ツノメドリは飛ぶ(4)
ダンス部の合宿二日目の夜、加賀温泉郷の山代にある民宿では、文芸部の合宿が、三日目の夜を迎えていた。文芸部の泊まっている部屋は小さな庭に面した和室だった。入縁側を持つ居間と寝室。いずれも広く、寝る時は女子が寝室を使い、男子は居間で寝ることになったが、どちらの部屋も、人数分の布団を敷いてもなおさらに二人が寝られるほどのほどの余裕があった。
宿での生活は、控えめに言ってもすばらしかった。風呂は、宿から徒歩三分ほどの露天風呂を、貸し切りのような状態で使い、夕食は部屋の居間に、山菜と川魚の上品な割烹料理が運ばれてくる。
高校生にはもったいない場所だなと、詩乃は我ながら思っていた。
昼は一日目から、皆の立てたスケジュールの通り、九谷焼の美術館に行ったり、山に散策に行ったり、神社や寺を回ったりした。そうして一日歩き通して、歩き疲れた体を、夜、温泉に入ってほぐす、というのが三日目までの流れだった。
三日目も、皆が温泉から戻ってきてからの夕食となった。
居間に運ばれてきた料理を、皆で時間をかけて、色々な話をしながら楽しんだ。詩乃はしゃべるよりも聞き役で、たまに後輩に何かを聞かれて、それに答えるだけだった。後輩たちも、詩乃の無言が、特に不機嫌からくるものではないとわかってきていたので、詩乃を怖がることもなくなっていた。
夕食の後は、食器の片付けられたテーブルを囲んで、皆で、それぞれ一日を振り返りながら、日記を書くことになっていた。これは、文芸部らしいことをちゃんとしよう、という由奈と健治の考えを聞いた神原教諭が、それなら日記を書くなんてどうでしょうと、提案したものだった。神原教諭の提案なので、詩乃も、前向きにこれに取り組んだ。
紙はそれぞれ、持参してきたものに書く。ノートや、作文用紙に、シャーペンやボールペン。詩乃だけは、A4の真っ白いだけのコピー用紙に、柚子から貰った万年筆というスタイル。しかしこれは、パソコンを使っていない時には詩乃はいつもそうしていたので、今更驚く後輩もいない。
書き始めてから暫くして、真っ先に集中力を失ったのは愛理だった。今日のことを思い出すのにスマホで撮った写真を見ていて、そのうち、写真を見ることの方に興味が移行してしまった。一時間もすると、皆も疲れて来て、部員間での会話も増えてくる。詩乃は早々に日記を書き上げていて、それとは別の短編に取り組んでいた。
そんな時、愛理が、スマホを見ながら何気なく言った。
「そう言えば今、ダンス部も合宿してるんですよ」
愛理は、近くにいた由奈にそう言った。友達の一年生がダンス部で、その子から写真が送られてきたと言って、それを皆に見せた。
自分も写真送ろうと思うんですけど、どれがいいですかね。いっそ全部送っちゃおうかな。めっちゃ数あるけど――と、花依や由奈と話をしながら愛理は言った。詩乃は何げなく、愛理がテーブルの上に置いたスマホを見た。愛理のダンス部の友達から送られてきた写真が、ずらりと一覧表示されている。
自然と詩乃の目は、柚子を探していた。
スマホのモニターのただでさえ小さな画面に、いくつもの写真がまた小さく表示されている。遠くからそれを見て、視力の良い詩乃にも、普通なら、その中に柚子がいたとしても、見つけられるはずが無かった。しかし詩乃は、不思議にも、ぱっと写真を見た瞬間、その中の一つに、柚子が写っているのを、ほとんど一瞬のうちに見つけた。
詩乃は立ち上がって、愛理の背後からスマホに顔を近づけて、その写真をよく見た。
「――先輩も気になります?」
「これ、見せて」
愛理は、いいですよと言って、詩乃の示した画像ファイルを指で押し、画面いっぱいにその写真を表示させた。愛理の友人が二人、肉の串を手にピースしている。その左の奥に、やっぱり新見さんが写っていた。でも一人じゃない。男子――しかもあの橘昴と、ベンチで隣あって座っている。ただ座っているだけではない。二人は、恋人のように手を握っているではないか。
心臓が凍り付いてゆく詩乃の気も知らず、愛理は、柚子と昴の決定的瞬間が写真に写り込んでいることに遅れて気が付き、あっと、嬉しそうな声を上げた。
「新見先輩だ! やっぱり橘先輩と付き合ってたんだぁ」
「なんか、スクープ写真みたいだね」
「うん、激写って感じ」
愛理と花依はそう言いあって笑った。
「愛理、ちょっとこの写真、送ってくれる」
「え? 先輩にですか?」
突然詩乃に言われて、愛理は驚いた。どうして水上先輩が――。
「あ、先輩も、実は新見先輩のファンでした!?」
愛理は、詩乃と柚子の関係を知らない。
多くの生徒と同じように、勝手な噂の中で、柚子と付き合っていたという地味な三年生の男子の存在は、無かったことになっていた。その地味な男子生徒が水上詩乃だということなどは、ダンス部の三年生と、柚子に近しい数名しか今や知らなかった。他の生徒は、噂の方を信じている。
「――もっといい写真ありますよ! えっと、ほら、これとか!」
そう言って愛理は、マスゲームのTシャツを着た柚子の写真を画面に出した。愛理との抱き合うようなツーショット。愛理の顔が緊張している。
「ツーショット撮ってくれたんですよねぇ。ホントはあげたくないですけど、いいですよ」
愛理がもったいぶりながら言った。
しかし詩乃は、そうじゃなくて、とイラついたような口調で愛理に言った。
「さっきの写真」
「え、さっきのって、橘先輩との激写ですか?」
詩乃は、唇をへの字にしながら、そうだと頷いた。
愛理は、詩乃の考えがさっぱりわからなかったが、言われて通り、詩乃にその写真を送った。詩乃は送られてきた写真を自分のスマホで見て、じっくりそれを確認した。
間違いなく新見さんと、橘だ。
手も、握りあっている。
詩乃は入縁側の椅子に腰かけ、スマホの画面いっぱいに表示した写真を見つめながら、もう片方の手で額を覆った。詩乃の様子を見て、愛理が聞いた。
「先輩、もしかして……新見先輩の事、好きだったんですか?」
愛理が聞くと、他の皆も、詩乃を見た。
そんな事には興味を示さない振りをしている井塚さえ、顔を上げて詩乃に目線をやった。
詩乃は答えず、暫く黙って写真を見つめた後、スマホを浴衣の袖の中に入れて立ち上がった。そうして、皆には何も言わず、そのまま部屋を出て行ってしまった。
詩乃が出て行ったあと、後輩たちは、互いに顔を見合わせた。
水上先輩は、実は新見先輩のことが好きだったんだと、そういうことになった。あちゃーと、愛理は自分の額をパチンと叩いた。なんで私は、いつも水上先輩の地雷を踏みぬいてしまうのだろうかと、我ながら呆れてしまうのだった。
何となく場の空気が重くなる中、井塚が卑屈な笑みを浮かべた。「は、何笑ってんの、キモいんだけど」と、愛理が井塚の態度に突っかかる。井塚は、愛理の苛立ちを鼻で笑って言った。
「笑ってるだけだから」
「その笑ってんのがキモいって言ってんの」
「お前だって本当は笑ってんだろ」
井塚にそんな事を言われて、愛理は井塚を睨みつけた。
「図星だろ。お前みたいな、スクールカーストの上位にいる奴は。地味でパっとしないキモオタ臭のする文芸部の男子が、カーストトップの女の子を好きとか、笑えるもんな」
ぼそぼそと井塚は言った。
愛理は、しかし井塚を睨みつけたまま、何も言いかえせなかった。花依や由奈が、自分から顔を背けて俯いたのに、愛理は気づいた。
「思ってないし!」
愛理は、ぎりりっと、そう言って奥歯を噛んだ。
井塚は、愛理を追い詰めすぎたことを後悔した。軽く、いつもの調子で、罵詈雑言を浴びせかけてくるものと思っていた。それが、ちょっと泣きそうになっている。
「え、いや、あぁ……」
井塚は口籠ってしまう。
「何なの、カーストとか、トップとか、そんなの菱沼江が勝手に言ってるだけじゃん。なんでそんなことにこだわってんの。勝手にくくるのやめてくれる? 気分悪いんだけど」
「くくってるのお前だろ!」
饒舌に悪口を言いだした愛理に、井塚は安心して反論した。
二人の軽快な口喧嘩が始まり、まぁまぁと、健治が場をおさめようとする。そんな、文芸部のいつもの空気の中で、皆、水上先輩が帰ってきたらどう接するのが良いのだろうと、そのことを考えていた。
部屋を出た後、詩乃はそのまま靴を履いて宿を出た。とても、部屋でじっとしていられる気分ではなかった。詩乃は温泉街の小さな祭りの賑わいや明りから逃れるように歩いてゆき、ちょっとした川に出た。東京とは比べ物にならない、塗りつぶしたような暗闇の中を、詩乃は住宅からの微かに届く明りを頼りにして、川沿いの小道を、川の流れてくる方へと歩いた。
歩きながら、詩乃は、もう自分の中にある気持ちに嘘はつけないことを悟った。
詩乃は、自分は混じりけのない、揺るがない恋愛をしているのだと思っていた。人との比較ではなく、また、相手が自分に向けている気持ちの如何に左右されない、そういう愛を求め、そうでないものは「愛」とは呼べないと思っていた。
しかし詩乃は、薄々気が付いていた。ロマンス小説に出てくるような、そしてまた、歌に歌われるような、見返りを求めない美しい愛を、自分は持ちえないということを。新見さんにどう思われようと、自分は新見さんを愛しているという、そういう愛を理想としながら、実際の所自分は、新見さんの一番になりたいと思っている。だから、新見さんの中で、自分と他の男が比較されて順位付けされているかもしれないと思うだけで、荒れた気持ちになってしまう。
他の男と比較されて二番目や三番目になるくらいだったら、いっそ、順位の外の、比較されない場所に逃げたい。つまり、別れたいと、詩乃は思った。自分だけに向けられていると思っていた表情や仕草が、他の誰かにも、当たり前のように向けられていると思うと、ゾっとして鳥肌が立つ。もし新見さんがそうだったとしたら――。
想像して詩乃は、吐き気を催して、よろよろと、道脇に止めてあった軽トラに寄りかかった。
そんなこと絶対にありえないと思えば思うほどに、吐き気は増してゆくばかりである。新見さんとの思い出のすべてが、ホラー写真のように変貌してゆく気がした。
――どうして、橘と手なんか繋いでたんだ。
しかしその、どうしての答えは、疑問を持った瞬間に出てきていた。
答えの一つは、何かのはずみでそうなった。
そしてもう一つは、新見さんの気持ちがあの男に向いた。
その、どちらかしかない。
そのことがまた、詩乃には恐ろしかった。まるで、赤と青のどちらかの線を切らなければならない時限爆弾を前にしているような気分である。
新見さんは、絶対に裏切ったりしない、そう思う心は青い線を残す。
でも一方で、人間は心変わりをするものだということ、そしてまた、人の内面は結局その人にしかわららないものだという考えは赤い線を残す。
問題は「どうして」ではなく、「どっちなのか」へと行きつく。しかしその答えは、自分にはわからない。心は新見さんを信じている。その信じるの半分は、新見さんの自分に向けてくれた心を嘘だと思いたくないという恐怖の裏返しだ。しかし理性は残酷に、赤い線を支持している。人間そんなものだ、と。