ハチミツに毒薬(5)
二人で昼食をとった後、柚子は食器を洗い、詩乃はソファーからその後ろ姿を眺めた。洗い物を終えた柚子は、三人掛けのソファーに座り、そこに詩乃を呼び寄せた。詩乃は一人掛けソファーから立ち上がり、柚子の隣に腰かけた。ころんと、柚子は頭を詩乃の肩に乗せ、もたれかかった。
もし結婚したとしたら、こんな風なのだろうかと、詩乃は妄想した。
自分にも、そんな未来があるのだろうか。
いつの間にか柚子は、詩乃の座っている腿の上に体を丸めて、本当に兎のようになっていた。詩乃は無意識で、柚子の頭を撫でて、柚子の頬や額に触れた。肩も背中も、全部が柔らかい。柚子の体温を感じると、詩乃はだんだんと、ずっと忘れていた眠気を思い出してきた。
そういえば昨日は、ちゃんと眠れなかったんだっけ……――。
詩乃の手が止まったので、柚子はちらりと首を回して、詩乃を顔を見上げた。すーすーと、寝息を立て、瞼を閉じている詩乃の顔があった。お疲れ様、詩乃君――と、柚子はそんな言葉を心の中で呟いて、自分も、詩乃の腿を枕に目を閉じた。
うっかり夕方まで寝入ってしまった詩乃は、目を覚まして、深く息をついた。よく眠れたけれど、せっかく新見さんに来てもらっているのに、新見さんを放って眠ってしまうとは、一体どういうことだろうか。新見さんと一緒にいる時は、いつも眠っている気がする。
「眠れた?」
もぞもぞと、柚子が、詩乃を見上げながら聞いた。
「うん。――新見さんも、寝てた?」
「うん。寝ちゃった」
くすぐったそうに笑う柚子。詩乃はその頬を指で撫でた。
「夕ご飯は、何が良い?」
「えっと……え、夕ご飯?」
「うん」
むくりと、柚子は起き上がった。
「でも、帰り遅くなっちゃうよ?」
「詩乃君が迷惑じゃなかったら、一緒に食べたい」
そんな風に言われてしまうと、詩乃は、「じゃあ一緒に食べよう」と言う他なかった。詩乃は、柚子の愛情に寄りかかってしまうことが、良いことなのか、悪いことなのかわからなかった。詩乃は、柚子の愛情には底なし沼のような怖さも感じていた。沈めば沈むほど心地良い底なし沼だ。自分自身は、それでいいかもしれない。だけど二人の関係を考えると、どうなのだろうか、とも思う。新見さんは、自分を拒絶しない。それは、自分が拒絶に対して敏感なのを知っているからだ。だから、どこまでも甘やかしてくれるのだろう。でもそれは、その関係は、いつかは破綻してゆくのではないだろうか。
浮かない顔の詩乃に、柚子は軽く抱き着いた。
「――じゃあ、買い出し行こうか。冷蔵庫、何もないんだよね」
「うん」
柚子から離れて、詩乃は汗を拭いた。
そこで詩乃は、自分が昨日からシャワーも浴びていないことに気が付いた。一日二日シャワーを浴びないくらいは平気な詩乃だったが、その体で柚子に触れるとなれば、話は別だった。
「……先に、シャワー浴びてもいい?」
「え!?」
柚子は、焦って声を上げた。
シャワーというのは、つまり、そういうことだろうか? それは、詩乃君の意思表示だろうかと、柚子はそんなことを考えたのだ。詩乃は、柚子の反応を面白がって笑った。
「昨日からお風呂入ってないんだ。――汗臭くなかった?」
「私詩乃君の汗の匂い好きだよ」
ぶふっと、詩乃は噴き出す。
「ちょっとほろ苦い感じ」
「やめてよ。すぐ上がるから、ちょっと――」
待っててと言おうとして、詩乃はまた新たな問題に気が付いた。
着替えが無い。
ズボンやシャツは、父のスーツのコレクションの中のを使えば最悪良いとしても、下着が無い。ぽりぽりと、詩乃は困って頭を掻く。
「あ、着替え?」
「……そう。なんでわかるの?」
詩乃はぎょっとして柚子の顔を覗き見た。詩乃はたまに、柚子に心を読まれているのではないかと思うことがあった。
「買ってきてあげるよ!」
「いやぁ……」
わざわざ買ってこなくてもいいよ、とも思ったが、ノーパンというのも、それはそれで問題がある。けれど、シャワーは浴びないといけない。やっぱり着替えは必要だ。今着ているものは、特にパンツなんか、この二日分の汗がしみ込んでいるに違いない。
「……」
唇を真一文字にしてうじうじする詩乃を見て、柚子はくすりと笑った。
「上着と、ズボンはあるんだけど……」
詩乃のその言葉だけで、柚子はどの着替えが足りないかを察し、ニヤッと笑った。
「――わかった。買ってくるよ」
うふふと、柚子はからかうような、子どもっぽい笑みを浮かべて言った。
詩乃は手提げから財布を出して、そこから千円札を摘まみ出した。
そうしてその千円札の北里柴三郎とにらめっこをしてから、詩乃は口を開いた。
「やっぱり自分で買いに――」
「いいからいいから! 詩乃君はシャワー浴びてて」
柚子はそう言うと、詩乃からの千円も受け取らず、居間を横切って玄関で靴を履き替えはじめた。「いってきまーす!」と元気よく出ていく柚子に、詩乃はもう、「いってらっしゃい」と応えるしかなかった。
詩乃がシャワーを浴びている間に柚子は帰ってきて、コンビニで買ってきた男物の下着を開封し、脱衣場のバスタオルの上にそれを乗せた。「ただいま、買ってきたよ」、「おかえり。ありがと」、「バスタオルの上置いておくね」、「はい」――そんなやり取りに、柚子は一人興奮するのだった。詩乃君と結婚したらこんな感じなのかな、いいなぁ結婚、と、詩乃が上がってくるまで、柚子は居間のソファーで、にまにまと妄想に浸った。
シャワーを止めて、浴槽で体を拭き、詩乃は早速、柚子の買ってきた下着を着けた。コットン製の黒いボクサーショーツ。詩乃がいつも穿いているのと同じタイプだった。自分は、なんてものを新見さんに買わせてきているんだと詩乃は首を振った。それに新見さんも、なんであんなにノリノリだったんだと、そんなことを考えながら服を着る。
縦ストライプのネイビースーツの上下、シャツも淡いブルー。ベージュのネクタイ。父のスーツ棚から選んできたものだった。スーツも持っていず、普段はそんな恰好をしない詩乃だったが、小説を書くための知識として、スーツの色の合わせ方や、着こなしの基本的なことは知っていた。
ドライヤーで髪を乾かし、バスタオルを洗濯機に投げ入れて、詩乃は居間に戻った。
柚子は、やってきた詩乃のキメキメの格好に驚いてしまった。これから、夜景の見えるフランス料理か何かのレストランにでも行くのかというような格好である。
「え、どうしたの!? 格好いい!」
突然褒められて、詩乃は思わず顔を赤らめてはにかんだ。
格好いい、という言葉を詩乃は言われ慣れていなかった。
「父さんが、スーツにはまってるときがあって……箪笥から見繕ったんだ」
「すごい! 似合ってる! え、格好いい!」
柚子はぴょこぴょこと詩乃を褒めながら、詩乃の両肘や肩を触った。至近距離で、色々な角度から観察され、詩乃は手で口元を隠した。
ひとしきり衣装のことではしゃいだ後、二人は夕食の買い出しに出かけた。
歩いて五分ほどの所あるスーパー、ちょうど夕飯前の買い物客で混雑している。ほとんどが主婦という中、二人は、それぞれ一人ずつだけで見てもかなり浮いていた。スーツ姿の詩乃は言うまでもないが、柚子も、その装いは買い出しではなく、余所行きのデート仕様だ。そんな二人が、買い物カートを押して野菜コーナーを進んでいるのはかなり異様で、驚いて笑う主婦も一人や二人ではなかった。
「笑われてるね」
「そりゃあそうだよ」
詩乃は柚子の耳打ちにそう答えた。
しかし詩乃は、人目を引いていることは、今は嫌ではなかった。その恥ずかしさは、かえって新見さんと二人でいるという高揚感をくすぐった。
「――鍋にしようか」
詩乃が、唐突に提案した。
「鍋!?」
今夏だよ、と柚子は目を丸くする。
「気分じゃない?」
「そんなことないけど――」
そこまで言って、柚子はけらけらと詩乃を見て笑い、言った。
「もも肉と海老入れてもいい?」
詩乃は笑いながらいいよと応えた。
「白菜とキノコと――春菊は食べられる?」
「私好き嫌い無いよ。フォアグラとパクチーと生卵意外だったら」
詩乃は笑った。
完璧に見える新見さんにも好き嫌いあるんだな、と思ったのもあったが、その好き嫌いの内容自体が面白かった。パクチーと生卵まではわかるが、フォアグラとはどういうことだろうか。詩乃はそもそも、フォアグラなんて食べたこともなかった。
詩乃が聞くと、柚子はフォアグラのエピソードを詩乃に教えた。
まだ柚子が小学校の低学年のころ、兄の大学合格祝いもかねて、新見家は家族で欧州の三つの国を巡る旅行をした。その旅行先の一つだったパリのレストランで、柚子は最初で最後のフォアグラを口にした。何か特別な料理らしい、ということは幼い柚子にもわかっていたので、期待して食べたところ、これが口に合わなかった。
「――ドロっとしてて、ちょっと獣臭い感じ」
柚子は、詩乃にフォアグラの味を紹介し、話を続けた。
だけど皆美味しいと言って食べているし、折角自分のために出された料理だし、ちゃんと食べなきゃいけない――幼い柚子はそう思って、涙ながらにそれを食べたという。その話を聞いて、詩乃は目元を押えた。涙を浮かべながらフォアグラを一生懸命食べる小さい新見さんを想像してしまった。
「生卵は? 玉子ご飯も苦手?」
「玉子ご飯は大丈夫。あの、ほら、生卵割って、そのままじゅるっと食べる食べ方あるでしょ? ――映画か何かでそんなシーン見て、真似してみたの。でも、もうダメ。生卵は苦手」
詩乃は、思わず柚子の頬をぷにぷにと弄んだ。
「詩乃君は、嫌いな食べ物ある?」
詩乃は豆腐を選びながら答えた。
「フォアグラは食べたことないけど、たぶん、無いかな。小さいころは、パセリとオクラが苦手だったけど」
「今は大丈夫なの?」
「うん、全然食べるよ」
詩乃は迷った末に、丸い形の絹豆腐と、四角い一般的な絹豆腐をそれぞれ二つずつカゴに入れた。柚子は、鍋にしては不思議な詩乃の豆腐のチョイスをしっかり見ながら、詩乃に質問した。
「苦手な食べ物って、どうやって克服してるの?」