ツノメドリは飛ぶ(6)
ダンス部の合宿三日目、詩乃が紗枝に電話をかけた次の日の夜、柚子は夕食後、皆が大浴場に向かう中、一人ホテル一階のロビーに降りた。エレベーターを出て、グレーの絨毯が敷かれた広いロビーを横切り、水族館の大水槽のような大きな展望ガラス沿いの席までやってきた。ソファーに座ると、自然とため息が漏れた。
昨日も今日も、ステージの方は上手くいっていた。見物客も、海に来ているという解放感か、はたまた、ビールを飲んでハイな気分になっているせいか、小さな会場にもかかわらず、盛り上がり方は外国のそれだった。反応が良いので、踊っていてもいつも以上の高揚感を感じる。
しかし、ダンスステージの楽しい時間が終わると、柚子はまだ千代と口をきいていないことを思い出さなければならず、それを思い出すと柚子は、胃の中に鉛をいれているような気分になった。千代とのことはできるだけ考えないようにして、皆の前では曇る気分を隠した。楽しい合宿、暗い顔をして皆の楽しさに水を差したくない。
しかし柚子は、自分が、嘘が苦手なのを知っていた。楽しいでも、悲しいでも、すぐに顔に出る――そういう指摘を、家族からも友達からもされてきたので自覚はあった。けれど、一日中ずっと千代とのことを考えないで過ごす、というのも柚子にはできなかった。柚子は、できるだけ早く千代と仲直りしたいと思っていた。どうしたらいいだろう――と、仲直りの方法や、千代の言った事などを、改めて考える。考え始めると皆に暗い顔を見せてしまうので、どうしても、一人になる時間が欲しかった。一人でロビーにやってきたのは、そのためだった。
柚子は合宿初日の、千代に対する自分の態度を後悔していた。
あの時は、どうして橘君のことを何も知らないのにそんな冷たい事言うのと、悲しい気持ちでいっぱいになってしまった。けれど、あの日の夜、橘君に手を握られた時、ちーちゃんの言っていたことが頭をよぎった。
あの時、橘君は私の手を握った。単なるを親しみを示すためのものだと思った。けれど一瞬、橘君の、手を握る力が強くなった。あれは、ちょっとおかしかった。単なる友人同士のスキンシップではない、ということを告げられたような気がした。ちーちゃんに言われた言葉が頭の中に閃いたのは、その時だった。
私の考えすぎだろうか。
橘君は本当に、「魂胆」なんて持っているのだろうか。
でもあの一瞬私は、ちーちゃんの言ったことが、正しかったと思った。根拠なんてないけれど、あの、橘君の手の握る強さ、それからあの時の目は――そういうものだったと思う。
柚子は自分が間違っていたかもしれないと、一日目の夜以来そう思って、以降は、昴の近くには、出来るだけいないようにしていた。本当は、千代にそのことを話したかった。ごめんねと謝ってしまいたかった。しかし柚子も、それで許してもらえなかったらどうしようと、その怖さがあって、千代に話しかける勇気を持てないでいた。
千代とのこと。そして昴とのこと。
どうしようと思い詰めて、浮かんだのは詩乃の顔だった。そうだ、詩乃君に話を聞いてもらおう。そう思うと、とにかく詩乃の声が聞きたくてたまらなくなる柚子だった。詩乃君も合宿中で忙しいかもしれない、迷惑かもしれない。でも、どうしても詩乃君の声が聞きたい。
柚子は思い切って、詩乃に電話をかけた。
数コールの後、電話が繋がった。
「もしもし、新見です」
少し上ずった、緊張した声。
少し間があり、それから、返事があった。
『――どうしたの』
声が冷たい。
たった一言だったが、その中に、柚子は詩乃の感情を読み取った。この「どうしたの」は、心配をしている「どうしたの」ではない。「用事があるならすぐに言って」という、突き放すような「どうしたの」だ。
柚子は、期待していたのとは百八十度違う詩乃の言葉に狼狽えた。
「え、えっと、声聞きたいと思って」
『……何のために?』
「え?」
柚子は聞き返したきり、言葉を失った。
柚子は、電話の向こうの詩乃の心の葛藤を、知るはずもなかった。詩乃は、昴との写真のことを思い出して、柚子に思わず冷たく当たってしまった。そのことを、電話の奥で、言ったそばから後悔していた。しかし詩乃は、柚子に冷たくしてでも、柚子の口から、言い訳じみた言葉を聞きたくなかった。
きっとこの電話は、あの写真のことだろう。多田さんから聞いて知ったか、それとも、後輩たちとのやり取りの中で気が付いたか。しかしどっちにしても、あれはそういうつもりじゃないだとか、たまたま何かがあって、とか、実際にそうだったとしても、新見さんが自分に釈明をしているという構図自体が、耐えがたい。
――新見さんを、これ以上傷つけたくもない。でも今はたぶん、そう思っていても、言葉は全部棘のようになってしまう。
『ステージは、上手くいってるの?』
「う、うん。でも――」
『写真の事?』
「え?」
『今は聞きたくないんだ』
何の話か、柚子にはわからなかった。柚子はまだ、自分と昴の手を繋いでいる写真があることさえ知らない。
「写真って、何の写真?」
『――知らないなら知らないでいいけど……新見さん、今日はちょっと、ごめん、話す気分じゃない』
詩乃に突き放されて、柚子の頭は真っ白になってしまった。どうしてこんなことになっているのか、詩乃君が怒っているのか、冷たい態度を取るのか、柚子にはわからなかった。たった三日前には、「いってきます」なんて、短いながらも、温かいやり取りをしていたのに、それがたった三日で、どうしてこんなにも変わっちゃうの?
どうして、どうしてと、柚子の頭には、疑問しかなかった。
気づけば、「明日のステージも頑張って」と言われ、電話を切られてしまった。柚子は片手にスマホを握ったまま、通話が切れた後も、茫然としていた。どれくらいそうしていたか、柚子は、自分の側に寄ってくる人の気配を感じて、我に返った。柚子に近づいてきたのは、長江匠だった。
昴が来たのかと思っていた柚子は、その人物が匠で、ほっと思わず息を溢した。
匠は、ロビーにある売店にお土産を買いに来たところだった。売店に向かって歩きながらふと庭の方を見ると、大きな展望ガラス壁の片隅のソファー席に柚子を見つけた。ぼうっと、幽霊のような覇気のない柚子の姿を見て、匠は、声をかけることに決めたのだ。
「どうした? 何かあったか?」
柚子の顔色が明らかに悪いので、匠は心配になった。
柚子は匠の顔を見上げた。
唇が震えている。
あぁこれは、俺じゃダメだなと匠は感じ取った。何かあったには違いないが、たぶん俺には話さない。千代なら――そうだ!
匠は閃きのままに、ハーフパンツのポケットからスマホを取り出すと、千代にメッセージを送信した。
――新見さんの様子が変だ。一階のロビー。すぐ来い。
すぐに既読が付いて、返事が来た。
――すぐ行く。
匠は柚子の向かいのソファーに座った。
「今千代呼んだから」
「え……」
救いを求めるような目で見られて、匠は頷きながら言った。
「大丈夫、すぐ来るって言ってたから。何かあったんだろ?」
柚子は、ごく小さく首を縦に振った。
匠は、「何か」の正体について問い詰める気はなかった。今はとにかく、落ち込んでいる新見さんが、元気になるのが先だ。千代が来れば、少しは元気になるだろう。
匠への返信メッセージから数分としないうちに、ロビーに千代が現れた。吉原繋ぎの浴衣に紺の帯――ホテルからの貸し出しの浴衣である。手には洗面用具の入った手提げを持ち、帯は臍の前で片結びにしている。エレベーターではなく階段を下りて来たらしく、二人のもとにやってきた千代の息は荒かった。相当急いできたらしいと、匠はすぐに見て取った。風呂に入るところだったようだ。
柚子は、やってきた千代を見つめた。
千代は、柚子の顔色を見て、まだ仲直りをしていないことなど、すっかり忘れてしまった。
「柚子、大丈夫?」
千代はそう言いながら、柚子の隣に坐り、おでこを触り、軽く頭を撫でた。
柚子の顔がみるみる歪んで、そのまま千代の胸を借りて、柚子は泣き出してしまった。これには、千代も匠も驚いた。特に匠は、柚子がそんな風に泣くとは、思っていなかったのだ。感動して泣いたり、ステージの成功を喜んで部の女子と抱き合ったりしている時には、ちょっと泣いていたりする。しかしそれでも、他の女子に比べれば、そういう時も、涙はそこまで流さない女の子だ――と、匠は思っていた。それが、そうじゃなかった。
柚子はわっと泣き出してしまい、千代はそんな柚子を抱き止めるようにして慰めた。
千代の目も、赤くなっている。
匠は席を立ち、カフェカウンター横のドリンクサーバーで温かい緑茶を三人分、紙コップに注ぎ、それをドリンクプレートに乗せて戻ってきた。匠は、それぞれの前に緑茶を置くと、二人の対面に座った。
「今日は転ばないんだ」
千代が不意にそんなことを言ったので、匠は思わず笑ってしまった。
緑茶を飲んで、柚子もだんだん落ち着いてきて、その後で、柚子は詩乃との電話のことを千代に話した。その場に匠もいたが、千代も柚子も、匠に聞かれていることは、気にしなかった。匠は、これまで柚子とは、一歩引いた関係を保っていたので、この場に自分がいていいものなのかという気まずさを感じながら、話を聞いていた。
千代は昨日の時点で、紗枝から、写真のことを聞いて知っていた。もう隠していても仕方が無いと、千代は柚子に全部を話すことにした。昨日、詩乃から紗枝に電話があったこと、その電話の要件が、柚子と昴が写り込んだ写真であること、その写真を撮ったのはダンス部の一年生で、その横のつながりで、文芸部の一年生がその写真を受け取ったこと。そして、その写真を、たまたま詩乃が見つけたということ。




