暮れのまつむし(1)
八月三十日の土曜日は、茶ノ原高校の夏期講習最終日だった。土曜日でもこの日は、体育や芸術科目以外で五時間分の講習があり、三年生で塾に行っていない生徒はほとんどこれに参加していた。夏休み中だが、三年生は多くの生徒がこれに参加するので、ほとんど休み明けの顔合わせのようになっていた。
柚子はというと、本当はこの講習には、一時間か二時間だけ出るつもりでいた。しかし、詩乃の家に行った後で考えが変わり、その後の講習は、毎日四時間から五時間、びっちり入れることにしていた。この日――夏の最後の講習も、朝八時半に登校し、それから三時半まで、五時間すべての授業に出た。
「柚子頑張るねぇー……」
と、柚子と一緒に講習に出ていた千代は、授業の後、辟易した様子で柚子に言った。講習の担当教員の出て行った教室で、千代と紗枝、そして柚子の三人は一緒にいた。千代と紗枝は、この日こそ朝から五時間の授業を受けているが、他の日は、一日多くて三時間までくらいしか、講習には出ていなかった。サボっていた、というわけではなく、ほとんどの生徒はそうである。柚子のように、最終日以外の講習で五時間出続ける生徒は、そういない。
「柚子は受験ガチ勢だからね」
紗枝が、机に突っ伏しながらそう言ったので、柚子は笑った。久しぶりの五時間授業で、千代も紗枝も、もうとっくに集中力を失っていた。柚子は二人に、持ってきていたハチミツの飴を渡した。千代と紗枝はさっそく包みを破って、琥珀色の飴を口に入れた。
「これも、愛のなせる業よねぇ」
と、紗枝は言った。
千代と紗枝は、柚子が勉強を頑張る理由を、本人から直接聞いて知っていた。指定校推薦に
落ちたら、詩乃君が自分のせいだと気にしてしまう。だから絶対に、九月のテストでは良い点を取って、指定校推薦枠を勝ち取るんだと、そういう気合の入れ方をしていた。
「いや私は――愛はあってもテストは別腹かな……」
千代が言った。
「大丈夫、それが普通だから」
紗枝が応える。
冷房の効いた三階の教室、日差しがちょうど温かく、紗枝と千代を眠りに誘う。机にうつぶせて首だけを持ち上げている二人。柚子の顔には自然と微笑みが浮かんでいた。
「柚子ぅ、明日は通い妻するのぉ?」
紗枝が、あくびの混ざった様なのんびりした口調で柚子に訊ねた。
明日は夏休み最終日で、講習も開かれない。
千代は、ケラケラと笑った。紗枝も千代も、詩乃の父が入院したことや、詩乃が今実家に移っている事を知っていた。そうしてたまに、柚子が詩乃の家に行っているということも。
「――明日行きたかったんだけどねぇ」
おや、と千代と紗枝は顔を見合わせた。〈通い妻〉という単語に反応しない。あまり、恥ずかしそうにもしていない。
「水上君、忙しいの?」
千代が聞く。
「明後日から北千住の方に戻るから、色々準備があるって」
千代の質問に答え、柚子は机の陽だまりに視線を落とした。柚子の心配が、二人には目に見える様だった。詩乃が食事や睡眠を疎かにするという話は、千代も紗枝も知っていた。不規則な生活は、二人からしても、詩乃のイメージにぴったりだったが、そのことを、柚子はもとから心配していた。詩乃君の食事や睡眠は、無理をしてそうなっているのではなく、もう生活習慣になっている。だから体も心も、無理を無理と感じないのではないだろうか。
「大丈夫かな……」
ぽつりと、柚子が零した。
紗枝は頬杖を突き、ぽんぽんと、柚子の背中を叩いた。
「水上は幸せだと思うよ」
紗枝は、柚子を励ますように言った。
柚子と詩乃、二人の恋は、青春の一ページのような恋愛とは何か違うと、紗枝は感じ取っていた。それは千代も同じで、〈もし自分だったら〉ということを考えていた。彼氏が一人暮らしだったら、風邪を引いたら、親が入院したら――そして、彼氏の生い立ちに影のようなものがあったら、その心の深い所まで入っていって、その影を見ようとするだろうか。あるいは、一緒に背負う勇気があるだろうか。
「ちーちゃんさ――」
柚子は、ぽつりと千代に訊ねた。
「みっくんと、したことある……?」
え、と二人は、時が止まったかのように、動きも思考も少し間、停止した。
柚子は、恥ずかしがるでもなく、目を好奇心に輝かせるでもなく、千代の唇のあたりを見つめていた。紗枝と千代、二人の思考は、冷房の送風音と同じように、しばらくただ時間とともに流れた。そうしてやがて、千代が、頬をかあっと染めながら応えた。
「え、なに柚子、え、どうしたの!?」
紗枝もそれで、やっと柚子の言葉が自分の聞き間違えでないとわかり、目を大きく開いて、笑いだした。
「どうなの千代!」
紗枝が、いたずら心で千代に追求する。
「ちょ、ちょっと、待って待って! え、なんで!? 柚子、どういうこと!?」
千代は混乱していた。
もはやさっきまでの眠気は、一瞬ですっ飛んでしまっていた。
「柚子、もしかして、水上君と――テイクオフしたの!?」
千代の独特な表現に、ぶふっと紗枝は噴き出した。
柚子は、微かに笑いながら答えた。
「まだしてないんだ」
柚子の返事に、紗枝と千代は妙に安心してしまった。
しかし、柚子の言葉には続きがあった。
「――したいと思うのって、変かな……?」
柚子が言うと、千代と紗枝は、声を喉にとどめながら、両手を口元に持って行き、息を呑んだ。それから、二人で顔を見合わせて、きゃっきゃと笑った。そうされて初めて、柚子は恥じらいを見せ、頬を赤らめた。千代は、柚子の隣にズズズっと席を寄せて、柚子の肩に手を回し、ぱんぱんと、男子同士がするような荒めのボディータッチを柚子の肩にした。
実のところ、千代と紗枝は、二人ではそういった方面の話もしていたが、柚子の前では、それらの話題を出すのを避けていた。柚子が性に関して、恐怖心を持っていると、二人は思っていたのだ。川野とはキスをされそうになって別れ、その前の先輩彼氏ともそうだったということを、二人は柚子から聞いて知っていた。その話でさえ、柚子は、「キス」という言葉を使わなかった。「近づかれた」「顔が近寄ってきた」という表現をしていた。そのことを千代も紗枝も、しっかり覚えていた。
「全然変じゃないよ! ちょっと感動してるよ私」
千代が言った。紗枝も全く同じ気持ちだった。
そうして二人が次に考えたことも、同じだった。――旅行のことである。柚子と詩乃の旅行に行く予定も、それが行けなくなってしまったということも、二人は当然知っている。しかし二人は、その旅行は、〈何かある旅行〉だとは思っていなかった。しかし柚子の話を聞いた、二人は、そんな自分の考えが全く間違っていたのではないかと思った。二人が計画していて、しかし行けなかったあの旅行は、二人が一線を越えるその思い出作りのための旅行だったのではないだろうか。
そこまでを考え、千代も紗枝も、顔が熱くなってきてしまった。
「もしかして、結構ぐいぐい来られてる?」
紗枝が、柚子に聞いた。
あぁ、なるほど、その線か――と千代は紗枝の洞察に感心した。水上君にぐいぐい来られて、どうしたらいいものか悩んでいる、そういうことかもしれない。柚子ならまさにありえそうな展開だと千代は思った。
「うーん……ううん」
柚子は少し考えてから、首を振った。
紗枝は眉を顰め、千代と目配せを交わす。
「水上君は全然、そんなことないよ。私がね、その……したいなぁって、思ってるの……」
尻すぼみの柚子の発言に、千代は同性ながら胸を打ちぬかれ、紗枝は自分の頬を両手で揉みほぐし、頬が赤くなるのを誤魔化した。
「変、かな……?」
柚子の質問に、少し間を置いてから、千代がまたパシパシと柚子の肩を叩いた。
「変じゃないよ! ねぇ、紗枝」
「変じゃないけど意外すぎて、ごめん、ちょっと、私今、ものすごく驚いてる」
千代と紗枝が順番にそう言う。
そうだよね、と思い、柚子は軽く相槌を打った。
「いや、柚子、驚いたけど、でも、柚子の気持ちは全然変じゃないよ。――っていうかね、結構みんな、思ってるから。ねぇ、千代」
「そうそう!」
千代は、顔を赤らめながら明るく同意し、続けた。
「柚子、水上君のこと本気で好きなんだよ。だから、そうしたいと思うんだよ」
「ちーちゃんも、そう?」
柚子の問いに、ドキリとする千代だった。
紗枝は、にまっと笑って千代を見つめた。
「……どんな感じなのかな」
柚子が独り言のようにそう言うと、それがきっかけになって、今までは三人ではできなかったピンク色の話に花が咲いた。どんなシチュエーションが良いか、どんなことを言われたいか、部屋の電気は消したいか、点けておきたいか等、話もだんだん具体的になってゆく。興奮と背徳感と好奇心のままに、三人は他の人にはとても打ち明けられないような話を、互いに告白しあった。
「――最初は痛いらしいよ」
「痛くても私、嬉しいと思う」
話の流れの中で、柚子はそんなことを二人に言った。そうしてその後に、ぽつりと続けた。
「水上君がくれるものだったら、痛みでも……」
柚子はそこまで言うと、うっかり口に出してしまったセリフを笑って誤魔化した。千代と紗枝も、笑って誤魔化されることにした。しかし二人の心には、柚子のその言葉と、そう呟いた柚子の真剣な、そして少し寂しそうな表情が残った。