エピローグ ~孤独な言葉のために~
ホテルを出た後、詩乃と柚子は、再びビーチを目指して歩き、親水公園に着いた。ステージでは、南中ソーラン節が披露されている。ステージを離れて、二人は、猫の額ほどの小さな展望台にやってきた。
ビーチと海が目の前に広がり、潮風が夏の暑さを吹き飛ばす。
青い海に水色の空、そして、空には、波打ち際の波しぶきのたびに現れる泡と同じ色の薄い雲がたなびいている。遠くには離島と半島の黒い影が、水平線の途中に浮かんでいる。
詩乃にとっては、特別感慨深い景色だった。
まだ母が元気だった頃に、家族三人で来たのが、まさにこのビーチだった。そしてこの展望台から、同じ景色を、父と母と、一緒に見た。
柚子は、遠くを見つめる詩乃の横顔を見つめながら、口を開いた。
「詩乃君、写真のこと……」
「――どうして鳥は突然現れるのか知ってる?」
「え?」
詩乃はもう、写真のことはどうでも良かった。
柚子は鳥と聞いて、海辺を飛んでいるカモメを目で追った。
詩乃は海上を飛ぶ海鳥たちを見て、アイスランドを舞台にした動物ドキュメンタリー番組の一幕を思い出していた。パフィンの咥えた小魚を横取りするトウゾクカモメ――そういえば、パフィンの巣の近くには野兎もいて、たまに巣穴に入ってくるらしい。
詩乃は思い出して、笑ってしまった。
「詩乃君……」
「新見さん――」
柚子が言葉を言いかけて、詩乃は、その続きを柚子が言う前に口を開いた。
「自分はやっぱり、優しくないと思う。また、傷つけると思う」
柚子は、詩乃の言葉を待った。
詩乃は、柚子に向かい合って、柚子の目を見つめながら言った。
「だけど、嘘は言わないよ」
詩乃はそう言うと、ポケットに入れていたネックレスを掴み出して、それを柚子の首に手を回し、つけてあげた。柚子は、ペンダントトップを見下ろして、それからぱっと、詩乃の顔を見た。
「これっ――!」
柚子は、感動と驚きに声を詰まらせる。
詩乃は、やっと渡せたという満足感を覚えながら、ネックレスを身に着けた柚子を見つめた。なんだか、首輪をかけてしまったようで、詩乃は少し気恥ずかしかった。
「新見さんの事、好きなんだ」
柚子はネックレスを両手で包むように握って、その握った手を、口元にもっていった。
柚子は嬉しすぎて、どうにかなってしまいそうだった。柚子は詩乃から、「好き」と似たような言葉ならたくさんもらっていたが、「好き」と言われたのは、これが初めてだった。プレゼントに、「好き」の言葉、それに、今ここに詩乃君がいること――嬉しいことが重なりすぎて、どうしていいかわからない。
柚子は、祈りを捧げるように手を結んだまま、詩乃を見つめた。
どうしよう、という困惑が浮かんでいる、うるんだ瞳。
詩乃は半歩程前に踏み出して、柚子の背中に手を回した。
柚子もネックレスから手を放し、思い切り詩乃を抱きしめた。
「ううっ、苦しい苦しい」
柚子は詩乃の鎖骨のあたりにチュッと口をつけて、ぎゅうっと力いっぱい詩乃に抱き着いた。
「もう離さないからね。今日はずっとこのまま」
詩乃の胸に顔をうずめ、もごもごと、いたずらっ子のようにそう言う柚子の声は、微かに震えていた。
「フジツボじゃないんだから」
「フジツボ」
詩乃は柚子の子供っぽい振舞に笑わされてしまう。
爽やかな磯の風が、詩乃の火照った頬と首筋を通り抜けた。詩乃は、近頃のもやもやした悪い気が、その風で、祓われたような気がした。
展望台で景色と潮風を存分に楽しんだ後、詩乃は、ビーチから歩いて十分ほどの、小ぢんまりしたイタリアレストランに柚子を連れて行った。ビーチから店までの道は、昔の曖昧な記憶だけが頼りだったので、見つけられるかどうか、詩乃にしてみれば賭けだったが、その店は、詩乃の記憶の中にあるままに、小さな路地に、ちょこんとしっかり存在していた。
看板もなく、ガラス窓にメニュー表が張ってあるだけで、中は薄暗く、開いているのか、閉まっているのかもよくわからない、そんな店である。
詩乃は、この店の海鮮タコスが、子ども心に強烈に残っていた。
イタリアレストランなのになぜタコスかはわからない。それでも、肉厚の海老の入った巨大なタコスを、無我夢中で頬張った記憶を、詩乃は昨日のことのように、鮮明に覚えていた。熱海に来ることがあったら、絶対にまた来ようと思っていた店である。
長方形の小さな店内には客は一人もいず、二人は店の一番奥のテーブルに向かい合って座った。柚子は壁際のベンチソファーに座り、詩乃は柚子の対面の木製の椅子に腰を下ろした。
壁には、漁網やペナント、カジキマグロの頭の模型が飾られていて、トイレの近くの物置の上には、深海の青を映したような、美しいガラスの浮き球が三つほど置かれている。
詩乃が、この店についての思い出を柚子に話すと、柚子もそのタコスが食べたいと言って、二人で海鮮タコスを注文した。
料理が来るまでの間、柚子はプレゼントのネックレスを、いろんな角度で観たり、触ったりして、何度も何度も感動を味わっていた。
詩乃は、ネックレスについて、ずっと渡そうと思ってタイミングを失っていたことを柚子に白状した。実は去年の新見さんの誕生日のために買ってたんだと詩乃が言うと、柚子の胸にぎゅっと、詩乃への愛おしさが溢れてくるのだった。そしてまた、今日、合宿先からここまで来たのは、全く無計画で、昨日の真夜中過ぎに決めたのだ、ということも詩乃は柚子に話した。
話をしながら、詩乃自身も、自分が今新見さんと、この思い出のレストランにいるということが、不思議でならなかった。たった数時間前の自分は、今のこの未来の自分を、思い描いてすらいなかった。
たった数時間の先の将来さえ、どうなるのか、全くわからない。それなのにどうしてだろうと、詩乃は思った。自分の、新見さんに対する想いは、もう生涯、変わらないような気がするのだった。――きっと錯覚に違いない。それなのに、人の気持ちは変わるもの、普遍的なものなんてないなんて、そんなことを新見さんに言った割に、その錯覚に身をゆだねてしまいたいと思っているのは、新見さんよりも自分の方なのではないだろうかと詩乃は思った。
「詩乃君、隣来ない?」
物思いにふける詩乃に、柚子が言った。
詩乃は、柚子をちらりと見て、頷いた。立ち上がって、四角いテーブルを回る。柚子はにこりと笑みを浮かべて、自分の隣をぽんぽんと叩いて詩乃に座る場所を指定した。詩乃は柚子の指定した場所に腰を下ろした。
――近いな、と詩乃は思ったが、柚子は満足そうに笑って言った。
「ここ詩乃君の指定席だから」
詩乃は笑いながら応えた。
「予約は苦手だよ」
「私が取っとくからいいの」
「ずっと?」
「うん、ずっと」
二人は見つめ合って、くすくす笑った。
そこへ、海鮮タコスが運ばれてきた。一つずつ、青い満月のような皿に乗っかっている。タコスにしては分厚い生地。瑞々しい緑のキャベツが、ぶわっと顔を出している。おぉと、二人して声を上げた。
「本当に大っきいね! 美味しそう!」
「うん。食べよっか」
二人はいただきますと言って、両手にタコスを持つと、豪快に、ばりっと大口を開けて最初の一口を食べた。唇の周りにソースがくっついた顔を互いに見合わせて、二人して笑った。
柚子の胸元のネックレスが小さく揺れる。
ダイヤモンドを囲む三つのリングが、きらりと輝いた。
〈あとがき〉
第三章『孤独な言葉のために』、ここまで読んでいただき、ありがとうございました。そしてまた例によって、誤字脱字報告、ありがとうございました。どうしても、何か所か見逃してしまいます、すみません。報告いただき、いつも嬉しく思っています。
今回の第三章、15万文字くらいのボリュームとなっていますが、実を言うと、最初は20万文字を超える文字数がありました。それではちょっと多すぎると思い、3~4場面程、本筋に関係の薄いところ(例えば文芸部が親睦会で焼き肉屋に行く所など)をカットして、現在の15万文字程度としました。カットしたのは主に、新入部員の愛理とダンス部三年の長江匠がからんでくるシーンです。特に匠の方は、実は一章、二章でもシーンをカットしていて、三章までは名前すら出していませんでした。やっと名前を出せて、嬉しく思っています。橘昴も、ピアノ部でずっと本編出場を控えていました。二人とも、かなり重要な人物です。
さて、二章のあとがきでは「出せるかどうかわからない」と書きましたが、皆様の応援の力のおかげで、三章も書ききることができました。これも実は、二章を書いている段階では、三章の構想はすでに固まっていたのですが、「たぶん書くだけの元気が残っていないだろうな」と、執筆を半ばあきらめていました。ではなぜ書ききれたかと言いますと、ひとえに、読者の方の応援のおかげです。いつも元気とモチベーションを頂いております。ありがとうございます。
――と、申し上げておきながら、今回もすみません、一度ここで「完結」とさせていただきます。じゃあ、詩乃と柚子の話はまだ続きがあるのかというと、実は――あります。もうちょっとだけ、あります。というよりは恐らく、ここからが正念場です。鋭い読者の皆様は恐らく、ここまで、まだいろいろ、残っている部分にお気づきかと思います。簡単に言えば、一章からずっとある「もやもや」です。それがいよいよ、四章にて明らかになってゆきます。
と言いつつ、四章も、それを書ききるだけのパワーの充填をしないといけないので、すみません、「必ずすぐ書く!」とはお約束できません。こればっかりは本当に申し訳ないです。ですが、多くの読者の方が付いていて下さるようなので、すでにちょっと、「やれる」気はしています。四章も、出せた時には是非また、よろしくお願いします。
感想等々、随時受け付けております。この作品を通して何か、皆さまの心の琴線に触れるものがあれば、嬉しく思います。
ご精読、ありがとうございました。