暮れのまつむし(4)
部連会の翌週は、週明けから雨が降った。月曜日の朝に降り始めた雨はその日の夜に一度止んだが、翌日火曜日の昼前あたりからまた降り出した。柚子は昼休み、文芸部の部室で詩乃と昼食を共にし、そのあとは、長靴型のML棟のつま先部分――図書館を訪れた。その三階、正門の見える窓際の自習机に柚子は座った。
この日は、たまたま、柚子のとっている五時間目の授業と、六時間目のクラスの必修授業と、どちらも自習になったので、柚子は、一足早い放課後をテスト勉強にあてようと考えていた。
柚子は、本とノートを机の上に置き、筆記用具の準備をし、ペンを握った。
そうして何気なく視線を上げると、柚子は、窓の外の雨の景色に、ほうっと息をついた。図書館の静けさに雨の音、雨の景色。柚子はいつの間にか、詩乃の事を考えていた
柚子は、先週の部連会の時、詩乃が昴に声をかけられて、二人でどこかへ行ったということを、千代や紗枝から聞いて知っていた。
二人の間に何があったのだろうかと、柚子は心配になっていた。夏休みの熱海合宿のあとは、柚子は昴とは、会ってもいず、会話もしていなかった。それは柚子が昴を遠ざけているというわけではなく、自然の流れでそうなっていた。しかし柚子は、どうしてそういう流れになったかということが分からないほど鈍感ではなかった。
それなのに、どうして橘君が、今になって詩乃君に声をかけのだろう。
詩乃君が、橘君から何か言われていたら嫌だなぁと、柚子はそう思っていた。だからといって、柚子には、先週の金曜日、部連会の後のことを詩乃に直接聞くのは憚られた。自分の口から橘君の名前を出したら、詩乃君はきっと嫌だろうなとそう思って、昨日の昼も、今日の昼――ついさっきのことだが――も、それとなく様子を覗うことくらいしかできなかった。
今立っている噂の事もそうだ。
休み明けから、自分や詩乃君や橘君の――この夏休みの出来事のことについて、悪意のある噂が囁かれている。たぶんもう、詩乃君の耳にも入っているだろう。私が橘君を、その気にさせておいて振っただとか、男子をとっかえひっかえする、そういう女だ、とか。〈悪意〉の矛先はほとんど私に向いているけど、詩乃君はそういう噂のことを、少しも話題に出さない。その代わりに、私のために玉子焼きとか小籠包とか、一品料理を最近は毎回、昼食のたびに作ってきてくれる。
きっと私に、勉強に集中してほしいから、余計なことを言わないのだ。詩乃君の優しさは、今は、言わない優しさなのだ。だからやっぱり私のできることは、詩乃君の応援を胸に抱いて、テスト勉強を頑張るくらいしかない。
柚子は、「よしっ」と頷くと、世界史の勉強を始めた。
第二次世界大戦下で起こった出来事、主に軍事史上の出来事について、時系列を、地図を見ながら確認し、怪しげな所をノートに書いてゆく。この九月末のテストで、柚子にとって最大の難関は世界史だった。第二次世界大戦が出たら、少し自信がない。どうにも軍事の方は、柚子は覚えるのが苦手だった。それでも何とか、しっかり覚えてゆく。
ノートが数ページ、美しく整理されたところで、柚子のもとにある生徒がやってきた。
「新見、先輩?」
柚子が振り向くと、そこには知った顔があった。
愛理だった。
柚子も愛理も、互いの存在はただの他人とは思えないほど身近に感じていたが、互いに近くで顔を合わせるのは、体育祭の最終日、マスゲーム団の打ち上げ以来だった。
「あぁ、愛理ちゃん!」
柚子は思わず声を上げた。
周りには誰もいず、締め切った窓ガラスの向こうから雨の音が聞こえてくる。
「あぁ良かった、人違いだったらと思ってちょっとドキっとしました」
「久しぶりだねぇ――隣座る?」
「いいんですか!?」
「うん」
愛理はひょこっと柚子の隣に坐りながら、くすくすっと笑った。
「どうしたの?」
「すみません、その、返事の仕方が水上先輩にそっくりだったから」
そう言われて、柚子の顔がかあっと赤くなる。
「もう、愛理ちゃんってば」
柚子はそう言うと、スクールバックからごそごそときんちゃく袋を取り出し、その中から飴を出すと、愛理に差し出した。愛理は驚きながらも、お礼を言ってそれを受け取り、早速包みを破って、ぱくっと口に入れた。柚子も、同じように飴を口に入れた。
「愛理ちゃんも、五時間目自習だったの?」
「授業早く終わったんです。勉強しに来たわけじゃないんですけど……」
「本?」
「はい。えっと、そうですよ、水上先輩に勧められた本があったので、探しに来たんです。『星の王子さま』って――」
「あぁ! うんうん! 私持ってるから貸してあげるよ」
「ホントですか!?」
愛理のころころ変わる表情に、自然と柚子の顔にも笑顔がこぼれる。柚子は思わず、愛理の頭を撫でた。今度は、愛理の顔が赤くなった。愛理からすれば、柚子は憧れの先輩である。自分の部の部長と付き合っているということを知ったのは夏の合宿中。しかしだからといって、柚子が愛理にとって身近な先輩になったかというと、そんなことはなかった。依然として愛理にとっては、柚子は高根の花で、アイドルのような存在だった。
「夏合宿、吃驚しました」
柚子に会ったからには、愛理はその話題に触れないわけにはいかなかった。
柚子も合宿の時の出来事を思い出し。「私も吃驚したよ」と照れ笑いを浮かべて応えた。
その柚子の笑顔の美しさを目の前で見て、愛理は息が詰まるほどの感動を覚えた。こんなに綺麗で可愛い人本当にいるんだなと、マスゲームの活動の時に感じていたことを、今はその時よりも強く感じるのだった。何しろマスゲーム時とは違い、今は完全なプライベートである。目の前にいるのは、マスゲ長の新見先輩ではなく、普段の新見先輩だ。あのマスゲームの活動の時よりも表情が柔らかい。愛理は、思わずうっとりしてしまった自分に気づき、ぶんぶんと首を振った。
「――まだ夜ですよ、水上先輩、突然熱海行くって言って、こっちの宿出てっちゃったんですよ。もうこっち大騒ぎですよ。しかも、朝一で新見先輩と水上先輩のツーショットが友達――あぁ、一年の寺内なんですけど、その、テラから送られてきて、ホントに驚きました」
愛理は、合宿の、詩乃が熱海に行ってしまった時のことを、文芸部目線で柚子に話した。柚子は終始笑っていた。文芸部の誰も、詩乃と柚子が付き合っているのを知らなかったことや、文芸部には杉崎健司という、柚子の事を本当にアイドルと思って崇拝している二年男子がいること、詩乃と柚子が付き合っていると知ったときの健治の驚いた様子などが、愛理の明るく大袈裟な語り口で語られ、柚子は、ここが図書館ということも忘れて声を上げて笑ってしまった。
「――でも、先輩全然、新見先輩とのこと、のろけ話聞かせてくれないんですよ!」
「うん、水上君、そういうこと言わないかもね」
「やっぱり、デートしてたんですよね!?」
愛理は、目をキラキラ輝かせて柚子に聞いた。柚子は笑いながら頷いた。愛理が、どんなデートをしたのかと聞きたがったので、柚子は熱海でのことを、恥ずかしがりながらも、愛理に話した。
あの日――海鮮タコスを食べた後は一旦ホテルに戻り、柚子はそこで持ってきていた水着に着替え、それから二人でビーチに向かった。柚子は海の家で売っていたシャチの浮き輪を買って、詩乃は服を着たまま、二人で浮き輪に乗ったり、つかまったりしながら海を漂った。
その後は、堤防で釣り人の釣った魚を見せてもらったり、砂浜で砂遊びをしたりと、童心に帰って日が暮れるまで遊んでいた。日暮れの後は、ホテルに戻ってシャワーを浴びた。着替えを用意していなかった詩乃は、ホテルのロビーでヤシの木が描かれた紺のTシャツと短パンを買ってそれを着た。ホテル近くのコインランドリーで詩乃は服を洗濯し、洗濯の待ち時間の間に、二人で付近を散歩しながら食事処を探した。
土産屋の近くにあった木造の、いかにも老舗という感じの海鮮料理屋に店を決めて入った。二人前の刺身の船盛に蟹の味噌汁、そして白飯。鯛はなかなか嚙み切れず、その新鮮さに二人で笑ってしまった。実は、その間中詩乃はパンツを穿いていず、デザートのあんみつを食べるころに詩乃にそんなカミングアウトをされて、柚子は笑いをこらえられなかった。
――そして、熱海の駅で別れたのは八時ごろだった。
なんで私は、愛理ちゃんにこんな話をしているのだろうと、話をしながら、柚子は思った。それでも、愛理は引き出し上手、質問上手で、いつの間にか柚子は楽しく、熱海でのことをすっかり愛理に話してしまっていた。
柚子は、愛理が詩乃に、尊敬に近い感情を持っていることが嬉しかった。話を聞いている愛理の様子だけでも、柚子はそのことがわかった。この子は、ちゃんと詩乃君のことを見ているんだな、というのが伝わってくる。
「あ、そういえばこの間、水上先輩と橘先輩、仲直りしたらしいじゃないですか」
「え!?」
突然愛理の口から出てきた情報に、柚子は驚いた。
「あれ! まだ聞いてませんでした!?」
「う、うん。先週の金曜日だよね? 詩乃く――水上君が橘君と一緒にいたっていうのは知ってるんだけど……」
「そうですそうです、先週の金曜日。水上先輩、会議のあとピアノ部の部室で橘先輩と話してたって言ってました。その後、部室戻って来たんですよ、水上先輩。で、聞いたら――なんか色々難しい事言ってたんですけど、要は、仲直りしたらしいです。私もやっぱり、まぁ、ちょっと心配だったんですよね」
あぁ、そうだったんだと、柚子はほっとした。
愛理は、柚子の安心して緩んだ顔を見て、二人の関係の深さを知った。
本当の恋というのは、女の子にこういう顔をさせるのかと思った。そうして、その顔の作り自体の醜美は置いておいて、自分にはまだ、こんな新見先輩のような表情はできないと、愛理は悟った。
そんな恋が羨ましい。
二人の絆が羨ましい。
「私最初、意外って思ったんですよ」
愛理が言った。
「新見先輩と、水上先輩が付き合ってるってことです」
あぁと、柚子は笑って頷いた。
「でも、ちょっと考えたら、全然意外じゃないことに気づいたんです。それが、なんか、すごく自分でも驚いてるんですけど、なんていうか、あの、水上先輩も新見先輩も――」
愛理は、自分の心のうちを、何とか言葉にしようと考えた。
愛理は、柚子と詩乃が、似ているということをまずは言いたかった。しかしその似ているというのは、性格が似ているというわけではない。何が似ているかと言われると、それが難しい。ただ愛理は、柚子を前にしたときと、詩乃を前にしたときと、同じような感覚を覚えるのだった。その意味で、似ている、と言いたかった。だけどどうしてそう感じるのか、それがわからない。先輩だから、尊敬しているから――それもあるけれど、それだけではない。だけど私のアンテナは、何かを確実に感じ取っている。
愛理は自分の両腿を、左右の手で交互に、ぽんぽん叩いた。言葉が出てこず、じれったかった。こんな時水上先輩なら、きっと、このことを言葉にできるのだろうなと思った。
「……すごくわかるんです、わかんないんですけど、何か本当に、わかるんです。すごくお似合いの二人だなって」
愛理が、何とか絞り出すように言ったその言葉を聞いて、柚子はにこりと笑い、「ありがとう」と返した。愛理は、ぎゅうっと眉間にしわを寄せた。もうちょっと、もうちょっと正確に伝えたいと思った。梅干しのようになった愛理の額が可愛らしく、柚子は愛理の頭をまた軽く撫でた。