ハチミツに毒薬(3)
『――電話って、嫌いなんだよね』
『詩乃君、ずっとそう言ってるよね。でも私は、嬉しいけど』
『うん。でも、だからさ……いつかどっちかが切らなきゃいけないでしょ。でも自分としては、眠くても、何があっても、新見さんとの電話は、切りたくなんてないんだよ』
電話越しの柚子は息を呑み、愛おしさに震えてしまった。
『私も……』
柚子は感動の隙間から、何とかそう答えた。
『でもそうすると、いつまでも電話切れないでしょ。だからやっぱり、どっかで切らないといけない。どっちかが、その話題を出さないといけないんだよね。それがでも、すごく嫌だよ。自分が、もう眠いからとか、明日もあるからとかいうのも嫌だけど、言われるのも、正直言って、傷つくと思う。相手が新見さんじゃなかったら、なんでもいいんだけど』
詩乃君は繊細だなぁと、柚子はつくづくそう感じた。
繊細で、ロマンチックで、愛情にあふれた世界の中に生きている。人間関係だとか、他人の目だとか、社会の常識だとか、そういうものが全部、溶かされてゆくような深海の世界。そこに入ると自分は、ただ自分の心のままに泳げる。自分の心の形を知ることができる。
『――いっそ、スマホが故障でもしてくれればいいんだけど』
詩乃の言葉に、柚子は笑った。
『じゃあ、時間決めようよ。時間になったら、どんなに話が盛り上がってても、今日はそこで電話は終わり。でも、先に電話を切るのは詩乃君でいいよ。私は大丈夫だから。明日も会えるし』
詩乃は小さく笑った。
『じゃあ、あと十五分にしよう――あと五分』
『え! そんな!? 短いよ!』
『明日があるよ。それに、電話が切れたって……』
『うん』
『――恥ずかしい言葉しか思いつかないな』
『え、何なに、続き教えてよ。何言おうとしたの』
甘えたような柚子の声に、詩乃の頬は緩んだ。
そう言えば今日は、今の今まで、笑っていなかったような気がする。
『いやさ――雲がかかって月が見えなくなったとしても、月の中には兎がいるでしょ。そういうことを、言おうとしたんだよ』
柚子は、詩乃の言葉を心の中で反芻した。
繰り返すたびに、温かい気持ちになる。
『私の月にはペンギンがいるよ』
柚子が言い、今度は詩乃が、その言葉を考える。
『餅つきしてるの?』
『うん。あ、でも、臼じゃなくて鍋かも』
『鍋?』
『カレー作ってるかも』
詩乃は柚子の言葉に、思わず笑ってしまった。こんな会話ができることが、詩乃には嬉しかった。自分の世界のことなんて、誰もわかってくれる人なんていないと思っていたのに、今や新見さんは、自分よりも自分のことをわかってくれているような気さえしてくる。
『そうだ、詩乃君、明日、何食べたい?』
『新見さん、何時に来る?』
『八時ごろかな』
『そんな夜に?』
『朝だよ朝!』
『朝八時!? 早すぎるよ! 無理しないでよ』
『無理じゃないよ。もう早く詩乃君に会いたいもん』
そう言われて詩乃は、恥ずかしさに沈黙した。
柚子も、うっかり恥ずかしいことを口にしてしまったことに気づいて、照れ隠しに笑った。
『――午前中は、病院に荷物届けに行くから、お昼がいいかなぁ』
『あ、そうなんだ。わかった、じゃあ、十二時とか、一時とかでいい?』
『うん。メニューは、任せるよ』
『わかった、考えとくね』
『うん――あ、五分だね』
『……私は延長してもいいけど――』
『それやってたら終わらないよ』
『……うん。電話って怖いね』
『うん』
二人はそこで、また黙り込んだ。
互いに互いの息遣いを意識して、耳を凝らす。
『――じゃあ新見さん、また明日ね』
『うん』
『おやすみ』
『うん、詩乃君もおやすみ』
別れの挨拶をし合って、詩乃が先に電話を切った。モニターに表示された通話時間を見て、詩乃は苦笑いを浮かべた。十五分なんかとっくに過ぎていた。詩乃は残りの洗濯物を物干し竿に干してソファーに横になった。そして電気も消さず、玄関の鍵もかけないまま、いつの間にか眠っていた。寝苦しさに何度か目を覚ましながら、曖昧な睡眠を重ねて、次の朝を迎えた。
翌朝、詩乃は干していた衣類から病院に持っていくものを選別して、押し入れの中にあった手提げ袋の中に入れた。他には父のスマホとその充電器、財布、筆記用具、洗面道具類など、病院でもらった、〈入院時に必要な物リスト〉の紙を参考にして、家の中を探しながら揃えていった。
嫌なことは早く済ませようと思い、詩乃は面会受付の始まる十時を目掛けて家を出た。
真夏の太陽の下、風もない日向の道を歩くこと二十分ほど、詩乃は病院に着いた。汗拭きタオルを持って来れば良かったと、詩乃は後悔しながら病院に入った。
昨日は全く感じなかったが、今日の病院の冷房は、気持ちが良い。
詩乃は一旦待合室のソファーに座り、汗がひくのを待ち、それから、面会受付で受付表を貰って書いた。面会カードの入ったネックストラップを首にかけ、エレベーターに乗る。三階に着き、エレベーターを出た正面にはナースステーションがあり、エレベータを出た詩乃は看護師から挨拶をされた。もう顔を覚えてくれたのかと、詩乃は驚かされた。
詩乃は廊下を少し歩いてゆき、父のいる病室に入った。
父は、寝ていた。
今日はもう、点滴はしていない。眠っている父を見ると、父もただの病気のおじさんなんだなと、詩乃はそんなことを思った。
「お父さん、来たよ」
詩乃は、父の肩を揺すって起こした。
薄目を開けて、ぼんやりと父は詩乃の姿を確認した。
「おぉ、あぁ、悪いねぇ。今何時だ」
「十時過ぎ」
「もうそんな時間か」
詩乃は、父がうわごとのように何やら言うのを無視しながら、ベッド脇の棚の上に、持ってきたものを置いた。着替えは棚の中にしまう。
「詩乃、詩乃、何か食べ物無いか」
「朝ごはん食べたんじゃないの?」
昨日詩乃は、入院についての説明を受けたばかりだった。朝食は八時、昼食は十二時、そして夕食は十八時。だからもう、朝食はほんの二時間前に食べているはずである。
「まずくて食えたもんじゃないだ」
「食べなかったの?」
父は、曖昧に頷いた。
「体調を整えるんだから、病院食がいいんじゃないの」
「食事は何でもいいって、言ってたろ」
「そういうことじゃないよ。そんな、贅沢言えるような立場じゃないでしょ」
「頼むよ、詩乃」
しわがれた声。哀れな病人を装っているのが見え見えだ。
「何か買ってきてくれよ。あぁ、お父さんピザがいいな、ピザ」
「そんなもん売ってないよ」
散々贅沢をしてきたうえ、この期に及んでまた贅沢を言うのかと、詩乃は呆れてしまった。
「頼むよ詩乃、何か買ってきてくれよ」
「……なんで食べないの」
「不味いんだよ。な、頼むよ」
詩乃は怒りを込めて父を一瞥すると、病室を出て、一階の売店に向かった。母も半年ほどここに入院していたが。一度だって、病院食が不味いだなんて言わなかった。きっと、物足りなかったに違いない。それでも何も言わなかったのは、家族に気を使っていたからだ。そんな母に、父は何もしなかった。どころか、緊急事態宣言が出て、新型コロナウィルスの感染が拡大している最中に、飲みに出かけたりしていた。
思い出すだけで、詩乃は、涙が出そうなほどの怒りに襲われた。
ずっと忘れていた、あのころの怒りが蘇ってくるようだった。
自分はほとんど毎日母のもとを訪れた。
父は、一週間に一度、取ってつけたように見舞いをしていたが、そこに、気持ちが無いのは明らかだった。口先で励ましを言う父に、何度殺意を覚えたことか。そして今も、父への気持ちは変わらない。
詩乃は売店でピザパンと握り飯とサンドイッチを買って父の病室に戻った。
父は、それをぺろりと平らげた。
「ありがとう」
礼を言われ、詩乃は身体を強張らせた。父には、感謝なんてされたくなかった。それにその言葉も口先だけ。心にもない言葉を言われるくらいなら、何も言われない方がいい。でもそんな自分の気持ちなんて、父は汲み取れないだろう。
「これから毎日、三食三食、自分が買いに行かないといけないの?」
「いや、お金貰えれば、自分で買いに行くよ。昨日よりは、かなり良いから。歩くくらいなら、できるよ」
そういうことじゃない、そうじゃないと詩乃は思ったが、どうせ父が、自分の言葉の真意に気が付くことはないのは知っている。
「詩乃、もうちょっとお金貰えないか」
「なんで?」
「色々、買いたいから」
「何買うの」
「本とか、色々あるだろう」
「一万円で足りないの?」
「何かの時にさ」
「よく言うよ。お父さんさ、貯金いくらあるの」
詩乃の質問に、父はしどろもどろに答えた。
「七十万、くらいはある」
詩乃は呆れてしまった。
あれだけ稼いでおいて――一家を十分に養っていけるほどの金を稼いでおきながら、貯金がたったの七十万。
「カード頂戴。暗証番号も教えて」
詩乃が言うと、父は大人しく、棚の上の財布から銀行のカードを抜き取って詩乃に渡し、暗証番号も口頭で詩乃に教えた。詩乃は番号をスマホにメモした。