ツノメドリは飛ぶ(8)
露天風呂の岩を背もたれにして、詩乃は千代の言葉を思い出していた。
――柚子、泣いてるんだよ!
――今、落ち込んでるの!
嘘か本当かはわからない。雨森さんは新見さんの友達であって、自分の親友ではない。肩を持つのは、新見さんの方に決まっている。まさかそんな、騙すようなことを言うわけはないと思うけど、でも、電話じゃわからない。だけど――と、詩乃は少し冷静になった頭で考えた。
雨森さんは、日ごろはあんな風に怒るようなタイプではない。少なくとも自分に対しては。雨森さんは、愛理のようにイケイケのような風でいて、実はかなり、気を遣っている。自分だから――友達の彼氏だから気を使っていたのかもしれないが、とにかくその雨森さんが、あんな風に感情をぶつけてくるのは、本当に新見さんが泣いて落ち込んでいる事の証明かもしれない。
でももし、新見さんが今夜――今頃もそんな状態だったら、明日のステージは大丈夫だろうか。明日は、ダンス部合宿の最終日だ。最終日は、午前中の発表だと言っていた気がする。終わり良ければ全て良し、という言葉があるけれど、その発想で言うなら裏を返せば、今日までがどんなに良くても、明日の最終日、大きな失敗をしてしまったら、全て台無しになってしまう――新見さんは、そういう風に思うのではないだろうか。
高校生のダンス発表で何か失敗したとしても、それで困る人はいないだろう。失敗なんて、毎日誰かが、とんでもない失敗をしているものだ。それでも、なんやかんやで、社会はまわっているし、月や鳥や自然は、なんら影響を受けない。だけど、もし新見さんが大きな失敗をしてしまったら、自分はそうやって新見さんを励ませるのだろうか。それは、自分が言うには、あまりに無責任ではないだろうか。ダンス部の誰かに恨まれるのは別にどうでも良いが、新見さんに恨まれるのは嫌だ。でも新見さんは、人を恨むような子じゃない。きっと、自分が悪いんだ、自分が悪いんだと、自分を責めるのだろう。
大体今のこの状況は、実際誰が悪いのだろうか。
嫉妬して新見さんにあたった自分か。
橘とあんなことになっている新見さんか。
それとも、新見さんに近づいた橘か。
いっそ、全部橘のせいにしてしまいたいと詩乃は思った。お前が新見さんに近づいたから、新見さんは困ってるんだぞ。新見さんは、お前に気を使って、はっきり「嫌」と言えないんだ。
――でもどうだろうか。新見さんの気持ちが橘に向いているとすれば、橘に向けたいと思っているその言葉は、そっくりそのまま、自分にふりかかる。新見さんが今自分に抱いている感情の正体が、愛情ではなく、一緒にいて情が移っただけという、その情だったとしたら。そうだとしたら、新見さんを困らせているのは、自分ではないか。もしそうなら、やっぱり新見さんは自分には、別れるとは言えないだろう。別れたいと思っていたとしても。
新見さんが優しいということは間違いない。
だけど、優しいからといって、一途である、なんてことはない。たぶん「好き」は理屈じゃない。だから、新見さんの気持ちが自分から誰かに移るということは、充分にありうる。多田さんは万が一なんていう数字を出していたが、実際にはたぶん、常に二分の一なのだ。詰まるところ、「好き」か「そうじゃない」かのどちらかなのだから。
信頼の問題ではない。優しさや信頼で、「好き」がコントロールできるなら、世の中はきっと、もっと平穏なことだろう。でも実際は違う。文学上に、浮気や不倫を描いた作品は、星の数ほど存在している。つまり読者は、知っているのだ。人が人を好きになる、嫌いになる、心が変わる、そういうときには必ずしもそこに、理屈があるわけではないということを。だから、優しければ浮気をしないとか、一途だとか、そういうのは、そうだったらいいな、という希望であって、真実ではない。感情――こと恋愛というものはそんな不確かなものだから、色々な手段でそれを縛って、確かなものにしようとするのだろう。
湯面の上をゆっくり動く湯気の中、詩乃の思考は、合宿に来て以降もっとも深く、言葉と心の世界を探索していた。そうしていつの間にか、詩乃は半分以上、夢の世界に誘われていた。浴場の年配の管理人が、閉場を告げるためにやってきて、詩乃はその管理人に起こされた。長時間湯に浸かっていたせいで、詩乃はすっかりのぼせてしまっていた。管理人の男性の肩を借りて、何とか脱衣場まで戻って、竹編みの長椅子に座った。その時に詩乃は、管理人から飲み物を飲ませてもらったが、そのことは、詩乃の記憶には残らなかった。
詩乃は無意識のうちのその長椅子に横になって、そのまま眠ってしまった。
管理人は心得たもので、横になった詩乃の腰にバスタオルをかけ、扇風機の風を詩乃に向けた。詩乃の意識が戻ったのは深夜十二時過ぎ――日付が変わった後だった。
詩乃は管理人の男性に礼を言って浴場を後にし、宿に戻った。
部屋に帰ると、皆詩乃が戻ってこないのを心配して、居間に集まったまま起きていた。詩乃は温泉で寝ていたことを皆に話し、まだひどい頭痛が残っていたので、そのまま近くの布団に、倒れるように横になった。愛理はすぐにスポーツドリンクを持ってきて詩乃の横に置き、水に濡らしたタオルを用意して、詩乃の首筋や顔を冷やした。体温を計ったり脈を取ったり、愛理はこまごまと働いた。
脈拍がどうとか、体温がどうとか、のぼせた時は身体はこうなっているとか、いつもの愛理とは思えないような理路整然とした説明と手当に、皆舌を巻いた。
「――実は、家が病院なんですよ」
と、初めてその時、愛理は実家のことを皆に明かした。
「今日は私が先輩看てますよ」
愛理のその提案には、誰も異は唱えなかった。問題は、愛理が居間に来て詩乃の隣に布団を並べるか、詩乃を寝室に運んでそのその隣に愛理が布団を持ってくるか、ということだった。この件に関しては、男性陣に発言権はなく、結局、詩乃が寝室に運ばれることになった。布団ごと引きずられているときは、詩乃はもう寝ていて、意識はなかった。
詩乃は、眠ってから三十分おきに愛理に起こされ、スポーツドリンクを飲まされた。詩乃の意識も朦朧としていたので、隣に愛理がいることや、自分が寝室の方にいることなどは、認識はしていたが、それ以上は考えられなかった。飲み物を飲むと、そのまま再び、三度と不安定な眠りに落ちた。
そんなことを繰り返して深夜の二時半過ぎ、愛理に起こされたとき、詩乃の意識はやっとはっきりしてきた。
常夜灯の微かなオレンジの明かりの中、詩乃はごくりと、スポーツドリンクの最後の一口を飲み干した。
「――うん、だいぶ良さそうですね」
詩乃の首筋の温度を手の甲で測りながら、愛理が言った。
愛理のひんやりした手は心地よく、詩乃は振り払おうとは思わなかった。
「はぁ、みっともないなぁ……」
詩乃は、自分の無様さを思い、頭を抱えた。
愛理は手を引っ込め、詩乃の普段とは違う弱っている様子を見て、皆を起こさないよう声を殺して笑った。
「なんか、ずっと色々、やってくれてたね」
「看護は得意なんで」
「助かった」
詩乃が礼を言うと、愛理は、胸を張って得意顔を見せた。浴衣姿、髪を解いて無防備な愛理を見て、詩乃は不意に、妹がいたらこんな感じなのだろうかと思った。柚子に感じる愛おしさとはまた少し違う愛情が、詩乃の心に沸いてきた。
「あれですよね、先輩、昨日の……」
「昨日?」
「新見先輩の事、私、無神経に……」
詩乃は、昨日の愛理の発言のことを思い出した。確かに何か、言っていた。詩乃は写真を見た後は、愛理の言葉どころではなかったが、愛理の方では、井塚に言われた言葉が意外にしっかり突き刺さっていることもあって、詩乃に対して負い目も感じていた。
「それは、全然気にしてないよ」
「ごめんなさい」
ぺこりと頭を下げる。
なんでそんなにしょげているのか、詩乃にはわからなかった。
隣の部屋から聞こえてくる大きな鼾に、愛理が笑い出すこともない。
「新見先輩の事、好きだったんですよね……?」
詩乃は、ここで誤魔化してもしょうがないかと、軽く頷きながら言った。
「好きだよ」
「そうですよね……」
愛理は、自分の軽口が水上先輩を傷つけてしまったと感じていた。新見先輩と橘先輩がお似合いだとか何とか。
橘先輩はかっこいいしモテる。友達でも、橘先輩に一目ぼれした子が何人かいる。マスゲームの時、二年生や三年生でも、橘先輩に熱い視線を送っていたのは、一人や二人ではなかった。新見先輩と橘先輩は、本当に同じような存在なのだと思った。
新見先輩のこと好きなんですか、と昨日水上先輩に聞いた時、私はあの時、まさか、と思っていた。水上先輩が、新見先輩のことを、と馬鹿にしていたのかもしれない。だから、菱沼江の嫌味が痛かった。水上先輩のことを、地味でぱっとしない、なんて思っていないはずだったのに、どこかに、そういう風に思っていた自分がいたんだ。
「私いつも、なんでですかね。水上先輩を怒らせちゃう」
「え?」
「でも、私は水上先輩の事、マジで、好きですよ。あ、変な意味じゃないですよ? でも、人間として、というか、先輩変ですけど、でも……結局ちゃんと見てくれるし、なんか……」
詩乃は首を傾げた。
「面倒見良いじゃないですか……」
「そんなこと、初めて言われたよ」
「そう思います。私の下手な文章、いつもちゃんと、すっごく丁寧に添削してくれるし」
「まぁ、部長だからね」
詩乃は、適当にそんなことを言った。実際には、部長だとか何とか、そんな役職の責任などは、ほとんど感じていなかった。後輩たちの添削は自分が好きでやっていることで、その結果、皆の文章の力も上がるなら、それは良いことだと思っている、それだけだった。
「良い部長だと思います。変だけど」
「変って……」
「だから、なんていうか……新見先輩と水上先輩でも、おかしくないと思います」
詩乃は、愛理の発言に笑ってしまった。
いや、おかしいだろう――と、詩乃は正直にそう思っていた。我ながら、新見さんが自分のことを好きだと言ってくれて、そして今は際どい所ではあるけれど、付き合っているということは、奇跡に等しい偶然だ。他からしたら、自分と新見さんは、「おかしい」はずだし、その評を不思議とも思わない。しかし、愛理の言葉は、詩乃には素直に嬉しかった。
「それはさ……嘘でも嬉しいよ」
「嘘じゃないですよ……」
口を尖らせて、拗ねたような口調で愛理が言った。
詩乃は、愛理のころころ変わる表情を見て、また笑った。愛理と話をしているうちに、詩乃の気持ちも、いつの間にか軽くなっていた。温泉で、のぼせるほどあーだこーだと考えていたけれど、愛理の冷やしてくれた頭で考えてみると、全部馬鹿らしく思えてくる。
誰のせいか、なんて考えたけれど、それを知って何になるのだろう。泣いている子にアイスをあげたら喜ぶし、のぼせた馬鹿な男にスポーツドリンクを飲ませれば脱水症は治る。新見さんが落ち込んでいるなら、話は単純じゃないか。元気を出させてあげればいい。誰のせいとか、何のせいとか、どうでもいいことじゃないか。
詩乃の顔に、だんだんと活力が満ちてきた。
愛理は詩乃の目を見て、「瞳が燃える」という表現はこれなのかと思った。