ツノメドリは飛ぶ(10)
ホテルに戻った後、ダンス部の皆は部屋に戻り、ひとまず着替えることになっていた。
そのあとは、シャワーを浴びる生徒はシャワーを浴びて、チェックアウトの準備をする。チェックアウトのあとは、現地解散である。
皆が部屋に戻る中、詩乃はロビーに残される形になるが、ダンス部の、特に三年生は、詩乃を歓待する構えを見せていた。女子生徒も男子生徒も、合宿先から柚子のために新幹線に乗って駆け付けてきた、という詩乃の熱意に胸を打たれていた。
「水上君も風呂入る? タオルとか、予備あるから貸すよ」
匠の申し出に、詩乃ははにかみながら答えた。
「いや実はさ、昨日の夜中温泉入りすぎて湯あたりしちゃったんだよね……」
「マジかよ」
カラカラと、匠は笑った。
匠の方でも、詩乃にはすでに気を許していた。
「じゃあここにいる? 俺らの部屋来てもらってもいいんだけど、むさ苦しいからな……」
匠が言うと、近くにいたダンス部の三年の女子――恵が言った。
「うちらの部屋来てもいいよ? むさ苦しくないし――あぁ、嘘嘘、柚子、なんて顔してんの」
柚子の不安そうな表情に、恵は慌てて発言を撤回する。
柚子は、汗臭いまま詩乃の前にいたくもなかったが、詩乃と離れるのも嫌だった。目を離しているうちに、詩乃が帰ってしまうのではないかと、そんなありもしないことを本気で考えて、不安になっていた。
柚子のその不安を見抜いて、千代が言った。
「柚子、シャワー浴びてきなよ。私、もうちょっとここにいるから」
「わ、わかった!」
柚子は、詩乃の目をじっと見つめると、ぱたぱたとロビーを横切って、階段を上っていった。匠も、一件落着と、部屋に向かった。千代は二人分のアイスコーヒーを注文しに、カフェカウンターに向かった。
詩乃は一人、千代を待って、ソファーに座った。
そこへ、昴がやってきた。
詩乃は、そうなるのを知っていたかのように、昴をまっすぐに見つめた。昴は、詩乃の斜め向かいの一人掛けソファーに座った。
「わざわざ見に来てくれたんだね」
昴が言った。
詩乃は、迷わずに即答した。
「ピアノを聞きに来たわけじゃないよ」
昴は、参ったなと微笑を浮かべた。
「僕のピアノは、結構あれで、評判良いんだよ」
「うん。良いピアノだったと思うよ」
「ありがとう」
「でも、ピアノを聞きに来たわけじゃない」
もう一度はっきりと、詩乃は言った。
昴は、夏祭りの時と随分違う詩乃の雰囲気にたじろいだ。目も逸らさない。顔も背けない。なんでだと、昴は思った。ゆさぶりをかけて、ダメならしょうがないと思っていた。でもお前は、簡単に彼女を、諦めようとしたじゃないか。俺の宣戦布告に、まともに憤りさえ見せなかったじゃないか。それがどうして今更、そんな態度を取れるんだ――。
「……でも関心しないなぁ。本番前にあんな――」
「あのさ――」
詩乃は、昴の言葉の上から、ぴしゃりと言った。
「柚子の事好きなら、直接そう言えばいいだろ」
昴は、押し黙る。
詩乃は昴をじっと見据えて、ゆっくりと口を開いた。
「駆け引きか何か知らないけど、そういう小細工で柚子を困らせるな。取り繕ったって、やろうとしてるのは略奪愛なんだから。そんな姑息な男が、柚子に吊りあうなんて思わないよ」
一言一言、はっきりと、詩乃はそう言った。
昴は、引きつった笑顔で応じた。
「勘違いしないでほしいな、僕は、そんなつもりはないよ。はは、少し大人げないんじゃないか……」
昴はそう言うと、「もう行くよ」と、席を立った。
詩乃は、昴がロビーを横切ってエレベーターの中に消えるのを確認し、ため息をついた。
千代は、カフェカウンターから、その一部始終を見ていた。
これはあとで柚子に報告しようと決めて、二人分のアイスコーヒーを持ち、詩乃のもとに戻った。おまたせとやってきた千代に、詩乃は、コーヒーのお礼を言った。
「水上君、昨日はごめん!」
千代は両手を合わせて、詩乃に頭を下げた。
いいよ、と詩乃は応えた。
「水上君の気持ち、私全然考えてなかった。もうホントごめんね、馬鹿で」
詩乃はもう一度、いいよと言って微かに笑い、コーヒーにストローを入れた。
「――さっき橘君が来たんだけど……」
「う、うん」
「新見さんと橘君って、本当に友達なの? ――いや、ちょっと、強い事言っちゃったから、良かったのかなって」
詩乃が言うので、千代は力強く頷いた。
「良かった、あれで」
「え、聞いてた?」
「ごめん、つい……」
詩乃はこめかみを押えて言った。
「――新見さんには内緒ね」
「え、なんで?」
「嫌だよ、そういうの。好きじゃないんだよ」
千代は、詩乃の困り顔を見て、けらけらと笑った。
「水上君、超恰好良かったよ」
詩乃は照れ隠しの困り顔で、ストローを吸った。
カチャカチャと、氷がグラスにぶつかって音を立てた。
「これで橘君のことを好きだったら、目も当てられないけどね」
「え、誰が? 柚子が?」
「うん」
何馬鹿なこと言ってるのと、千代は思った。
「そんなわけないじゃん」
「いやぁ、でも――」
「疑いすぎ。柚子は水上君のことしか見てないから。あの写真はね、本当に電話で言った通り、橘君が一方的に柚子の手を取っただけなんだから。まさかそのタイミングで写真に写るとはねぇ」
詩乃はそれを聞いて笑った。
本当は、心の奥の深い所では、そんなこと、最初からわかっていたのかもしれないと詩乃は思った。橘とのことは、失うための口実にしていたのかもしれない。いつか消えていくのなら、最初から持たない方がいい。失った時に、耐えられなくなりそうだから。
それでも桜は咲いている。
それでも蝉は鳴いている。
自分は随分、桜や蝉に失礼だったなと詩乃は思った。
三十分と待たないうちに、柚子がロビーに帰ってきた。ダンス部のTシャツを着、首にバスタオルをかけ、手には茶ノ原高校のエンブレムの入った合宿バックを持っている。
「お待たせぇ!」
柚子は手を振りながら、二人のもとにやってきた。
「よし、じゃ、私もお風呂行ってこよ」
と、千代は立ち上がって、二人に軽く手を振ると、エレベーターに入っていった。
柚子は最初、詩乃の向かいに座ったが、思い直して立ち上がり、詩乃の隣に移動した。
柚子は、言いたいことが多すぎて、かえって何も言えなくなってしまっていた。
「合宿お疲れ様」
詩乃が労いの言葉をかけ、柚子は頷いた。
「山代温泉は、いいとこだよ。温泉街の街並みも情緒があって、九谷焼も、見てるだけで楽しいんだ。――新見さんにも見せてあげたいとか、ずっと思ってたよ」
柚子は、詩乃の手を握り、こてっと、詩乃の肩に頭を乗せた。
詩乃は、会ったら柚子の本心を聞こうと思っていた。しかし実際に顔を合わせると、もうそんなことは、どうでもいいような気がしてくるのだった。それどころか、言葉さえ必要が無いような気がする。詩乃は柚子の肩に手を回し、柚子の体を自分の体に押し付けるように引き寄せた。柚子の鼻が詩乃の首筋にあたった。
そのうち、柚子はくすくすと笑い出し、その呼吸が詩乃にはくすぐったかった。
二人はほとんど言葉を交わさないまま、ゆったりと時間を過ごした。
そのうちにダンス部、ジャズ研、帯同したファッション部の生徒が、続々と、荷物を持ってロビーに降りてきた。柚子の彼氏が合宿先からやってきた、という噂は、あっという間に全員に知れ渡っていた。特にダンス部の三年生の女子生徒は、初めて見る柚子の彼氏に大興奮である。柚子のために朝一でやってきた、新幹線で、片道三時間をかけて――すごくない、柚子の彼氏! すごいすごい! いいなぁ柚子、超愛されてんじゃん! と、ずっと柚子を見守ってきたダンス部の三年生は、大はしゃぎである。
詩乃は、皆の視線や盛り上がりが恥ずかしかったが、今更恥ずかしがるのもばかばかしいと思い、皆がロビーに集まってきても、柚子を堂々と隣に坐らせていた。千代や匠もロビーに戻ってきた。詩乃と柚子の向かいの席に、千代とその彼氏の〈みっくん〉こと三ツ矢京、そして京の隣に匠が座り、いつ間にかそのまわりに、ダンス部の三年生たちが集まってきていた。
詩乃は、皆から色々な質問を受けた。
文芸部のことや、今日の事、そして、柚子の話。普段は、詮索されるのは嫌いな詩乃だったが、自分を受け入れてくれるダンス部の雰囲気に、詩乃の口も自然と軽くなった。皆に囲まれて、こんな詩乃君始めて見たと、柚子は詩乃の隣で、そんなことを思った。
「――柚子、この後さ、水上君と二人で遊んできなよ」
千代が言った。
テンションの高いダンス部の女子たちが、「おぉ」と声を上げた。
柚子はこのあと、千代やその他の近しい友達と、皆で海水浴をして帰る約束をしていた。柚子は、約束を破るのも悪いと思い躊躇ったが、その様子を見せた瞬間、他の生徒たちが、千代の意見に大賛成と、行ってきな行ってきなと、柚子に声をかけた。「水上君、柚子の事よろしくね!」などと、詩乃にも声がかかった。新見さんの人徳はすごいものだなぁと、詩乃は改めて気づかされた。
柚子は、恥ずかしそうに笑いながら、詩乃を見つめた。
柚子が詩乃を見つめたというだけで、周りの女子生徒は口元を押え、目を輝かせた。
「詩乃君、時間大丈夫?」
と、柚子は詩乃に訊ねた。うっかり皆の前で「詩乃君」呼びをしてしまった事に、気づき、あっと柚子は声を上げ、息を吸い込んだ。もう別にいいよと、詩乃はため息をつき、笑って言った。
「今更気にしないよ」
ほどなく、阿佐教諭がロビーの一角に全員を集め、合宿での生活面の総評や、ダンスのステージのこと、そして解散後のことなどを話した。ダンス部の部長と指導員のジョルジが短くもパンチの効いた話をして、ダンス部の夏の合宿は終了となった。
柚子はまた詩乃のもとに戻ってゆき、そんな柚子を、昴は遠くから見つめていた。
「本気だったんだけどなぁ」
昴は、一人呟いて、ジャズ研の仲間と合流し、ホテルを後にした。詩乃は柚子のやってくるその肩越しに、昴が出てゆくその背中を見ていた。自動ドアが閉まり、昴の姿が消えていった。
柚子は、詩乃の視線に気づいて振り返った。
特に、何かがあるわけでも、誰がいるわけでもない。
「どうしたの?」
柚子は無邪気に首を傾げる。
詩乃は、「なんでもないよ」と応えながら、柚子の軽く抱きついてくる肩越しに、誰もいなくなったホテルの玄関を暫く見つめていた。