ハチミツに毒薬(7)
「新見さん、大学は決まった?」
詩乃にそんな質問をされて、柚子は驚いた。
今まで詩乃は、柚子が勉強や進路の話題を出しても、軽く答えるだけで、決して自分から話そうとはしなかった。そのために柚子は、詩乃が、勉強や受験の話題を嫌っているのだと思っていた。
「うん。――私、指定校推薦もらおうかなと思ってて」
「おぉ……」
詩乃は鶏肉を口に運びながら、流石新見さんだなと思った。
「いつ決まるの?」
「出願できるかどうかは、十月に決まるんだ」
「十月?」
詩乃はそれから少し考えて言った。
「じゃあ、次のテストが反映されるって事?」
「うん」
「それで決まるの?」
「うん。出願のための学校内面接はあるんだけど、たぶん、よっぽど変なことしなかったら、それは大丈夫みたい」
詩乃は柚子から、指定校をもらおうとしている大学の名前を聞くと、苦い顔をした。誰でも知っているような、全国区の私立大学だった。こんな時期に、自分と鍋なんて食べていて大丈夫なのだろうかと、詩乃は不安になってきてしまう。
「詩乃君は、大学決めた?」
今度は柚子が質問した。
詩乃は、高校から指定されている五つの大学のうちのどれかに、入らなければならない。いずれも国語一教科試験で入れるコースがあり、そのために高校は、詩乃が国語以外の教科でどんなロースコアを取ろうと、詩乃に単位を与えていた。いわゆる〈落第点〉をとっても、詩乃の場合は、ちょっとした補習やレポートで済まされていたのだ。そのことは、柚子も知っていた。
「まだ決めてない」
「そっか。でも、詩乃君なら絶対受かりそうだよね、どこでも」
詩乃は笑った。
しかしそれに関しては、詩乃自身も、そうだろうと思っていた。国語に限定して言えば、詩乃はもう、どこにでも受かるような力をつけていた。漢文も古典も、すでに大学受験の領域を飛び越した知識を身に着けていて、試験慣れという点についても、詩乃は神原教諭の課題を去年の四月時点から積み重ねていた。
「新見さん、来週から講習だよね?」
「うん。――あ、でも、そんなに全部出なくてもたぶん大丈夫だから――」
詩乃は首を振って、柚子の言葉を遮った。
不安そうになる柚子の顔。詩乃はその鼻に、人差し指を置いて言った。
「新見さん、自分の将来を大事にしなきゃだめだよ。そりゃあ、自分も、新見さんと居られればいいとは思うけど――その、こういう夕食だって、できれば毎日……」
詩乃は、今度は自分の甘えた気持ちを振り払うように首を振って続けた。
「でも、それじゃだめだよ」
「なんで?」
「新見さんが、テストのために頑張ってる方が、安心する」
柚子はスープを飲みながら、黙って詩乃の真意を考えた。
「自分のせいで新見さんが、不本意なことになったら、耐えられないよ」
詩乃が、続けて言った。
柚子は詩乃の目を見つめた。
「――新見さんが、テスト勉強なんて本当にやらなくて大丈夫と思ってるなら、いいんだけど……本当はどうなの?」
詩乃の質問に、柚子は笑顔を引っ込めた。
気休めも嘘も、詩乃には通用しないと柚子は悟った。
詩乃は、柚子の沈黙とその神妙な顔つきに答えを見つけて、柚子の髪を撫でた。
「お説教じゃないよ。追い詰める気もないから。ただ――お荷物みたいな彼氏にはなりたくないだけ」
柚子は、うんと頷いて、詩乃に笑いかけた。
詩乃は不意に、病院帰りに買ってきたキーホルダーのことを思い出し、ソファーの脇に放っていた手提げを掴み寄せた。そのサイドポケットから、衝動買いしたピンク色の、紫陽花のキーホルダーを取り出した。
「はい」
詩乃はそれを、柚子に渡した。
「え?」
と、柚子は戸惑いながら、そのキーホルダーを両手で受け取った。
「どうしたの? くれるの?」
「うん。旅行行けなかったから」
柚子はキーホルダーを大事そうに両手で握ってから、詩乃に抱き着いた。
柚子の幸せそうな笑顔とその全身からあふれ出る喜びの態度に、詩乃は圧倒されてしまった。ワンコイン程度のキーホルダーである。喜びすぎだよと詩乃は思った。
ため息が出るほど食べた後、詩乃は鍋に蓋をして、冷房の設定温度を上げた。風量を最小にする。鍋にはまだ、もう一人分ほどの具が残っていたが、それは詩乃君の夜食だねと言って、柚子は笑った。食べ終わった後も、二人は暫く、同じ毛布の中に入ったまま、何を話すでもなく、寄り添って座っていた。そのうち柚子が詩乃の手を握り、詩乃も握り返した。
「――このままじゃ、また寝ちゃうね」
詩乃が言うと、柚子は応えた。
「いいよ、寝て」
「……いや、ダメだよ」
詩乃はスマートフォンを探した。
どこへやったか、すぐには見つからない。
「今何時?」
詩乃は柚子に訊ねた。
柚子は腕時計を確認した。
「八時過ぎ」
「いい時間だね……」
詩乃は窓の外を見た。
もうすっかり暗くなっている。
「詩乃君、腕時計持たないの?」
「あぁ、なんか、縛られてるみたいで嫌なんだよね」
だから詩乃君は腕時計をしてないのかと、詩乃は納得した。しかし詩乃のスマートフォンの時計は、アナログ時計の表示にわざわざしてあるのを、柚子は知っていた。
「時計持ちたくないの?」
詩乃は少し考えてから応えた。
「腕時計じゃなければ」
「腕時計以外で持ち歩く時計って――あ、懐中時計とか?」
「あぁ、いいねぇ」
詩乃はそう言って笑った。
確かに、詩乃君には懐中時計が似合いそうだと柚子も思った。
「さて、もう帰らないと、新見さん」
詩乃はばっと毛布を出て、立ち上がった。
柚子は、突然どうしたのかと驚いた。
「え、でも――」
「門限、九時でしょ?」
今から帰っても、新見さんはたぶん、門限の九時には間に合わない。それに、門限ということを抜きにしても、これ以上遅い時間に新見さんを帰すなんて、怖すぎる。
「でも、電話すれば少しは――」
「それだけじゃなくて――いいから新見さん、このまま居たら、帰りもっと遅くなっちゃうよ」
詩乃は薄手のジャケットを着て、ショルダーポーチを肩にかけた。
それでも柚子がなかなか動かないので、詩乃はソファーの前に立膝を突き、宥めるような口調で柚子に言った。
「門限なんて鬱陶しいけど、でも、全く無いよりは、きっと幸せなことなんじゃないかな」
柚子は詩乃にそう言われて、はっとした。
帰らないといけないのは柚子にもわかっていた。わかっていて、ちょっと駄々をこねただけだった。去年の冬の父との喧嘩の後は、門限も、それより遅くなる時にはちゃんと連絡を入れるという約束で、イベント以外の日でも、融通が利くようになった。だから今日も、連絡を入れればそれでいいと柚子は思っていた。しかし、詩乃の言葉を聞いて、柚子は自分の考えを恥じた。門限というものを軽く考えていた。その本質を見ていなかった。
詩乃君には、門限を設けてくれる家族がいないのだ。
私はなんて浅はかなのだろうと柚子は思った。そして、そんな軽率さが、詩乃を失望させたのではないかと焦った。
「ごめん、ちょっと我が儘言っただけだから!」
柚子はそう言いながら、立膝の詩乃に抱き着き、そのまま詩乃を持ち上げるようにして、一緒に立ち上がった。
「うん、寝ちゃうからね」
詩乃は柚子に笑いかけ、冷房を消した。
バス停までは家から歩いて三分程度。バスが来るまで十分ほど時間があった。
外は暗かった。夏の夜も、日が落ちるまでは遅いが、日が落ちてしまえば、他の季節の夜と変わりない。バス停付近は真っ暗で、少し先にある雑貨屋脇の自販機の明かりが、ぼんやりと地面を照らしているのが見える。
バスが来て、本当はそこで別れるはずだった。
しかし詩乃は、柚子がこれから一人でバスに乗り、電車に乗り、そして駅から自宅までを歩くのを想像して、思わず柚子と一緒に、バスに乗った。柚子は驚いたが、バスのドアが閉まったので、二人は隣合って座った。
「何で乗っちゃったの!?」
柚子は嬉しかったが、やはり驚いていた。
詩乃自身も驚いていた。咄嗟に、衝動的に体が動いただけだった。柚子が一人で、暗い夜道を歩く、その光景が脳裏をよぎった瞬間だった。
駅前のバスターミナルにつき、詩乃は駅の改札まで柚子に付き添った。
そこで今度こそお別れのはずだった。
しかし、柚子が改札を通ろうかという瞬間、詩乃はまた、咄嗟に口を開いた。
「待った、やっぱり送ってく」
詩乃は発券売り場で切符を買い、柚子と二人、ホームに降りた。
柚子は、初めてのデートの時のように、ドキドキしていた。
電車を二回乗り換えて、茗荷谷駅――柚子の家の最寄り駅までやってきた。もう時間は、九時半を過ぎている。本当にここまでで大丈夫だよと、柚子は詩乃に言った。柚子はもう、詩乃の気持ちを充分受け取っていた。しかし詩乃は、これから夜道を一人で歩く柚子を想像して、身震いした。
「――いや、送ってく」