暮れのまつむし(3)
ピアノ部の準備室は、〈準備室〉といいながら、文芸部の部室ほどの広さがあった。しかも文芸部のように本棚で左右を囲まれていないので、かなり広々と感じられる。赤茶の絨毯が敷かれ、部屋の真ん中には長方形の木製テーブルがあり、その長い辺の二方には二人掛けのソファー、短い辺の一方には一人掛けのソファー――どれも黒革のものが置いてある。準備室というよりは、ほとんど応接室の様だった。
また、楽譜をしまっている書類棚も、文芸部の味気のない本棚とは違い、この準備室の棚は、アンティークの食器棚を連想させる美しいものだった。そして実際、小さい食器棚もあった。
昴はその食器棚から四角錘のガラスのティーポットを出して、とっておきという紅茶の茶葉を使って、詩乃のために紅茶を淹れた。湯沸かし器だけは、詩乃にも親近感があった。他は、金で縁どられた白いティーカップとソーサー、角砂糖が入っている銀色の足の長いカップ、持ち手に西洋的なエンブレムの飾りが施されたスプーンと、どれもこれも、詩乃にとっては非日常的なものばかりだった。
「全部学長の趣味で揃えたらしい。そもそもピアノ部自体が学校の道楽なんだろうね」
二人分の紅茶を注いで、昴はテーブルを挟んで詩乃の向かいのソファーに腰を下ろした。角砂糖を入れて、くるくるとかき回す。詩乃もそれに倣う。
「まぁでも、僕の家庭もね、一流のものに触れろっていうのが習わしで、僕ももう、それが癖になってる。だからこの環境には満足してるんだ」
昴の話を聞きながら、詩乃は一口、昴のとっておきというアールグレイに口をつけた。
「――うん、美味しい」
詩乃が感想を漏らすと、昴もふふっと笑みを浮かべながら、紅茶を飲んだ。
「本当は新見さんと飲むはずだったんだ」
昴が言った。詩乃はびくっと肩を震わせ、固まった。
そんな詩乃の反応を、昴は楽しんで笑った。
「彼女、紅茶好きだろう? だから用意してたんだよ」
詩乃が何とも言えずに固まってしまったので、昴はからかいすぎたのを反省しながら軽快な笑い声をあげた。
「いやでも、水上君と飲む紅茶は美味しいよ」
昴はそう言って、またくいっと紅茶を飲んだ。それから昴は、トレードマークのような金のネクタイピンを取ってテーブルの上に置き、ネクタイもするすると外して、ソファーの背に放り投げるようにしてかけた。
「色々と、肩肘を張る必要がない」
昴はそう言うと、ぐっと腕を天井に伸ばした。
詩乃はぐいっと紅茶を飲み干し、ソーサーにカップを置いた。
「白状するとね、最初僕は、君には勝てると思ったんだ。君から新見さんを奪えるってね。だからあんな強引なアプローチをかけた。それについては、謝らないよ、別に僕はそのことを後悔なんてしてないんだから」
そうだろう、と詩乃は頷いた。
詩乃のカップに、昴がポットの紅茶を注いだ。
「でも、君から手紙をもらって、それで今こうして話してみて――まぁまだ、ほとんど僕が一方的にしゃべってるだけだけどね、悟ったよ。新見さんが君を選ぶ理由が今ならよくわかる」
昴はテーブルに肘をつき、その手の上に顎を乗せて、じっと詩乃を観察するように見つめた。詩乃は角砂糖を紅茶に入れてスプーンを手に持った。
「――わからないよ、全然」
詩乃はそう答えて、角砂糖を溶かし始めた。
「僕は色々と、ファンレターも貰うし、ラブレターもよく貰う。だけど、水上君の手紙ほど誠実なのは受け取ったことがなかった。今は大切に、家の引き出しにしまってるよ。鍵付きのね」
やめてよ、と詩乃は首を横に振った。
「全然誠実じゃないよ。自分の事ばっかりだ。そうありたいとは思ってるけど……」
紅茶の揺れる琥珀色を、困ったような表情で見下ろす詩乃。昴はそんな詩乃を見て、もどかしさを覚えた。昴は、自分が詩乃に対して感じている事と、柚子が詩乃に対して感じている事は、たぶん同じだろうと思った。
水上詩乃というこの男子は、会話はするがおしゃべりはしない。思った事しか話さない。思いが言葉にならなければ、それが言葉になるまで考え込む。だから水上君を相手にすると、こっちも、本音で話さざるを得なくなる。感情も考えもない話をすれば、彼はたぶん、会話自体をやめてしまう。演技も建前も、男同士なら、どっちが上か下かというプライドの張り合いも、水上君を相手にするとすべて虚しく崩れていく。しかし水上君自身は、その魔力に気づいていないらしい。
「どうしてライトノベルを書かなくなったんだい?」
昴は、話題を変えて詩乃に聞いた。
詩乃は、昴が自分の書いたライトノベルのことを知っているとは思っていなかったので、驚いた。そして、顔を曇らせた。自分の作品でありながら、詩乃は、出版したその本を、人にはもう見せたくなかった。特に、昴には。
「どうして知ってるの?」
「知ってるよ。そりゃあ、新見さんを奪おうっていうのに、丸腰で挑むようなことはしないよ。水上君のことはね、夏までに色々調べたんだ。ペンネームも、もちろん、その本のタイトルも知っている。古本屋で買って、三巻とも手元にあるよ」
「……」
詩乃は、弱みを握られたような気がして、押し黙った。
「――なかなか、儲かる仕事だったんじゃない?」
昴は詩乃にそう言った。
詩乃は紅茶を一口飲んでから答えた。
「ちょっとしたお金にはなったよ。一年か二年は、暮らしていけるくらいの」
「打ち切りになった?」
「お願いして打ち切りにしたんだ」
「どうして?」
「……馬鹿らしくなったんだ。それに、怖かった」
詩乃は息をついた。
「馬鹿らしい? 売れることが? 金儲けが?」
昴の質問に、詩乃は首を振った。
「真剣な文章を書きたかった。自分を誤魔化してまで嘘の文章を書き続けるのは嫌だった。だけど、お金がもらえる。本も売れる。だから、だんだん抜け出せなくなると思ったんだよ。――そりゃあ、ちょっとしたお金にはなるけど、でも、嫌だった。感性と心を売ってるようだった」
詩乃はそう言うと、冷め始めた紅茶を、ごくりと飲み干した。
昴は、なるほどと頷いた。その昴の険しい表情を見て、詩乃は少し驚いた。今まで見たことのない、昴の顔だった。昴はその表情のまま、言葉を絞り出すようにして言った。
「僕もね――同じなんだ。でも、逆の意味で」
「逆?」
「そう、逆」
昴はソファーに深く座り首を回し、それから口を開いた。
「中学の時、僕はクラシック畑にいた。コンクールに出るたびに、好成績を収めてた。それがね、中学三年生の終わりごろにあったコンクールで、全然ダメだった。――それで僕は……正直な所、ジャズに逃げたんだ。プライドを守るためにね。クラシックで評価されないことを、認めたくなかった。才能がないのを」
昴は自嘲の笑いを交えながら、詩乃に話した。
昴は、誰かにこのことを言うのは初めてだった。家族にも、ピアノ部のメンバーにさえも、話したことが無い。それどころか、自分自身にさえ隠していた本心である。それを口にしたのは、詩乃の前でそれを隠すのは勿体ないと、そう思ったためだった。
「才能?」
詩乃は聞き返し、うっかり笑ってしまった。
詩乃からすれば、才能の議論は、あまり意味があるとは思えなかった。恐らく、昴にとっても。そんな昴が〈才能〉なんていう言葉遊びをしようとしたので、詩乃は思わず、笑ってしまったのだ。
あぁ、やっぱり言って良かったと、詩乃の反応を見て昴は思った。一言一句、水上君は正確に解釈しているのだなと改めて昴は確認できた。
昴は、参ったなと、照れたような笑いを浮かべながら言った。
「――才能っていうのは、口が滑っただけだよ。やっぱり、君とは話せる。全くわからないけど……でも、コンクールでの評価って言うのは、音楽家にとっては重要なことなんだ。才能に疑問を持つなんてことはないけど、評価されなければ、やっぱり音楽家としては、引導を渡されたような気にもなるんだよ」
言い訳のように、早口で昴はそう言った。
昴の子供っぽい口調が面白く、詩乃はまた小さく笑った。
「水上君だって、懸賞落ちたら落ち込むだろう?」
まぁちょっとは、と詩乃は応えた。
「でも、自分の場合は、そんなに慌ててないよ。若くデビューしたからすごいってものでもないから。納得のいく話を作ることが今は一番で、受賞は、まぁ、目的の一つには違いないけど、そういう評価には、あんまり執着できないんだ。橘君からすれば、呑気な話だね」
「呑気だよ本当に」
昴は笑った。
「――また紅茶にするかい? コーヒーもあるけど」
「紅茶がいいかな」
「それじゃあ次は、レディーグレイを淹れようか」
昴はそう言うと、ティーポットで、新しい紅茶を作った。
会話をしながら、詩乃は昴から、成功者の纏う気風のようなものをひしひしと感じていた。自分にはない、前へ進む力と熱がある。昴を見ていると、自分は本当に、死ぬまでに何か成し遂げることができるのだろうかという気になってくる。
詩乃は紅茶をティーカップに注いでもらい、湯気と同時に沸き立ってくる華やかな香りを吸い込んだ。角砂糖を入れて、スプーンでかき回す。そんな詩乃の姿を見て、昴は、つくづく後悔し始めた。昴は、心に湧き上がってきたその後悔も、この際だから打ち明けることにした。
「最初からこういう風に、君にも新見さんにも近づけばよかった。そうすれば、もっと良い関係が作れたかもしれないのに」
詩乃は紅茶を一口飲んでから応えた。
「――いや、自分にとっては、もうずっと良い関係だったよ。新見さんを挟んで対極にいただけで、それは別に、悪い関係じゃなかったと思う」
「はっはっは、そうだね、その通りかもしれない。いや、新見さんの心は是非とも奪いたかったけど、言われてみれば、僕も最初から、水上君には何かあると思ってた。――そうか、あれは、良い関係だったわけか」
「うん」
詩乃は頷いた。
それから二人は、紅茶を飲みながら、昴は詩乃に小説のことを質問し、詩乃は昴に、音楽やピアノのことを聞いた。時間はあっという間に過ぎていった。気が付けば、すでに時計は六時過ぎを示していた。
「――そうだ、水上君、クラシックで好きな曲はあるかい?」
詩乃が時計に視線をやった後、昴が詩乃に質問した。
詩乃は天井を見上げて少し考え、そうして、頷きながら答えた。
「〈月の光〉が好きかな」
「あぁ! ドビュッシーだね?」
詩乃は頷いた。
「小説を書くときに、よく音楽を聞くんだ。でも――〈月の光〉は、涙が出るから普段は聞かない。好きなんだけど」
「よし!」
昴はそう言って、パチンと手を叩いた。
「是非僕の〈月の光〉を聴いていってよ」
「弾けるの?」
詩乃が質問すると、昴は声を上げて笑った。それから昴は、笑いを収め、息を整えてから、詩乃を見て言った。
「うん、今なら、良い〈月の光〉が弾ける気がする」
そうして二人はピアノ部の部室に移動し、詩乃はステージ前の椅子に、昴はグランドピアノの前の椅子に座った。キボードカバーを持ち上げ、椅子に坐りなおした昴は、呼吸を整え、それから、優しく鍵盤に触れた。
詩乃は目を瞑り、腕を組んで、昴の奏でる〈月の光〉の音の世界に意識をゆだねた。