暮れのまつむし(2)
橘 様
合宿の時は、失礼なことを言ってしまいました。本音を言えば、私は、横恋慕がいけないこととは思っていません。それどころか、人間はそういうものだと思っています。相手が新見さんなら、その気持ちはむしろ、当然のこととさえ思っています。
私は、初めて橘君を見た時に、負けた、と思いました。橘君がピアノで与えるほどの感動を、私は自分の小説でできているとは、思えなかったのです。そういう思いもあり、あの時は、声を荒げてしまいました。
きっと橘君には橘君の苦労があると思います。私にはわからない苦労です。それに、新見さんとのことも、私は勝手に「新見さんに迷惑だ」なんて決めつけましたが、あれは間違いでした。二人の間にしかわからないこともあると思います。だから私は、新見さんから離れろとは、とても言えません。新見さんと橘君が二人でいると、どうしても私は嫉妬の醜い感情を抱いてしまいますが、それは勝手にさせておいてください。必要なら、必要な時に、新見さんと話してください。
こんな偉そうに、許可を出すみたいな言い方をしてしまって申し訳ありません。恋敵という意味では、この夏までは随分精神的に殴りつけられましたが、私は正直に言って、橘君のピアノが好きです。私も作家になれるよう頑張りますから、橘君も、その才能を是非磨いていってほしいと思っています。尊敬しています。
水上 詩乃
九月、二学期が始まった最初の週の金曜日、放課後には部連会が開かれることになっていた。文芸部の所属する芸術部連の部連会はSL棟の三階会議室で行われる。二学期頭のこの部連会では、十月末の文化祭のことについて――例えば各部の発表内容や使う場所、予算について、展示や発表のルールなど――を話し合ったり、確認し合ったりする。
部連会は、部長一人で出ても良かったが、詩乃は副部長の健治を連れて来ていた。来年度の部長は健治と、詩乃は決めていた。他の部も、大抵二人か三人で来ている。五月頭にあった第一回の部連会とは違い、会議室はぎゅうぎゅう詰めになった。芸術部連に所属する二十数団体は、どの部にとっても、文化祭は一年の最大の見せ場である。どの部も、熱が入っている。
詩乃と健治は席に着いた。会議の始まる前のざわめきに、健治はそわそわしていた。健治は詩乃よりも、文芸部の、部としての立ち位置のようなものを気にしていた。一度除名された部で、芸術部連の中では復活して二年目の新参者。他の部は、ダンス部を筆頭に、演劇、コーラス、社交ダンス、放送部に料理部と、文化祭で大活躍する生え抜きの部ばかりである。
しかし健治の緊張は、そのせいだけではなかった。
席につき、入口で配られたプリントに目を通す詩乃。詩乃はいつも通りだったが、健治にはそれが、堂々たる姿に映っていた。文芸という所では、もともと健治は、その知識について詩乃のことを尊敬していた。しかし今は、それ以上の尊敬を、詩乃に抱いていた。夏の合宿で、詩乃と柚子が実は付き合っていた、ということを知って、健治の中で、詩乃を見る目がまた少し変わっていた。
「――場所取りとか、するんですか?」
健治は、何か話さずにはいられず、詩乃に質問した。
詩乃はプリントから目を離し、「いや――」と一言だけ返事をし、会議室に集まった生徒たちをぐるりと見まわした。ダンス部の副部長として千代がいる。料理部には紗枝の姿がある。そしてピアノ部は、部長の昴が、いつもの金のタイ留めを輝かせて着席している。ファッション部の三年生も、詩乃は顔だけは知っていた。まだ会議の始まる前だが、皆、すでに場所取りのための根回しをし始めている様子だった。
「やらないでいいよ」
詩乃は微笑しながら健治に応えた。
「え、いいんですか?」
「文芸部の部室と、あとは部員それぞれの教室に置かせてもらおう。去年はそれで、そこそこ部数出せたから。それに、別に何百部って無理に売ることもないでしょ」
詩乃の答えは、健治には意外だった。てっきり健治は、水上先輩は去年より多く売ろうとか、それくらいの野心は持っているものと思っていた。休み中に一人一作品を書いてくること、という詩乃が課した文芸部の夏休みの課題――詩乃は部員からメールで送られてきた作品に改稿のアドバイスと感想をつけて、二十四時間以内に、早い時は半日の内に返信してた。文化祭の部誌に出す作品のことについても、詩乃はすで全員分の担当文字数を決めて、それを皆に周知させていた。その手際の良さと仕事の速さに、健治は、詩乃がこの文化祭にかける気持ちに一方ならぬものを感じていた。
プリントに、再び何となく視線を落とした詩乃に、健治は何と話しかけて良いものかと、中途半端に伸びた坊主頭を掻いた。やっぱり、水上先輩は何を考えているのかわからないと、健治は思った。
「文芸部の部長だよね?」
「あ、あの人?」
「そうそう、話したことないけど」
こそこそと、詩乃を指した会話が健治の耳に入ってくる。詩乃が、文化祭のこととは全く関係ない所で、秘かに注目を集めているのを、健治は感じ取っていた。健治は、居心地の悪さに眉を顰め、口をへの字にして俯いた。
詩乃は、プリントを健治に渡した。
健治は反射的に紙を受け取り、顔を上げた。
「文芸部なら文芸部らしくしてな」
「え?」
詩乃の言葉に、健治は思わず聞き返した。
「文芸部らしく、ですか?」
「大衆に迎合するようじゃあねぇ」
健治は、詩乃の言葉の意図がわからず、首を傾げた。詩乃は、机に肘をつき、まぶしそうな、見ようによっては何かを鬱陶しがっているような表情で、再び会議室全体を眺めた。
「健治さ、彼女がいることで、自分自身の価値が、何か変わると思う?」
「え……」
健治は言葉を詰まらせた。
詩乃はじいっと、健治の目の奥を刺すように見つめる。
「自分はさ、別にもう周りのことなんて、それに関しちゃどうでもいいから放っておいてるけど」
「いや、俺は――……」
「皆が楽しんで笑ってるときでも、そこに何かを見つけて、むすっとしてるような人間が文芸部だと思うよ。何か違うと思って俯くくらいだったら、くだらない話はいいから早く会議始めろって表情をしてた方がいい」
詩乃はそう言うと、腕と足を組んで目を閉じた。
健治は、詩乃の不遜な態度に、物言いはつかないかと、きょろきょろ周りを確認してしまった。やがて、会議の司会である生徒会会長が会議の開始を宣言し、芸術部連会が始まった。すでに大方決まっている各部の展示等スペースの微調整、発表に関するルールや予算についての説明と確認、生徒会長を中心に、会議はテンポよく進んだ。
文芸部は、詩乃も特に発言するようなこともなかった。詩乃はテーブルに肘をつき、健治は両手を膝のあたりに置いて、会議の時間を過ごした。一時間とかからずに会議は終わり、その後はいつもの通り、部と部の交流の時間となる。
詩乃は席を立ち、健治もその後に続いた。
ところが会議室を出る直前、扉の前で、背後から詩乃を呼び止める声があった。
「水上君、ちょっと、待ってくれ」
距離があったのでその声は少し大きく、近くにいた生徒は、声の主に目をやった。
詩乃を呼び止めたのは、橘昴だった。
詩乃は声を聞いた瞬間、相手が昴だとわかった。シルクを連想させる滑らかな甘い声。詩乃が振り向くと、昴は、詩乃のすぐ前に歩み寄ってきた。
詩乃は、口を開けたまま言葉を探したが、何も思いつかなかった。それは、こんなところで昴に声をかけられた驚きのせいではない。詩乃は、学校が始まったその日に、夏の間に用意していた昴への手紙を、ラブレターのように、昴の下駄箱に忍ばせていた。だから、どこかで、昴に声を掛けられるかもしれない、ということは心の片隅に考え留めていた。
詩乃は口を閉じ、俯いた。
昴にあてた手紙の内容を思い返すと、詩乃は、目から火花が出るほど、恥ずかしかった。
一方、周りにいた幾人かの生徒は、詩乃と昴の様子に注目して、その場に張りつめた緊張感を作り出した。千代や紗枝、そしてダンス部やファッション部、ピアノ部などの生徒は、この夏、柚子を巡って争っていたという二人の関係を知っている。夏休みのことだったが、その噂はすでに、情報通の生徒の間には広まっていた。当然、健治もそのことはよく知っていたので、詩乃の後ろで、ごくりとつばを呑み込んでいた。
「声もかけてくれないなんて、つれないじゃないか」
昴は、蠱惑的な笑みを浮かべて詩乃に言った。
「……できないよ、自分から話すなんて」
詩乃は俯いたまま、難しい顔を作った。
詩乃の言葉を聞いて、昴は苦笑した。それから、周りの生徒たちを、ちらりと見やってから、詩乃に言った。
「もし良かったら、この後紅茶でも一緒にどうかな? あぁ、コーヒーもある。美味しいグアテマラがね」
「店?」
「いや、ピアノ部の準備室だよ」
詩乃は小さく頷きながら応えた。
「行こうかな」
「あぁ、是非」
昴はそう言うと、一緒に来ていたピアノ部の副部長に後の事は任せるという趣旨の話をして、会議室を出た。詩乃は健治に、「ちょっと行ってくるよ」とだけ告げて、昴の後に続いた。
ピアノ部の部室はCL棟一階の体育館側の端――文芸部の部室とは真逆の場所にある。
詩乃は最初、昴にピアノ部の部室を案内された。
ピアノ部の部室は、その扉からして造りが違っていた。カラオケボックスにあるような、防音機能を備えた特殊な扉で、分厚く、重い。扉には丸いガラスがはめ込まれていて、詩乃はそこから中を確認しつつ、扉を開けた。
「今日は誰もいないんだ」
昴が言った。
初めて入るピアノ部の部室に、詩乃は息を呑んだ。グランドピアノが二台、くるぶし丈ほどの小さなステージの上にどしっと置かれている。ステージの上も、その下の板床は、ピカピカに磨かれている。壁は木の部分と、白い防音材の部分があり、全体としては落ち着いた雰囲気を醸し出している。図書室の様だと、詩乃は思った。ぐーたらできるような落ち着きではなく、落ち着きの中に厳かさを秘めている。
「月に一度はちょっとした演奏会をやってるんだよ」
「ここで?」
「やっぱり知らなかったんだ。実は新見さんも一回、聴きに来てるんだよ」
昴は柚子の名前を出して詩乃をからかった。詩乃はどういう反応を示していいかわからず、眉を顰めた。昴はそれで満足して、けらけら笑った。
「さぁ、こちらへ。準備室はこっちだよ」
昴はそう言って、部屋の奥の扉を開き、詩乃を準備室に案内した。