義務感を感じていた。
その週の土曜日は、授業日ではあったが、必修授業はなく、テストで点を取ろうという野望や赤点を取るかもしれないという危機感のない詩乃は、学校を休んだ。実のところ、翌日――金曜日から体調が悪かった。学校から帰ってきた詩乃は、大鍋に残っていた白飯でチャーハンを作り、そのまま自室(風呂場の隣の物置を自分の部屋にした)に入ると、電池が切れたように、布団に倒れた。
眠気はあるのに、身体の熱さと頭痛でなかなか寝付けず、次の日――土曜日の朝までに短い睡眠と覚醒を繰り返した。昼前に、詩乃は一度物置部屋を出た。喉が渇いたので、水を飲もうと思ったのだ。
リビングには父がソファーで寝そべっていて、テレビを見ていた。テーブルの上には、大きなピザが、箱の上に広げられている。
「あぁ、なんだ詩乃、いたのか――今日は学校はないのか?」
詩乃は台所のフライパンの蓋を開けた。
チャーハンが、まだ二人分ほど残っている。
「土曜だよ」
詩乃はこめかみを押えながら言った。冷蔵庫の製氷ボックスを引き出して、コップにその氷を入れる。
「あぁ、そうか。今日土曜日か」
父が呟く。
「そういえば、もうすぐお母さんの命日だよな」
「そうだね」
詩乃はコップに水を入れ、軽く揺すって氷を解かすと、一気にそれを飲み干した。
「お線香でもあげに行くか」
詩乃はもう一度、氷だけになったコップに水を注いだ。
「いつ?」
「来週――二十三日。お母さんの命日だろ」
「行かない」
詩乃はそう答えて、部屋に戻ろうとした。
「なんだよ、薄情な奴だな」
その一言に、詩乃は立ち止まり、父を睨みつけた。
「お父さんにだけは薄情とか言われたくないよ」
詩乃はそれだけ言って部屋に戻った。詩乃の父は、どうして急に息子が怒りだしたのかわからず、首を傾げた。しかしその疑問も、ワイドショーが取り上げている万博の話題と、病院では味わえなかったピザの脂っこい味に、すぐに忘れ去ってしまった。
部屋に戻った詩乃は、枕元にコップを置くと、ペタンと布団の上に座った。しばらくは、父に対する怒りが鎮まらず、興奮してしまって、なかなか寝る気にもなれなかった。しかし一時間もすると、頭に昇った血のせいでまた熱が上がり、その体調の悪さが興奮に打ち勝って、詩乃は布団に倒れ込んだ。
夕方過ぎ、詩乃は微かな空腹で目を覚ました。
部屋を出てリビングに行くと、すでに父は隣の和室で寝ているらしかった。詩乃は父と顔を合わせないで済むことに安心して、一旦ソファーに座った。しとしとと雨の音が聞こえて来る。しばらくぼおっとそうしていた後、また空腹に刺激されて立ち上がった。
台所に行くと、ピザの箱が置いてあった。
詩乃は鶏がら顆粒を水に溶かして温め、シンプルな中華スープを作ると、チャーハンの残りをどんぶりに入れて、スープもそれに入れた。中華風お茶漬けと、詩乃が勝手に命名している料理である。
蓮華と箸と、中華風お茶漬けをお盆に乗せて部屋に戻り、早速食べ始める。まだ熱はあるが、朝や昼よりはだいぶマシになっていた。暖かいスープが、身体に染みた。
食事の後、詩乃はふと、スマートフォンを確認した。
何件か、メールが来ていた。
また宣伝のメールだろうと思って見てみると、宣伝が三件――と、詩乃は最初、メールソフトの受診画面を見てそう思った。ところがそのうちの一件は、ただの宣伝でななさそうだった。差出主は、どこかの会社らしい。
内容を確認した詩乃は、それが、電子グリーンカードの配信通知だと知った。
差出人は、『新見柚子』と書いてある。
詩乃は、グリーティングカードのURLをクリックした。
すると、ぱっと画面が明るくなって、三段になったオレンジ色のケーキのイラストが現れた。その上には、大きな『happyBirthday』のカラフルな文字。〈Happy birthday to you〉のオルゴールが流れる。
『TO:水上 詩乃
詩乃君、お誕生日おめでとう。
今年も、詩乃君の誕生日をお祝い出来てとても嬉しいです。
いつも優しくしてくれてありがとう。私ばっかり甘えちゃってごめんね。
詩乃君は、あんまりお誕生日に興味がないかもしれないけど、私にとっては、すごく大事な日です。
特別な人の生まれた日だから、私はこの日に、とても感謝しています。
テストが終わったら、登山鉄道一緒に乗ろうね。
紫陽花、ちょっとは咲いてるかな。
言葉だと伝えきれないけど、詩乃君の事、大好きです。
これからも私のそばにいてね。
FROM:新見 柚子』
詩乃は、柚子からのメッセージを読むと、ぎゅうっと、目頭と目じりが熱くなるのを感じた。父の事や今の生活への不満は、新見さんには絶対に言わない。少なくとも、テスト前の今は。そう決めて、詩乃は色々なストレスをぎゅっと胸の奥に圧縮して溜めていた。それが、涙となって、詩乃の目からぶわっと流れ出した。
今は一人、新見さんは見ていない。
誰も見ていない。
詩乃は、声を殺して泣いた。どうしてこんなに涙が出るのか、詩乃自身にもわからなかった。誕生日を祝ってもらえた嬉しい気持ちから来るだけの涙ではない。父に向けている怒りや、母を思い出した時の悲しい気持ちさえ、涙には含まれているようだった。
母の命日は二十三日ではない。それは、葬儀をした日だ。
母の命日は九月二十日――四年前の今日だった。
詩乃は泣き疲れていつの間にか眠ってしまった。深夜に一度目を覚ましたその時は、体のだるさは消えていた。詩乃は部屋の電気を消して、布団の上にあおむけになった。そうしていつの間にか、再び眠ってしまった。夜中途中で起きることもなく、詩乃は久しぶりの安眠を得た。