ハチミツに毒薬(4)
詩乃は自分の財布から二万円を出して父に渡した。
詩乃は、父が財布に自分のあげた二万円を、そそくさとしまい込む様子を、じいっと見ていた。無言で、黙々とそうする様子は、悲しいくらいにみすぼらしかった。金なんているかと突っぱねてくれた方が、どんなにか裕福だろうと、詩乃は思った。
「帰るね」
「なんだよ、もうちょっと話ししてけよ」
詩乃は眉を顰める。
今更何を話せと言うのだろうか。父と息子という、その血だけで、全部わかりあえるとでも思っているのだろうか。実の親子だから、過去の色々なことが、無条件で許されるとでも思っているのだろうか。
「何話すの」
「色々あるだろう。学校のこととか」
「ないよ」
「お前、彼女とかいないのか」
詩乃は父親を睨みつけながら言った。
「それがお父さんとどういう関係があるの」
「どういう関係って、いるなら会わせてくれよ」
「絶対嫌だ」
「お、いるのか?」
いるもいないも、詩乃は答えたくなかった。そして、どうして今更、普通の父親と息子のような会話ができると思っているのか、詩乃はさっぱりわからなかった。鈍感というのではなく、やっぱり父は、人の感情というものが分からない人間なんだなと痛感する。
「どんな子なんだよ」
にやついた父の表情を見て、詩乃は奥歯を噛んだ。柚子が汚されるような気がしたのだ。
「――馬鹿じゃないの」
「なんでだよ」
「帰る」
詩乃はそう言うと、「おい待てよ」という父の声を無視して病室を出た。
ネックストラップを受付で返却して病院を出て、速足で坂を下りた。一刻も早く、病院から離れたかった。そうでもしないと、自分の何かが壊れてしまいそうだった。病院が見えなくなったころ、詩乃はやっと少し落ち着いて、信号待ちをしながら汗をぬぐった。
そうしてふと、大通り沿いにホームセンターを見つけた。
そうだ、今日はこれから新見さんが家に来るんだ。
それを思い出した瞬間、詩乃の気持ちは急に明るく、軽くなった。
詩乃はホームセンターに寄った。
買うものはまず、箸にスプーン、フォーク、それにティーカップ――それぞれ二つずつ。父の使ったものなんて絶対に使わせたくないし、自分も使いたくない。食器類を入れた買い物かごを片手に、詩乃は棚を回った。消臭ビーズ、消臭スプレー、蚊用の殺虫スプレーにティッシュ、トイレットペーパー、トイレ用の消臭スプレーと芳香剤――必要そうなものを、手あたり次第買い物かごに入れる。気づけば買い物かごはいっぱいになってしまった。
そろそろ家に戻らなくてはとレジに向かう途中、詩乃は、小物のコーナーにピンクの紫陽花のキーホルダーを見つけた。詩乃は思わずそれを手に取り、かごに入れた。
バス停から徒歩三分、柚子は詩乃の家にやってきた。
バスに乗った時に柚子は詩乃に一報入れていたので、詩乃は柚子が来た時には玄関の前で待っていた。紅葉色の半袖Tシャツに白いガウチョパンツ。柿色の小さな四角いショルダーバックを斜めにかけて、右手にはふっくらと膨らんだペンギンの刺繡のトートバックを持っている。
詩乃は柚子に歩み寄って、トートバックを持ち、玄関に案内した。
「いい所だねぇ」
柚子はにこにこと満面の笑みを詩乃に見せ、お邪魔しますと家に上がった。
詩乃は、靴をそろえる柚子の仕草に、ドキリとしてしまった。
Tシャツの襟は鎖骨の見えるスクープドネックで、その胸元には、自分のプレゼントしたネックレスが揺れている。
詩乃は、柚子のトートバックの中に入っていた昼食の食材を冷蔵庫に入れながら言った。
「まぁ坐ってよ。暑い中ごめんね」
詩乃は、冷凍庫から麦茶ポットを出した。中身はアイスティーである。三十分ほど前に作ったばかりだったが、氷を入れて、冷凍庫で冷やしていたので、もうすっかり冷たい。
「もう砂糖入ってるから、そのまま飲めるよ」
「作ってくれたの?」
「うん」
「ありがとぉ!」
柚子は詩乃にお礼を言って、カップに口をつけた。
香り高いアールグレイ。そして何より、キンキンに冷えている。
「美味しい!」
「良かった」
詩乃はほうっと息をつき、一人掛けのソファーに座った。
「詩乃君、疲れてるね」
「そう、かな……?」
「うん」
柚子は、詩乃の顔をちらっと見て、そのままのぞき込む。こうなってはもう、感情や体調を新見さんから隠すのは無理だと、詩乃は諦めた。強がったって、どういうわけか、新見さんにはバレてしまう。寝不足も、体調不良も、顔を合わせれば一瞬で見抜かれる。
「お父さん、病院?」
「うん。今日から一週間は。――本当に、面倒だよ」
詩乃はそう言って天井を仰いだ。
「でも、詩乃君は、やっぱり優しいよ。ちゃんと看てあげてるんでしょ」
「優しいんじゃないよ。流れに流されてるだけ。本当に、ロクな父親じゃないんだから」
嫌味のない軽快な悪口の調子に、柚子はくすりと笑ってしまった。
「うんざりだよ。旅行も行けなくなっちゃうし」
「でも、詩乃君の実家に来られた」
「箱根と比べる?」
ふふふっと、柚子は笑った。詩乃も、釣られて笑う。
詩乃は笑いながら、柚子の胸元に、どうしても目が行ってしまう。その二つの膨らみもさることながら、ネックレスが、目に入る。本当に、首輪をかけてしまったような、いけないことをしているような気分になってくる。
柚子は詩乃の視線に気づき、にやっと笑みを浮かべながら、ネックレストップを指でつまんだ。
「私もう、詩乃君のモノだね」
柚子は恥ずかしがりながらそんなことを言った。
アイスティーを飲んでいた詩乃は、小さく咽た。
「詩乃君、お腹空いてるよね」
「あぁ、そういえば……」
「朝、食べた?」
詩乃は、柚子と目を合わせながら首を振った。
「昨日から飲まず食わず!?」
「飲むのは飲んでるよ」
「食べなきゃ!」
柚子はそう言うと、ぐいっとアイスティーを飲み干して立ち上がった。トートバックのサイドポケットから白いエプロンを取り出して、それを身につける。立ち上がりかけた詩乃を、柚子はその両肩を押えて椅子に戻した。
「詩乃君は休んでて。今日は私が作るから。――冷蔵庫、失礼するね」
「う、うん……あ、道具も食器も、好きに使っていいからね」
「わかった、ありがと」
うきうきと、柚子は台所に向かった。
柚子を一人働かせてしまうことに、詩乃は抵抗があった。
「やっぱり手伝うよ!」
「大丈夫!」
うーんと、詩乃はむつかしい顔をして、柚子のエプロン姿を、後ろから眺めた。
「詩乃君はね、頑張りすぎだよ」
玉子を混ぜながら、柚子は歌うように軽やかに言った。
「全然頑張ってないよ!」
詩乃は答えた。
詩乃からすると、柚子の方が何倍も頑張っているように見えた。勉強も、部活も、それに人間関係も、穴が無い。柚子のような多忙な生活は絶対に自分は送れないだろうと、常々詩乃は思っていた。授業を平気でさぼっているような自分とはモノが違う。
「ううん、詩乃君は頑張ってるよ。私、詩乃君みたいにできないもん」
「いやいや……」
「詩乃君は、気づいてないだけだよ。私すごいと思うよ。だから心配だよ」
「心配って?」
「詩乃君、頑張りすぎちゃうから」
何も頑張ってないよと詩乃は答えた。じゅうっと、玉子の焼ける音と、水がフライパンの熱ではじける音が聞こえてくる。ぐつぐつと、鍋の湯も沸騰し始める。
詩乃は少し考えてみた。
自分は、頑張っているのだろうか。
しかし、詩乃は、どうにもピンとこなかった。むしろ、自分にはサボり癖さえあるように思っていた。朝が起きられない時は授業をサボるし、興味がなければ、テストでも平気で白紙で出してしまう。特別選択コースだからそれでも何とかなっているが、一般社会で言えば、たぶんそれは、アウトだ。眠いので会社に行きません、気が乗らないからこの仕事はしません――そんなこと、許されるわけがない。でも自分には、そういう勤勉さや忍耐が無い。大体、〈努力〉と呼ばれるようなことをした試しがない。
詩乃が考えているうちに、柚子の昼食が完成した。
冷やし中華だった。
錦糸玉子、キュウリ、ハム、鶏肉、トマトの賑やかな飾りつけ。
「おぉ、豪華だねぇ」
「うん。私もお腹空いちゃったから」
柚子はそう言いながらエプロンを畳んで、ソファーに座った。
「いただきます」
詩乃は冷やし中華に一礼して、箸を麵にくぐらせた。
柚子はそのとき不意に、あることに気が付いた。詩乃君は、朝の挨拶はあんまりしなかったのに、いただきますは、今まで欠かすことはなかった。やっぱり面白いなぁと思う。柚子もいただきますをして、冷やし中華を食べ始めた。
「うん、美味しい」
「ホント? 良かった」
「なんか、いけないことしてる気がするよ」
「え、なんで」
詩乃はくすくす笑いながら言った。
「新見さんの手作り料理を食べてるなんて、知られたら嫉妬で燃やされそう」
「そんなことないよぉ」
柚子もそう言って笑った。