ツノメドリは飛ぶ(9)
詩乃は立ち上がり、背筋を伸ばし、腰を回した。
パキパキと、音が鳴った。
「どうしたんですか? 散歩でも行くんですか?」
「散歩?」
詩乃は聞き返し、いや、と首を傾げた。
近場の散歩じゃ物足りないと思った。
詩乃はテーブルの上にほったらかしにしていた自分のスマホを見つけると、それを拾い上げて、いくつか調べ物をした。
「もう温泉はダメですよ。またのぼせちゃいますよ」
詩乃は頷いた。
その通りだと思った。のぼせるほど考えるくらいだったら――新見さんが明日、ステージで踊れるかどうか、落ち込みすぎて踊れないんじゃないかと心配するくらいだったら、解決策はあるじゃないか。
詩乃は調べ物を終えたので、ふすまを開け、居間に戻った。
ちょこちょこと、愛理はその後に着いて歩いた。
鼾の正体は健治だったかと思いながら、詩乃は健治の体をまたいで、自分の荷物の置いてある部屋の一角へと向かった。それから、愛理にとっては突然に詩乃は帯を解いて、愛理の止める間もなく、さらりと浴衣を脱いだ。ボクサーブリーフ一枚に素っ裸、寝室から漏れるオレンジの微かな明りのもとでも、詩乃の体の輪郭くらいはわかる。弟の裸は見慣れている愛理だったが、詩乃の裸は、恥ずかしくて見られない。
「ちょっと先輩、急になにしてるんですか!」
押し殺した声で詩乃を非難しながら、愛理は詩乃に背を向けた。
その時グーっと、健治の強い鼾が鳴り、愛理はびっくりしてしまう。
詩乃はそのすきに、素早く七分丈のパンツと、上は水色のポロシャツに着替えた。合宿バックの中から手提げ袋を引っ張り出し、その中に、ミニショルダーを入れる。その時に詩乃の手が、手提げの中に硬い箱を見つけた。何かと思って引っ張り出し、詩乃はその箱の正体を見て、深く息を吸い込んだ。
詩乃は、ソレの存在をすっかり忘れていた。
去年買ったままにしておいたネックレスだ。
渡そうと思ったこともあったけど、ずっと機会が無くて、ほったらかしにしていた。いつだったか、この手提げに入れて、渡そうと思ったことがあった。なんで渡せなかったかは忘れてしまったけど、そのあとこれは、そのままここに入れっぱなしだったのだ。
詩乃は一人ケラケラと笑った。
思えば、新見さんにあげようと思ってまだ渡せていないものが随分溜まってしまっている。クリスマスに渡そうと思っていた自分の家の合鍵、それに、ニョロニョロのぬいぐるみ。
渡せば良かったんだと、詩乃は思った。
そして今、このネックレスがここにあることに、詩乃は運命のようなものを感じていた。これはきっと、神様が、今渡せと言っているんだなと思った。
結構高価な――高校生が買うような値段のネックレスではなかったから、気を使わせてしまうと思って、渡せなかったのだ。でもそれだったら――と、詩乃は箱の包装を破り捨て、箱を開けた。そうして、中のトリニティリングのネックレスを取り出した。それをそのまま、ズボンのポケットに入れる。ネックレスの箱と破り捨てた包装用紙は、近くにあったゴミ箱へ。愛理は、一体何が始まったのかと、ただ詩乃の行動を見ているしかなかった。
外に出る準備を終えて、詩乃は軽く息をついた。
「先輩、えっと……寝ないんですか?」
愛理は、そんなことを聞いた。
詩乃は頷いて答えた。
「ちょっと、散歩行ってくるから――明日は、自分抜きでやっておいて」
「え、どこ行くんですか?」
「ちょっと、熱海まで」
「……はい!?」
「夕食も間に合うかわからないから、帰ってなかったら、食べていいよ」
「え、ええ!?」
詩乃は、愛理の驚く様子を楽しみ、それから部屋を出た。
愛理は裸足のまま詩乃の後に着いてきて、正気ですかと詩乃に訊ねた。
「電車出てるんですか、こんな――」
愛理は、手に握っていた自分のスマホを見た。
時間は、午前三時過ぎだ。
「出てるよ。さっき調べた。三時間ちょっとかな」
「嘘でしょ……え、熱海って、まさか、新見先輩に会いに行くんですか!?」
そう聞かれて、詩乃は愛理の額を指さしながら言った。
「絶対に内緒ね、ダンス部の子には」
愛理は、その圧力に、こくこくと頷いた。
それを見て詩乃は愛理に笑みを浮かべ、そして、愛理がそれ以上止める間もなく、風のように宿を出て行ってしまった。愛理は、しばらくぼーっと、宿の玄関を見つめていた。
ダンス部の合宿最終日。
海が目の前に広がる熱海親水公園の仮設ステージ。
公園やその付近の歩道には、朝から露店が出て、フランクフルトや焼きそばやかき氷を売っている。世界中のビールが集まる祭りなので、公園内には、ビールを売る露店が集まっている。最終日ということもあり、公園は朝からビール好きたちで賑わっていた。日焼けした若者が、あさからぐびぐびやっている。
この日のダンス部の発表は、その朝一番のステージである。
ダンス部、ジャズ研、ファッション部の三人に阿佐教諭とダンス指導員のジョルジは、皆で気合を入れてホテルを出発し、ステージに向かった。今回のステージには舞台袖などは無いので、ミーティングや着替えは、全てホテルで済ませている。衣装を着けて朝の海岸沿いの道路を、ぞろぞろ歩く四十人の集団の引き締まった顔つきは、それがただの仮装行列でないことを示していた。
ステージの始まる五分前まで、舞台近くの、トンネルのようになった駐車場の日陰で待機し、始まる五分前に、階段を上って、公園に移動する。ステージでは、MCの女性が、今日のプログラムや天気の情報、露店の紹介などをしている。スピーカーから聞こえてくるMCの声が皆の胸や腹に響き、出場メンバーをいよいよだ、という気持ちにさせた。
柚子と千代も寝不足だったが、いざステージの緊張感にあてられると、眠気などはすっ飛んでしまった。しかし、そうは言っても、柚子は、百パーセントで舞台に集中できていない自分を感じていた。こんなんじゃダメだと思いながらも、どうしても、写真の事、詩乃の事が心に引っ掛かり、それにともなう罪悪感や後悔を感じてしまう。
舞台発表のメンバーが、ステージ脇に到着した。
それだけで、舞台の前にいた観客、観光客が拍手をし、声援をかけた。ヒューヒューと、口笛も鳴る。酔っ払いの悪ノリは、俺たちのダンスで黙らせてやると、そんなダンス部三年生の気迫が後輩にも伝わった。
「緊張するね」
「ダイジョブ、ダイジョブ」
「頑張ろう、思いっきりやろう」
部員たちは、互いに互いを励ましあった。
柚子も、覚悟を決めて、客席を見渡した。見渡す、というほどに広い観客席でもないが、そうすることで、少し落ち着くことができる。
ビールを飲みながらの人が多い。みんな笑顔だ。日に焼けている人ばかり。すごい筋肉の人、サングラスにへそ出しビキニの女性、金髪に真っ黒い日焼けをしたおじさん……。
大丈夫、きっと上手くいく。きっと――。
と、客たちの顔を見ていた柚子は、その中に、いるはずのない人の顔を見つけた。
一瞬見て、驚きすぎて二度見する。
客席の中に――詩乃君がいる。
「ええっ!?」
柚子は思わず、目を見開いて、口元を手で押えた。
完璧に目が合う。
こしこしと目をぬぐい、もう一度見る。
――詩乃君は、消えない。本当にいる。でもなんで!?
千代もちょうど、詩乃のことを発見した所だった。
「えっ、えっ……!?」
驚きすぎて、柚子も千代も言葉が出てこない。
柚子はぱたぱたと足を踏み鳴らした。
――なんで、どうして、どうしてここに詩乃君が!?
あまりの驚きで混乱する柚子に、詩乃はぎゅっと拳を握り、ガッツポーズを送った。柚子はとりあえず、うんうんと頷いた。柚子と千代の近くにいたダンス部のメンバーたちも、柚子の彼氏が来ていることを知り、ざわついた。詩乃は、ダンス部の見知らぬ生徒から指を差されたが、気にしなかった。
なんだ新見さん、元気そうじゃないかと詩乃は思っていた。
「え、あの男の子、新見さんの彼氏? 水上君? マジで!? え、来たの!? マジかよ! やるなぁ、柚子彼!」
匠も驚いていた。そしてパチンと手を叩き、昴のことを見ながら、ざまぁみろと大笑いをしていた。
ダンス部のステージは、それからすぐに始まった。四つのグループが、順々に登壇してゆく。一昨日、昨日と、ダンス部の発表は大好評だったが、この日のステージの熱量は、今合宿一だった。ノリの良い、誰もが知っている洋楽に、高校生らしいダイナミックなダンス。
詩乃は、三グループ目の柚子が、元気にセクシーに『Billie Jean』を踊り切ったことに安堵した。詩乃は、柚子のダンスが、別に素晴らしい出来でなくても良いと思っていた。新見さんが、良い舞台だった、と後悔なく思える踊りができれば、それだけで詩乃は良かった。
発表のあと、キラキラしたステージ衣装そのままの格好で、詩乃のもとに、柚子が駆け寄ってきた。
困惑と喜びとが混ぜこぜになった柚子の顔を見て、詩乃は、来て良かったと思った。言葉が渋滞して何も言い出せない柚子の頭を、詩乃はぽんぽんと軽く撫でた。
柚子に遅れて、千代もやってきた。『Beat It』の赤い革ジャンに破れたジーンズ姿である。
「水上君、驚いたよ! 合宿は!?」
「抜けてきたよ」
さらっとそう言う詩乃に、改めて千代と柚子は驚いた。
「もう、最高だよ水上君! あ、このあと一旦ホテルに戻って着替えるんだけど、どうしよっか柚子、ここにいてもらう?」
千代が言うと、柚子は首を振って言った。
「嫌だ、一緒が良い!」
「ええっ!?」
千代は驚いた。
あの柚子が、わがままを言っている!
「折角見に来てくれたんだから、待たせちゃ悪いだろ」
千代の後ろからそう言って、遅れてやってきたのは、タンクトップ姿の匠だった。
「水上君だよね? 新見さんから話聞いてるよ。長旅で疲れてるだろ? ホテルで涼もうぜ」
詩乃は頷き、席を立った。
匠とは初対面だったが、詩乃は、直感的に、この男は信用できると思った。
ホテルに帰る仮装行列は、ステージをやりきったという解放感もあって、賑やかだった。
「どれくらいかかった? 新幹線?」
「うん、新幹線。三時間ちょっとかな」
「すげぇな。俺だったらそこまでできねぇもん。マジで驚いた」
詩乃と匠は、ホテルまでの数分の間に、すっかり打ち解けていた。それは、詩乃にとっては不思議な経験だった。




