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星の海で遊ばせて  作者: ノマズ
4,月の光に見上げれば
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ハチミツに毒薬(8)

 結局詩乃は、柚子を家の前まで送って歩いた。


 夜道は暗かった。


 住宅街で、ひっそりしている。


 こんな中を新見さんが一人で歩くなんて、とんでもないと詩乃は思った。


 柚子の家の前までやってきて、詩乃はほっと溜息をついた。


「ありがとね……」


 柚子は、もじもじと、俯きがちに詩乃に礼を言った。


「門限を決める気持ち、わかったよ」


 詩乃が言った。


 柚子は、詩乃に抱き着き、驚いている詩乃の唇に、自分の唇を押し当てた。ちゅうっと、舐めるような、吸うような、味わうようなキスを交わす。


 チュっと音を立てて、柚子の唇が詩乃の唇から離れた。


 柚子はじいっと、詩乃を見つめた。


 詩乃は、本能に従って、柚子をもう一度抱き寄せて、今度は詩乃の方からキスを求めた。詩乃は、柚子の唇を再び感じた瞬間、燃えるような感情を覚えた。それは、今までのキスでは味わったことのない感情だった。自分のこんな獰猛な心と唇を、新見さんが受け入れてくれた――そう思うと、バチバチと脳の回路がショートするほどの、猛烈な高揚感を覚えた。


 柚子の背中に回していた詩乃の手に力が入る。


 詩乃の手は柚子の背中を、服の上からまさぐるように激しく撫でた。


 柚子の喉の奥から、くぐもった「んんっ」という声が漏れた。


 詩乃は柚子の頬に、首筋に、キスを移した。柚子は喉をのけぞらせた。


 詩乃は、これ以上はおかしくなると思い、ふうっと息を吐き、もう一度、今度は優しく、柚子を抱いた。離れた時、詩乃は、柚子の目じりに涙が浮かんでいるのを見て、感動してしまった。くすん、くすんと、笑顔の泣き顔。


 詩乃は柚子の涙を指で払って、柚子の鼻に自分の鼻をくっつけた。


 柚子はくすくす、くすぐったそうに笑った。


「――じゃあ、またね」


 詩乃は柚子の頬を優しく撫でてそう言った。


「私、勉強しっかりやるから」


 柚子の宣言に、詩乃は笑って頷いた。


「だからまた、詩乃君家行っていい?」


「うん」


 詩乃は応えた。


 柚子は、詩乃の背中が夜道に消えていった後も、暫く家の門の前にポーっと立ち尽くしていた。





 柚子が詩乃の家にやってきたその翌日から、結局詩乃は、なんだかんだと父に呼び出され、毎日病院に通うことになった。着替えだけならまだしも、もう少しお金が欲しいだとか、あれが食べたい、これが食べたいだとか、枕が小さくて眠れない、マットレスがほしい等々、そういう要求を平気でしてくる父に、詩乃はいい加減うんざりしていた。


 いい加減にしろ、ふざけるな、何のつもりだと、そういうことを、詩乃はよっぽど言ってやろうかと思った。しかし詩乃が実際に父に言えたのは、何のために入院してるんだ、何でもかんでも自分の都合通り進むわけないだろう、父さんは我が儘だよ――ということくらいだった。それを、頼みを聞いてやる代わりに言った。


 詩乃は、父の頼みを大抵、一度は必ず断った。もし自分が母だったら、父は平気で、逆に、断ったことに怒り出したことだろう。しかし詩乃は、父の性格はよく知っていた。父には今、頼れるのは自分しかいない。そして負い目もある。自分を怒らせて本当に助けが得られなくなるのは避けたいのだ。そういった、究極ともいえるような利己心を原動力とした計算高さだけはズバ抜けている。誰かのために狡猾であるならまだしも、ただ自分のためだけに、息子の自分に対してさえそういう計算をしているというのが、いかにも父らしいと詩乃は思った。


 哀れっぽい口調、縋るような目。病気で弱った体やその弱い立場すら、父は平気で利用する。同情を引こうとする。そして詩乃も、父のそんなズルさをわかっていながらも、急に老人のようになった父の哀れな風貌に、最後には折れて、父の頼みを聞いてしまうのだった。


 父は七十万と言っていた貯金は、実際には五十万しかなく、健康保健がきいてはいても、治療費は簡単に、限度額いっぱいまでは払うことになるのが、最初の一週間でわかった。輸血に薬代、そして入院費。――結局検査の結果、父は白血病の一種であることが分かった。高い薬を使った治療が、まず三週間行われる。その間は、父は病院に入院する。


 入院が長引いて、詩乃はほっとした。家で父の面倒を見るのは御免だった。


 しかし父の入院が長引いた結果、それはそれで、詩乃には他のすべきことの役割が回ってきた。それは、家業の処理である。


 父が入院した後、入ってきた仕事は全て父が電話で断ったが、すでに受けていた仕事で、品物が出来上がっているものに関しては、詩乃が、発送や、最後の磨き作業などをすることになった。詩乃は実家に泊まり、朝起きてから午前中は病院に行き、午後は父の工場に行って、製品の磨き作業や発送作業、それに取引先との連絡をする――そういう日々が夏休みの間続いた。


 詩乃にとっては、まるで〈修行〉のような日々だった。それでも〈修行〉と思えたのは、柚子の存在のおかげだった。柚子は毎日、夜の九時から十時の間に詩乃に電話をした。十五分だけというルールの中で、詩乃は父の愚痴などを話し、柚子は勉強の進み具合などを話した。柚子が頑張っているのを知ると、詩乃も、自分も頑張ろうという気持ちが強く湧いてくるのだった。


 詩乃はまた、文芸部の部長として、部員の作った作品の添削や改稿作業もした。夏休みの課題と文化祭の部誌に載せる作品作りやそのアドバイス。それを詩乃は、やり手の編集長になったような気持ちで、部員それぞれとメールのやり取りをしながら進めた。そうやって〈らしく〉振る舞うことが、詩乃の自信にもなった。自分は、新見さんに相応しいように頑張っている、新見さんと一緒に頑張っていると、そう思えた。


 そんな〈修行〉の日々の中、詩乃は夜のちょっとした時間に、橘昴のことを思い出すようになっていた。それは、詩乃自身にも意外なことだった。昴とは、数週間前まで恋敵みたいな関係だった。昴に腹を立てたこともあった。


 しかし今、もう自分に恋敵という存在が無くなってしまうと、自分が、橘昴という高校生ピアニストに、憧れと申し訳なさを抱いていることに気がついた。憧れは、その才能と感性に対して。そして申し訳なさは、自分が昴に「姑息」と言ってしまった事に対して感じていた。


 あれは、口が滑ったと、詩乃は今更ながら反省していた。姑息なのはむしろ、自分の方だったような気さえする。


 詩乃は、自分の中にある、柚子に対する獰猛で無遠慮な感情を、柚子を家まで送って行ったあの日に自覚した。その男の獰猛な感情を隠していたのは自分で、昴は、それを認めていたに過ぎない。つまり昴の方が、一歩大人だったのだ。男と女という関係や、男の本能を、昴はちゃんと認めていた。ほしい女は何をしてでも手に入れるという、生物の――男の本能むき出しのアプローチを、昴はプライドを捨ててかけたのだ。要するに昴の方は、自身に対して誠実だったのだ。


 そしてあの、ホテルを去っていく昴の後姿が、詩乃はどうしても忘れられなかった。


 腹の立つことはあったけれど、憎い相手じゃなかった。むしろ詩乃は、昴に対して、敗残兵に対する同情と同じような気持ちを抱いていた。新見さんは、昴の恋心自体を知らないかもしれない。あの時は知っていたとしても、今はもう、気にもとめていないのだろう。それは別に、新見さんが悪いわけではない。誰が悪いとか、良いとか、そういうものでもないのだから。


 自分が熱海に行き、そして昴が一人ホテルを去った。


 ただそれだけが起きたのだ。


 しかし詩乃は、それにしても、昴が負ったであろう傷に無頓着ではいられなかった。夏の花火大会の時に昴に言われた言葉を、今も詩乃は、はっきりと覚えていた。昴の、たぶん、本心からの言葉だった。自分は何も言い返せなかった。


 新見さんが自分を選んだのは、決して自分が昴に勝ったからではない。


 ただ新見さんが、自分を選んだだけだ。


 でももし優劣をつけるなら、やっぱり、昴の方が上だろうと、詩乃はそう思っていた。昴のピアノには、何ともいえない哀愁がある。あの『My Favorite Things』に隠れていたのは、昴の心だったのではないだろうか。きっと昴も、〈王子〉なんて呼ばれて、得意になっているだけではないだろう。彼は、もてはやされて調子に乗るだけの馬鹿じゃない。有名な音楽一家に生まれて、天才なんて言われて――きっと、彼には彼の孤独があるのだ。それはもしかしたら、自分が感じていた孤独以上のものかもしれない。


 だから昴が、新見さんに惚れたのも、何としてもほしいと思っていたのも、詩乃にはよくわかった。新見さんは、人の心を温めてくれる。だけど新見さんは、自分を選んだ。昴は、どれほど心を痛めただろうか。でも彼はきっと、失恋さえ認めて立ち直るのだろう。そして孤独さえ、そういう宿命だと認めているのかもしれない。


 悪いことをしたなと、詩乃はつくづくそう思った。


 自分がもう少し強い男だったら、その方が昴にとっては、良かったに違いない。


 そんな思いが募り、詩乃はある夜、昴に向けて手紙を書いた。学校が始まったら、下駄箱にでも入れておこうと、詩乃は書きあがった手紙を、レターケースに入れた。そうすると詩乃は、すうっと、心が軽くなったような気がした。


 柚子は夏休み中、詩乃と二人で豆乳鍋を食べた日の後は二度、詩乃の実家にやってきた。二日とも、午後に詩乃の家を訪れて、四時ごろから少し早い夕食を作り、詩乃と一緒にそれを食べた。そうして、日が暮れる前に柚子は帰宅した。二日とも、詩乃の見送りはバス停までだった。まだ日が出ているうちに帰る柚子に、詩乃は寂しい思いも抱いたが、安心もしていた。


 二度目の訪問は八月の終わりごろだった。


 柚子の乗ったバスが走っていくのを見届けたあと、詩乃は一人、そうだ、こうあるべきだと頷いて、空を見上げた。家に帰る詩乃の足取りは軽かった。足元を掠める夕方の風と、蝉の合唱の隙間から微かに聞こえてくるマツムシの声が、夏の終わりを告げていた。

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