ハチミツに毒薬(2)
父の担当医は、萩原という四十代と見える男性医師だった。長四角い顔で、眼鏡をかけている。威圧感はなく、唇のひくつきはいかにも神経質そうだが、目元が優しいので、それはかえって、医師の信頼を高めさせる几帳面さと詩乃には映った。
萩原医師は二人に自己紹介をした。詩乃も名前と年齢、通っている高校を医師に話した。
萩原医師の隣には担当の女性看護師――名を鈴木という――が座った。その対面に、詩乃と詩乃の父が座っている。
「これから水上光次さんの担当をさせてもらいます。よろしくおねがいします」
萩原医師は、丁寧な人物だった。
詩乃は一目で、このお医者さんは信用できると感じた。
萩原医師は、血液検査の結果の紙を詩乃と詩乃の父に見せながら、赤ペンで、重要な数値を丸で囲いながら説明した。腎機能がかなり低下しているということと、白血球数が平均的なそれに比べてかなり増加していることをわかりやすく説明した。そうしてもろもろのことから、白血病の疑いがある、と言った。
確定診断を出すには髄液監査をして細胞を調べないとならず、その結果が出るまで一週間ほどかかる。しかし治療としては、白血球数をセーブしなければならないので、その治療は今日からもう始めるということを萩原医師は言った。そして、髄液検査の結果によって白血病の診断や、その種類(白血病でも種類は一つではないという)が確定した段階から、本格的にその治療薬を投与し始める。しかしその治療をするにしても、腎機能がこれ以上悪化してはできる治療もできなくなってしまうので、この一週間は入院をして、体の状態を整える必要があるのだと、萩原医師はそこまでをわかりやすく二人に説明した。
「よろしくお願いします」
と、涙を堪えるような表情で、詩乃の父は萩原医師の手を握った。
その後で、父は食事のことを聞いた。食事に制限はあるのか、酒は飲んでいいのか、煙草は――と。詩乃は眉を顰めたが、萩原医師はそんな父の能天気な質問にも丁寧に答えた。「さっきもお話ししたように、この一週間は、治療のために体調を整えるのが第一です。ですから、煙草とお酒はダメです。利尿作用のある飲料、例えば――お茶なんかははどんどん飲んでください。あとは、生ものは控えてください。今体が弱っているので、そういったリスクを減らさないといけないんです」――萩原医師はあくまで丁寧に、父に説明した。
最後に、説明を受けたという証に書類にサインをして、詩乃は父と看護師と一緒に説明室を出た。病室に戻り、看護師の鈴木さんは、入院の説明を詩乃にした。書類に目を通し、サインをして、その日は父に一万円を渡し、詩乃は病院を出た。
日はもう暮れかかり、その薄暗闇の中、詩乃は実家に向かって歩いた。
病院から徒歩二十分ほどの距離。坂を下り、懐かしい信号を渡り、色あせた看板のラーメン屋やクリーニング屋を横目に、とぼとぼ歩く。ごろごろと、遠くで雷の音が聞こえてくる。
小さな路地に面した庭付きの平屋が詩乃の実家だった。
門から入って右手に車が止められていた。詩乃の知らない車だった。国産の、燃費の良い丸っこい車だったはずだが、この一年半の間に、ベンツに買い替えたらしい。玄関の鍵を開け、がらがらと引き戸を開ける。広い玄関、上がり框から奥は、十畳ほどの居間になっている。その奥には台所がある。
折角広い居間だったが、詩乃がいたころとは、だいぶ内装が変わっていた。居間には四人掛けの食卓があったが、それはもうなくなっていて、代わりにソファーとテーブルがデンと置かれ、ソファーの正面には大きなテレビとスピーカーが配置されている。スピーカーの上には本が詰まれ、床には紙屑といわず、チラシといわず、ペットボトルや、キャップや、服や、そんなものが散乱している。
ゴミ屋敷というほど汚いわけではないが、掃除にはそこそこ時間がかかりそうなくらいには汚れている。しかしそれより我慢ならなかったのは、匂いだった。テーブルの上や、出窓の所や、スピーカーの積み重なった本の上に、スティックの芳香剤が瓶に入れられ、そのムっとするような、恐らく薔薇か何かの匂いなのだが、それに詩乃は、吐きそうになってしまった。
居間の隣には和室があり、和室の隣に書斎がある。その二つの部屋の廊下を挟んで向かいには、居間の方から、風呂、物置、トイレの順で部屋が並んでいる。それらの部屋のいずれにも芳香剤が置かれていたので、詩乃は辟易しながらそのスティックを集めて、廊下に落ちていたビニール袋にそれらを突っ込み、口を閉め、玄関の外に出した。
部屋中の窓を開けて、ひとまずは居間のソファーに座る。
匂いのせいか、急にバタバタ動いたせいか、頭痛がした。
詩乃は暫くぼーっと座って休んだ。
風が流れて匂いがマシになったころ、詩乃の体も少しの活力を取り戻し、立ち上がった。台所の流しの前に立ち、手を洗う。芳香剤の匂いを洗剤で洗い落す。
詩乃は、台所にあった色々な食器も、随分無くなっているのに気が付いた。詩乃の気に入っていた食器も、もうなさそうだった。ティーカップも、スプーンも、箸も――全部捨ててしまったのだろうか。
そうかもしれないと詩乃は思った。そこにどんな思い出が詰まっていようと、父はそういう人間だ。人の思いなんて汲んだりしない。今は自分が着ているバーバリーのコートも、もとはといえば、母が父の誕生日に贈ったものなのだ。結婚前のことらしい。自分が小学生のころ、父はスーツやジャケットに凝っていた時期があって、その時に、あろうことかそのバーバリーを、もう着ないからと、処分する古着の中に入れたことがあった。「捨てるには勿体ないなぁ」と、母が零したので、自分はそれを貰った。小学生では大きすぎるから、身体が大きくなってから着ると、そう言って母にとっておいてもらったのだ。そのコートの来歴を聞いたのは、母が入院した後のことだ。
コートだけではない。そういうことが、日常の中で積み重なっていた。食器だって、三人がまだちゃんと〈家族〉だったころ、それこそ、熱海に旅行に行ったりしていたころの思い出が詰まっていたはずだ。そのころはまだ小学生で紅茶なんて自分はまだ飲まなかったけれど、母は三つセットのソーサー付きのティーカップを買って、食器棚に置いていた。父は紅茶を飲まなかったから、あの緑色のティーカップは実際、ほとんど使われることはなかっただろうと思う。だけど、そういうものを、ためらいなくさっさと処分してしまえる神経は、自分にはわからない。
一つ一つ、思い出すたびに、詩乃の心には怒りが込み上げてくるのだった。母が死に、自分が家を出たら、さっさと車も買い替えて、家の内装も替えて、そんな父親を、父親だと思えるだろうか。もうほとんど他人の様だ。いっそ他人なら、入院の世話なんてしなくて済むのに、結局はこうして、嫌でも助けるしかなくなっている。
「ふざけてる……」
詩乃は静かな怒りを込めた一言を吐き出すと、床に散乱していたゴミを袋の中に入れ、散らかっている衣類を洗濯機に持っていった。洗濯機の中には、生乾きの服が淹れてあり、カビ臭くなっていた。詩乃は顔をしかめ、舌打ちをして、給水元の蛇口をひねった。ぬめぬめした洗剤のボトルにまた舌打ちを一つ打ち、緑色の液体洗剤を洗濯機の服の上からかけた。
冷蔵庫にはワインと日本酒と缶ビールばかりで、肉も野菜も入っていなかった。調味料も見当たらない。炊飯器のコンセントは抜け、蓋は埃をかぶっている。和室の布団は敷きっぱなしで、片隅には薬の箱が転がっている。緑色の箱。よく見ればそれは、精力剤のようだった。
詩乃は緑のその箱を引っ掴むと、ゴミ袋の中に投げ込んだ。
布団を畳んで和室の片隅に押しやり、部屋の片づけを続ける。一回目の洗濯物を外の物干しに干して、その間に、残りの洗濯物を洗濯機で洗う。掃除機はダストカップが満杯になっていたので、それをまず空にする。居間と廊下、それに台所の床に掃除機をかけ、そこで詩乃は、再び疲労感を覚えた。
すでに時間は、十時を回っていた。
詩乃は掃除機をソファーの手すりにかけ、自身も、ソファーに深く腰を下ろした。
テーブルの上に置いていたスマートフォンが、着信メッセージがあることを告げていた。詩乃はスマホを取って、画面を見た。
メッセージは、柚子からだった。
『お父さんも、詩乃君も大丈夫? 何か手伝えることない? あったら言ってね。あ、でも忙しいと思うから、返事はいいからね。あと、私は連絡いつでも待ってるから!』
そんな短いメッセージが、顔文字と一緒に送られてきている。
今から一時間前だ。
詩乃はほとんど、無意識に、柚子に電話をかけていた。
『――ごめんね、夜に』
もしもし、という柚子の声のあと、詩乃は第一声でそう言った。
『全然大丈夫だよ。詩乃君の方は、大変だよね?』
『まぁ、ちょっとは』
『今、病院?』
『ううん、家――実家にいるよ。しばらくはこっちにいると思う』
詩乃は口を噤んだ。
思わず電話してしまったが、こんなことを言っても、新見さんを困らせてしまうだけではないかと、思い直す。一体自分は、どうしてほしいというのだろうか。詩乃は、柚子に訊かれるままに、今日のことを話した。
『――詩乃君、実家って、日野の方なの?』
『八王子だよ』
柚子は少しの沈黙の後、思い切って詩乃に聞いた。
『住所、知りたいな……』
詩乃はそれを聞いてドキリとした。
そうして気が付いた。
――そうだ自分は、新見さんに会いたくて、来てほしいと思ってるんだ。
詩乃は実家の住所を柚子に伝えた。期待を捨てろ、期待を捨てろと、詩乃は心の中で繰り返した。
『遠いね……』
柚子が言った。
詩乃は、うん、とだけ答えた。
二人は、それぞれ、もう一歩踏み込むことを躊躇って沈黙した。
その沈黙の間に、柚子は、合宿を抜け出して熱海までやってきた詩乃のことを思い出した。二週間前――その時に貰ったネックレスを、柚子はまさに今、首にかけていた。あれから柚子は、家の中でもずっと、寝る直前まで、詩乃のネックレスを身に着けるようにしていた。
今更何を怖がっているんだと、柚子は電話の前で一人頷き、口を開いた。
『行っていい?』
『え?』
『詩乃君の実家に、行ってもいい?』
断られたらどうしよう、本当は迷惑だったらどうしよう――そんな不安もあった。しかし柚子はそれよりも、詩乃のSOSを見逃していたらと思うと、その不安の方が、今や勝っていた。
『――うん』
『ホント!?』
『……うん』
『いつ大丈夫?』
『いつでも……』
『じゃあ、明日行ってもいい?』
『うん』
柚子はふうっと安心して息をつき、それから、詩乃に訊ねた。
『詩乃君、ご飯食べられてる?』
『あ……』
『また食べるの忘れてた?』
『そういえば、うん……』
じゃあ明日、ご飯作りに行くね。食材は私が買って行くから、準備しなくて大丈夫だよ。――そう言って明るく振る舞う柚子の言葉に、詩乃の冷たくなっていた心臓は、少しまた動き始めた。詩乃は、生きているという実感を忘れていたことに気づかされた。




