ハチミツに毒薬(6)
「克服ってほど大袈裟じゃないよ。無理したわけじゃなくて――本でもさ、昔はピンと来なかったのが、後で読み返すと、すごくこう、感銘を受けたりすることってあるでしょ」
柚子は、確かにと頷いた。
「食べ物もそうなんじゃないかと思って、苦手と思ってるものでも、何か運命的な機会があれば――たまたま安く売られてたとか、そういうのがあれば、買って食べるようにしてるんだ。オクラとパセリはそんな感じ。コーヒーも、もともとは飲めなかったんだよ」
「そうなんだ! 高校生になってから?」
「うん。コーヒーは高一、パセリとオクラは、高校上がる前だったかな――あ、新見さん、豆乳だ」
「え?」
「豆乳鍋にする?」
「あぁ! 食べたことない!」
「じゃあ、食べてみる?」
「うん!」
詩乃は豆乳のパックをかごに入れた。
「詩乃君、高校は、転校してくる前は、こっちの高校だったの?」
詩乃は、苦笑いを浮かべながら頷いた。
詩乃にとっては、転校前の高校での生活は、あまり面白いものではなかった。中学の同級生がたくさんいたので、自分がラノベ作家であることはすぐに知れ渡った。ティーネイジャーに媚を売るような文体とストーリー。それを、ずいぶん馬鹿にされた。高校一年生の夏は、そのライトノベルの三巻の改稿作業をしていた。編集者にゴネて、無理やり打ち切りにしてもらったそのシリーズの最終巻である。編集者からは、この感じなら八巻くらいまではまず刊行できるから、一緒に頑張りましょうと言われていた。それを、もう書けない、これ以上は無理だと、無理の一点張りで押し通した。書いていて、ただただ苦痛だった。自分の書いている作品が、恥ずかしいと思った。
じっと見つめてくる柚子の視線に、詩乃は口を開いた。
「つまらない話だよ」
詩乃は静かにそう言った。
柚子は一言、「教えてよ」と言った。その甘い声音の中に、詩乃は柚子の優しさとひた向きさを感じ取った。柚子の真剣な眼差しは、詩乃の唇を軽くした。
「学校も家も嫌になっちゃったんだよね」
詩乃は気取らない、ともすると乱暴にも聞こえる調子でそう言った。しかし柚子には、それが詩乃なりの気づかいだということがわかった。深刻なことを深刻そうに話さない。詩乃君は、そういう所がある。私を落ち込ませたくないのだろう。
詩乃は、当時の――高校一年生の時のことを、柚子に話した。出版社とのこと、その時の編集者とのやり取り、学校で馬鹿にされていたこと、そして、実家で暮らした父との二年目の生活、その全てに追い詰められていた。毎日、濡れた布団の中で眠っているような、じめっとしたカビ臭い気持ちだったのは覚えている。あの時はしかし、新見さんもなしに自分はどうやって耐えていたのだろうと、今思うと詩乃は不思議でならなかった。
茶ノ原高校の一芸入学制度を知ったのは高一の夏だった。それからは、二学期に本気で転校を決めて、二月末のテストまで、国語だけをひたすら勉強していた。転入試験のために勉強していた半年は、井戸の底から空を見上げるような心地で過ごしていた。もし落ちたら、ということは少しも考えなかった。だけど、もし落ちていたら、自分はどうなっていたのだろうか。
「――そしたらたぶん、新見さんとは会っていなかったんだよね」
レジに並びながら、詩乃が言った。
「どうかな?」
柚子はそう言って首を傾げた。
柚子は何となく、それでも詩乃君とは、どこかで、違う道筋をたどった後に、結局は出会っていたのではないかと、そんな風に思っていた。
「でも、不思議だね。私も、本当は――何もなかったら、茶ノ高には入ってなかったと思うから」
そういえばそうかと、詩乃は、柚子が以前話していたことを思い出した。
柚子は幼稚舎から大学まで続く、国立の一貫校に通っていた。小学校、中学校ときて、高校も、そのレールの上に乗るはずだった。ところが、柚子は、同級生の友人の彼氏に告白されたり、友達の片想いをしていた子に思いを寄せられたりしたせいで、友情に亀裂が入り、学校にもいづらくなってしまった。そうして柚子は、茶ノ原高校を受験した。
自分も新見さんも、詰まるところ、環境を変えたくて茶ノ原高校に入ったのだ。
「新見さんは、何かある星のもとに生まれてるんだよ」
詩乃は言った。
「え、私トラブルメーカー!?」
「ある意味では」
「えーっ!」
柚子が声を上げる。
柚子のトートバックと詩乃の手提げに食材を入れて、それを詩乃が両手に持って、薄暗くなり始めた帰り道を、二人並んで歩いた。柚子も詩乃も、沈黙の中に同じことを考えていた――新見さんに・詩乃君に、言われると、他人に言われたら絶対に腹の立つことでも、なぜだか心にストンと落ちてくる。
「詩乃君、お父さん、悪いの?」
「人格も性格も最悪だけど、身体のことだよね?」
「う、うん……」
「悪い、と思う。今検査中だけど、たぶん、白血病だろうって」
「えっ――」
柚子は言葉を失った。
帰り道、もうすぐ家に着いてしまう。鍋は楽しく食べたい。明るい部屋の中で、テーブルを囲んで。だから、父の話をするなら、今にしようと詩乃は決めた。
「腎臓も相当悪いらしい――でも新見さん、いいんだよ。自業自得なんだ。もう充分好き勝手生きたんだから、そろそろ年貢の納め時だって言ってやりたいよ」
柚子は、詩乃と詩乃の父の関係が、少しずつ分かってきたような気がしていた。これまではずっと、たまに詩乃君が、父や母の話題を出すだけだった。自分も、深くは知らないから、あまり突っ込んだことは聞けなかった。でも今は、詩乃君の心の奥に触れているような気がする。
「新見さんは驚くかもしれないけど、本当に自分は、実の父なんだけど、もう、死んでいいと思ってるんだ。――本当に、冷たい人間なんだよ。でも自分にも、その血が半分流れてる。だから自分も、実の父親なのに、全然同情の心が出てこないのかもしれない」
柚子は、意を決して口を開いた。
「お母さんとのこと?」
詩乃は驚いた。
まさか柚子の口から、そんな攻めた質問が飛び出してくるとは思っていなかった。しかし詩乃は、柚子にはもう、今更何を言われても、聞かれても、反発する気持ちは泡粒一つ湧いてこなかった。かえって、柚子の口から鋭い事を聞かれると、素直になれる自分がいた。
「母さんにも冷たかったよ。口では優しい事言うんだけど、やってることが全然ね。――母さん、セキセイインコを可愛がってたんだけど、入院した後、そのインコがね、病気で死んじゃったんだ。世話をしてたのは自分で、父さんは全然面倒なんて見てなかったんだけど、そのときね、母さんはもう、ただでさえ病人で、余命も短いのが分かってたから、自分も、可愛がってたインコが死んじゃったなんて、言いたくなかったんだ。それでね、自分は……」
そこまで語って、詩乃は当時の感情を思い出し、ふつふつと、悲しみが、涙になって、ぽろぽろと目から零れ落ちた。
柚子は詩乃をぎゅっと抱きしめた。
立ち止まり、詩乃は柚子の肩に額を落とし、込み上げる涙を落ち着かせた。
「――母さんに嘘をついたんだ。インコが、逃げたって。そうしたら父さん、なんで逃がすんだ、お母さんが大事にしてたインコだぞ、どんな世話してるんだって、ものすごく怒鳴られた。落ち込んで、母さんの体調が悪化したらどうするんだって、言われてね」
詩乃は鼻をすすり、涙を手で拭った。
残りの涙は、柚子が指で払った。
「そんなことばっかりだったよ。母さんの葬式で、父さんはずっと泣いてた。でもたぶん、演技だったと思う。だから自分は、絶対泣くもんかと思って、泣かなかった。同じになりたくなかったんだ。――まぁ、そういう父親なんだよ」
詩乃はそしてふと柚子を見た。
そこで初めて詩乃は、柚子が泣いているのに気が付いた。目を真っ赤にして、涙を流している。今度は詩乃が、柚子の涙を手で拭う番だった。
「なんで新見さんが」
「だって、詩乃君が……」
言葉に詰まる柚子の背中を、詩乃は励ますように撫でた。
言葉の続きは、「可哀そう」だろうか。たぶんそうなのだろう。詩乃は、憐れに思われるのは好きじゃなかった。そう思っていたが、新見さんになら、「可哀そう」と言われても、感じるのは怒りではなく、優しさだ。不思議だと、詩乃は思った。
「インコって、病気になると早いんだ。――この話、誰にも言わないまま死んでくと思ってた」
「話してくれて嬉しいよ」
ぐしゅぐしゅと、泣きながら柚子が言った。
詩乃は、くすぐったくなって、照れ笑いを浮かべた。
「でも――死んでいくなんて言わないで」
「ごめんごめん」
詩乃は、柚子の涙をもう一度払った。
家に着き、部屋の電気を点けたころには、柚子の涙も泣き顔もすっかり笑顔に変わっていた。二人で早速、豆乳鍋の準備に取り掛かる。ガスコンロに大鍋、具を山盛りに入れて蓋をする。詩乃があまりに豪快に鍋に具をぶち込むので、柚子は大笑いしてしまった。
冷房も思いっきり効かせると、部屋はまるで真冬のように寒くなった。和室の押し入れから毛布を持ってきて、詩乃はそれを、ソファーに座る柚子にかけた。柚子は、詩乃の手を取って、毛布の中に引きずり込んだ。鍋は結局、二人で毛布にくるまって、身を寄せ合って食べることになった。
ぐつぐつと鍋が沸騰の音を立てる。蓋の穴から白い湯気が細長く伸びる。
詩乃は濡らした厚手の台ふきんをあてて鍋の蓋を取り、テーブルの傍らに置いた。ぶわんと、湯気が一瞬、入道雲のように立ち上った。柚子は、おぉっと、声を上げた。
「美味しそう」
柚子は、詩乃を見つめながら言った。
柚子はずっと、詩乃のことを見ていた。詩乃は鍋の様子を見ながら頷いた。
「私が取ってあげる!」
柚子は、詩乃の器に、用意していた抹茶色の大きい蓮華で豆乳スープを鍋から掬い入れ、白菜に鶏肉、絹豆腐にしらたきを取り入れた。最後に春菊を菜箸で取って、詩乃に器を渡した。
「そんな、いいよ、気使わなくて」
「ううん、しっかり栄養摂らないと」
柚子はそう言いながら、自分の分を器にとった。いただきますをして、詩乃はまず豆腐を、息で冷ましながら食べ始めた。柚子は、豆乳スープを蓮華で掬って一口飲んだ。初めての豆乳スープの味に感動して、柚子は目を輝かせた。
柚子との時間を過ごしながら、詩乃は、柚子の門限について心配していた。確か、九時と言っていたような気がする。だけど、夕食を食べて、そのあとで帰ったら、九時は過ぎてしまいそうだ。
考え事して険しい顔になった詩乃の肩に、柚子は自分の肩を優しくぶつけた。
「どうしたの?」
柚子は、詩乃に聞いた。
詩乃は口を開きかけたが、門限のことは言いたくなかったので口を閉じた。門限や時間のことを口にしたら、新見さんは、傷つくかもしれないと詩乃は思った。押し掛けて、やっぱり迷惑だったのかなとか、そんなことを思わせてしまうかもしれない。
詩乃は代わりに、進学についてのことを柚子に聞くことにした。