ハチミツに毒薬(1)
八月の中旬、祝日明けの火曜日の昼過ぎに、詩乃の携帯に一本の電話が入った。
病院からだった。
地元八王子のさる大学付属の総合病院。詩乃の実家の近くにあり、癌で亡くなった詩乃の母も最期はその病院の病室で息を引き取った。
――水上詩乃様のお電話でお間違いないでしょうか。
女性の声に詩乃は「はい」と小さく返事をした。
詩乃の父が数時間前に救急車で運ばれてきて、今日から入院することになった、という内容の電話だった。命を落とすような危険な状態ではないが、長期的な入院が必要かもしれないということを、詩乃はその電話で知らされた。
入院でも何でもしてくれと詩乃は思った。
詩乃も実の父のことなので、その生活態度は良く知っている。母がまだ元気だったころは、家事は全部母に任せきりで、爪切りの場所一つ知らなかった。醤油の入れ物を探して、台所をうろうろする父の姿を思い出すたびに、詩乃は父に対する軽蔑を思い出すのだった。母は父の仕事を手伝うのに、父は仕事を自分一人でやっている気になって、その生活の基盤を母が支えているという感謝など忘れて、母が家事をするのが当たり前という態度を取っていた。それでも口先だけは、「お母さんが心配だ」とか、そんなことを言っていた。
母と自分のためには金を使わず、貯金もせず、自分ばかり飲み歩いたり、何か高価なものを買ったりして、好き勝手生きていた。それは母が死んだ後も変わらなかった。中二の秋のはじめに母が亡くなり、そのあと一年半ほど、父とは実家で一緒に暮らした。中三と、高校一年の三月まで。
父は、何も変わらなかった。自分が家事をして、父は仕事をして、最初の内は、「お前も学校があるから仕事のことは心配するな」と言っていたが、その舌の根も乾かぬうちに、「お前、バイトしないか」と言い出した。出来上がった製品(工業機械に取り付けられる樹脂製の小さなハンドル)の検品作業と磨き作業の内職で、最初は一時間二千円ほどもらっていたが、だんだんと勝手な都合で減らされて、最後には無給となった。
父に金がなかったわけではない。単に父は、欲深かったのだ。
もう一緒には暮らしていけない――そう思って、高校一年の冬に、転校と一人暮らしを決めた。学校では、ライトノベル作家であることを馬鹿にされて、家に帰れば、父の顔を見なければならない。そんな生活はもう、詩乃には限界だった。
それから一年半。
自立していない父は、誰かの助けなしにはやっていけないだろうと、詩乃はわかっていた。一年もっただけ、長い方だったとさえ、詩乃は思った。父の入院を聞いて、詩乃は少しも意外とは思わなかった。いつかそうなるだろう、ということは、自分が家を出ていった時にはわかっていた。不摂生を正せるほどの意志の強さを、父が持っていないことは詩乃は良く知っていた。
勝手に野たれ死ねばいいと、詩乃は本気でそう思っていた。
しかしそうとはいえ、父が入院した以上、入院のための手続きや、入院中のことなどは、息子の自分がやらなければならない。全部放り出してしまいたいが、もうそれは、家族として生まれてきた以上しょうがないことなのだろうと、詩乃は自分を納得させるしかなかった。
それよりも詩乃は、柚子の事を考えて、落胆していた。
実は、明日から柚子と泊りの旅行に行く予定になっていた。箱根の温泉宿だ。柚子は旅行を楽しみにしていた。柚子の笑顔を思い出すと、詩乃はいたたまれない気持ちになるのだった。
電話を受け取った後、詩乃は病院に行くために家を出て、北千住の駅から電車を乗り継ぎ、日野の駅までやってきた。日野駅から病院までは、バスが出ている。バスターミナルに歩き、そのバス停のベンチに座ったところで、詩乃はため息をついた。後回しにしていても仕方がないと、詩乃はスマートフォンを取り出した。
目を瞑って、柚子に電話をかける。
電話は、すぐに通話状態になった。
「もしもし、新見さん」
『詩乃君、ふふ、どうしたの?』
柚子の上機嫌そうな声に、詩乃の気持ちは一層滅入ってしまった。電話先に聞こえないように息を吐き、詩乃は続けた。
「……旅行のことなんだけど」
『うん』
「ごめん、行けなくなった」
『――どうしたの?』
きょとんとしているような、柚子の声。
詩乃は、心臓が痛んだ。
「今さっき、病院から電話があって――父さんが、緊急で入院することになったんだ」
『えっ!』
「それで、その、手続きとか、着替えの準備とかいろいろ、しなきゃいけなくなって……」
『お父さん大丈夫なの!?』
「うん。でも旅行はちょっと――」
『いいよいいよ、それは全然いいんだけど――詩乃君は、もう病院?』
「今、バス待ってる。日野にいるよ」
『日野!? そっちの方なんだ。詩乃君は、大丈夫? 何か、私にできることある?』
「大丈夫。あ、でも……旅行の、キャンセル料取られちゃうと思うから、それは後で払うよ」
『いいよ! そんなこと、気にしないでよ!』
「ごめんね……新見さんと行きたかったよ」
『また行こうよそれは、ね』
「うん」
バスが来たので電話を切り、詩乃は深々とため息をつきながら電話をポケットにしまった。
バスは病院前の小さなバスターミナルに停車した。
タクシーが幾台か、日陰の下に停まっている。詩乃は一番最後にバスを降り、バスがターミナルを離れるのを見送った。よちよち歩きの老人や、健康そうな――恐らく見舞いだろう――三十代くらいの女性が、正面入り口の、幅の広い自動ドアから院内に入ってゆく。詩乃も遅れて、その後に続いた。
受け付けで名前を伝えると、すぐに入院病棟の三階に案内された。
これから父に会うことになる。詩乃の心は複雑だった。別にこのまま、会わないまま、どちらかが死んだって、かまわないいと詩乃は思っていた。
父は六人部屋の病室の廊下側に、布団と枕を椅子にして、上半身を起こしていた。点滴の管が左腕に繋がれ、吊るされた透明バックの中の輸液が、ピタン、ピタンと落っこちている。
父はひげ面だった。伸びすぎたひげの先は白くなっている。
頬もこけて、別人のようだと詩乃は思った。身体全体が、一回り小さくなったように見えた。目だけがギラギラしていて、それが、恐ろしかった。
「あぁ、詩乃、来てくれたのか」
哀れっぽい口調で、父が言った。
詩乃は唇をへの字に結んだ。来たくて来たわけじゃない。本当は、来たくは無かった。
「おぉ、逞しくなったなぁ」
父はそんなことを言う。
少しすると女性の看護師がやってきて、父の状況を詩乃に説明した。救急車で運ばれてきた時には脱水症状があったので点滴を施したのだという。脱水症状に関しては改善されたが、しかし血液検査で、血球数の異常が見つかったため、さらなる検査と、その結果によっては治療のための入院が必要になる、という話だった。いづれにしても、あと十日ほどは入院しなければならないという。入院に必要なもののリストを渡されて、詩乃はそれを流し読みに読んだ。衣類に洗面道具などの生活用品など。自宅から持ってこないといけないらしい。
看護師は必要なことを一通り伝え終えると、何かあったら遠慮無く呼んでくださいと言って、病室を後にした。一時間後に担当医から、父の容態の詳しいことや治療のことなどの説明を受けることになった。
一時間も、今更父と話すようなことはない。
詩乃は看護師が出ていったあと、病室を出てゆく口実を探した。
「まぁ、座れよ」
父に言われ、詩乃は仕方なく、ベッド脇の椅子に腰を下ろした。
「学校はどうだ。楽しくやってるのか」
人好きの良さそうな笑顔を父から向けられて、詩乃の心はいよいよ凍り始めた。学校のことも、自分のことも、父がさして興味がないのを、詩乃は知っていた。母のことも、自分のことも、家族のことなんて、本心ではどうでも良いのだ。口では大事大事と言いながら、父は母を労わったこともなく、自分を愛してくれたこともない。それならそれで、自分はそういう人間だと言い切ってくれればいいものを、口先では歯の浮くような綺麗ごとを言うから怒りが湧いてくる。
「うん」
詩乃は短く返事をする。
本当は、返事さえしたくはなかった。
『――その時は死にゃあいいんだ』と言った父の言葉が不意に思い出される。確かあれは、母さんが父に、貯金のことを言った時だった。貯金というものをしない父さんに、何かあった時、貯金が無かったらどうするのと母は言い、その時に父が言った言葉だ。父はへらへら笑いながらそう言った。『その時は死にゃあいいんだ』――その父は今、手当てをしてもらって生きている。ベッドに寝ていられる。母の治療費、入院費さえ渋るような男が。『死にゃあいい』、そう思うなら、今すぐそれを実践してみせろよと詩乃は思うのだった。
「詩乃、悪いなぁ。でもお父さん動けないんだ、頼むよ」
すがるような目つきで見上げながら、そう言ってくる父。
弱っているのは確かそうだった。
しかしその、自分の弱っている事すらも利用する狡猾さが詩乃にはありありと見て取れた。息子にさえそんな駆け引きをする父が、詩乃の目には耐えがたかった。
「――お金、下ろしてくる」
詩乃はそう言うと、父の「もうちょっと話さないか」という弱弱しい言葉を聞こえないふりをして、病室を出た。エレベーターで一階に降りて、ATMの前に並ぶ。引き出し上限いっぱいの五十万をおろして、封筒にいれ、手提げのポケットの中にしまう。
詩乃は病室に戻る気にもなれず、病院を出た。
目の前には団地があり、詩乃はその団地をぐるりと囲うように敷かれた軽い傾斜の道を歩いた。真夏日、危険な熱さであるらしい今日。時間は午後三時過ぎ。一番熱い時間帯らしい。それなのに、詩乃は熱さを感じなかった。身体は反応して汗を流すから、それは鬱陶しくはあったが、それでも、病院の冷房の中にいるよりは幾分かマシだった。汗が流れると、ちゃんと今自分が生きていると確認することができた。
階段を下りて団地の中にある小さな公園に入る。
滑り台と鉄棒だけのある小さな公園の日陰の中、ぽっかりとベンチだけが日に照らされていた。詩乃はそのベンチに腰を下ろし、両手で顔を覆った。
今日から父の入院の準備をしなければならない。自宅と病院を往復し、何日かに一遍――もしかすると毎日、病院に通うことになる。だから必然的に、今日から自分は、こっちの実家の方で寝泊まりすることになるだろう。
――あぁそうだ、今日は久しぶりに実家に帰るんだと、詩乃はその時に気づいた。
実家には嫌な思い出だけがあるわけではない。
父が、この一年半の間にゴミ屋敷のようにしてしまっているかもしれないから、そうだったら掃除もしないといけない。それは腹の立つことだけれど、でも、懐かしい。その懐かしさの中には、安らぎもある。しっかり息子として成すべきことを頑張れば、今日は家の布団で眠ることができる。
よし、と詩乃は立ち上がった。
病院に戻った詩乃は、父と二人、看護師に案内されて『説明室』とアクリル板で記された部屋に通された。部屋は三階のナースステーションの隣で、詩乃は看護師たちに挨拶をされると、少し気も楽になった。