ツノメドリは飛ぶ(3)
「橘君は、好きな子とは仲直りできた?」
「え? ――あぁ、そうだね、うん、いい感じだよ、おかげさまでね」
意味ありげな不敵な笑みを昴は浮かべた。
しかし柚子は、その笑顔の裏を読み取ることはできなかった、笑顔を向けられた柚子は、「良かったね」と、いつものように、誰にでもそうするように、笑顔を昴に返した。
そしてふと、柚子が下を向いた時、透かさず昴は、その手をぎゅっと握り、その手を二人の胸の前に持ち上げた。柚子は驚いて顔を上げた。
「元気出た?」
「え? あ、あぁ、うん」
突然のことに驚いた柚子も、その意図を知ると、また笑った。私の元気が無いから、元気づけようとしてくれているんだなと、柚子は思った。昴はそんな柚子に笑いかけながら言った。
「確かに無防備かもね」
昴は、両手で柚子の手を包み込んだ。
その時だった――。
「あー、悪い!」
バシャ――……と、ドリンクプレートを運んでいた生徒――長江匠が、昴の近くで躓いた。おかげで、プレートに乗っていたコーラやらオレンジジュースやら、使い終わった金串やらがまき散らされた。匠と、そして昴は、Tシャツからズボンから、髪までも、べっとり濡れてしまった。
「悪い悪い――」
そう言いながら匠は、立ち上がった昴をぐしゃぐしゃとタオルで拭いて、それから、濡れたベンチも拭いた。
「あー、新見さん悪いんだけど、拭くもの貰って来てくれる? あと水の入ったバケツもさ」
匠に指示された通り、柚子は慌ててホテルのフロントに走っていった。
「な、大丈夫だよこれくらい。何か貰ってくるなら自分が――」
「いやいいよ、ほら、ピアノ部は手が大事だろうから」
匠はそうして、ベンチを拭いたり、散らばったコップの後片付けをした。
「ふぅ――」
こぼした飲み物やまき散らした串などの後片付けを終えた匠は、自分のもといた丸テーブルの席に戻ってきて、むすっとふてくされたような態度で席に座った。テーブルには、千代と、三年生の男女がもう一人ずついる。匠は、Tシャツもハーフパンツもジュースで濡れたままだった。テーブルに座っていた男子の方――多賀啓は、帰ってきた匠の不機嫌そうな表情に、声を殺して笑った。
「お前超ロックじゃん」
匠とハイタッチを交わしながら、啓が言った。匠の行動には、千代と、もう一人の女子――須田恵も、驚いていた。ちょうど、昴が柚子を狙っているという話をしている時に、昴が柚子の手を握ったので、その瞬間、匠が立ち上がったのだ。長テーブルに置いてあった銀色のプレートを手に持ったかと思うと、つかつかと二人の座るベンチに歩み寄り、、そして、わざと転んで、昴を巻き添えにしてドリンクをぶちまけたのだ。
「いや、俺あいつ好きじゃねーよ」
匠が言った。
昴は着替えをしに部屋に戻っているので、今は中庭にいない。柚子はすでに、後輩に呼ばれて、匠たちの座るテーブルから離れた席にいる。おまけに皆わいわいしているので、匠も、声のトーンを気にしない。
「それ、ずっと言ってるよな」
啓が匠に言った。
「エリートぶりやがって」
「というかお前、新見さんにちょっかい出してんのが気に食わないんだろ?」
「うるせーよ」
友人である啓の指摘に、匠は舌打ちをする。
もう一人の女子、恵も楽しそうに匠に言った。
「え、でもタクちゃん彼女できたんでしょ? なんだっけ、美術部の子だっけ?」
「それとこれとは別だから。というか、なんであいつ、我が物顔でダンス部来てさ、新見さんにちょっかいかけんだよ。マジで意味わかんねーよ」
匠はわかりやすく腹を立てているが、同じ気持ちは、ほとんどのダンス部の三年生が持っていた。柚子は、一年生の夏にはすでにダンス部のアイコン的な存在になっていたので、部内では、人間関係上の余計な争いを避けるため、柚子には告白をしない、という暗黙のルールができていた。柚子の事を好きな部員も実は一人や二人ではなかったが、未だ一度も、ダンス部のメンバーで柚子に告白をした者はいなかった。皆、泣く泣く諦めて、別の恋を探したのである。というよりも、途中で気づくのだ――柚子が、高嶺の花であるということを。実は匠も、一年生の時に柚子に憧れていた一人だった。
「でも結構、お似合いとか言われてるじゃん」
恵が、わざと匠が腹を立てるようなことを言った。
「あいつと新見さんが?」
「そうそう」
「ふざけんなよ」
匠があまりにもはっきり感情を口にするので、他の三人はまた笑ってしまった。
「大体さ、彼氏いる子にアプローチかけるって、どういう了見だよ。――あいつ絶対さ、自分ならいけるとか思ってんだぜ」
匠の悪態は止まるところを知らなかった。
「でもさ、新見さんの彼氏って、前チラっと見たけど、実際パっとしないじゃん。だから橘もさ――」
啓が言ったが、全部聞くつもりはないと、匠は言葉をかぶせた。
「お前さ、今更新見さんが、見た目とか、ピアノ上手いとか、そんなんで選ぶと思うか? 選び放題の中から選んだのか、今の彼氏なんだから、何かあるんだよ」
匠がそう言ったので、千代も透かさず口を挟んだ。
「私もそう思う。水上君って、すごく独特だけど、面白い人だよ」
千代が言うと、恵が、ふーんと相槌を打ちながら言った。
「千代がそう言うならそうなんだろうね。ほら、柚子ってそういうことあんまり話さないからさ、彼氏のこと。千代には話すんでしょ?」
千代は、一瞬答えるのに躊躇した。いつもなら即答するところだが、今の柚子との関係を考えると、とても、「うん」とは言えなかった。
「でもそんなエグい話はしないよ?」
千代はそう言って笑った。
「エグい話って、やめてよ千代。ちょっと聞いてみたいけど」
「あーそれ、俺も聞いてみたい」
恵の言に便乗して啓が言ったので、恵はじとっとした目で啓を見ながら言った。
「はいはい、啓キモいよー」
「は!? だってさ――」
「あ、飲み物持ってくるよ。適当でいい?」
恵はそう言いながら、千代と匠の、空になったコップを手に持った。啓も自分の飲み物がなくなっていたのに気づいて立ち上がった。二人が飲み物を入れに行き、テーブルには千代と匠だけになる。匠は、二人の背中を見届けてから、千代に言った。
「お前、新見さんと喧嘩でもした?」
いきなり図星を突かれ、千代は息を止めた。千代はまだ、昼間のことについては、誰にも言っていなかった。
「え、なんで――」
「やっぱりなー」
「……柚子から聞いたの?」
「いや、聞いてないけどさ」
千代はそう言われて、匠には人の顔色を見てとる繊細な部分があるのを思い出した。千代は、自分の未熟さを指摘されたような気がして、唇を尖らせた。
「喧嘩っていうか、私が一方的に傷つけただけ。私が悪いのよ」
千代の捨て鉢な態度に、匠は眉をひそめた。
「橘のことか?」
千代は匠の問いに頷いて答えた。
「なんだよ水臭いな、困ったことあったら言えよ」
千代は、てっきり非難されるものと思っていたので驚いた。匠は、柚子の肩を持つと思い込んでいたのだ。
「大丈夫だよ、仲直りできるから」
思いがけない匠の言葉に、千代は、思わず泣きそうになってしまった。同じ部活で、ずっと活動も一緒にしてきて、匠のことは知っているつもりだったが、こんなに優しい奴だとは思っていなかった。
「困ったことあったら言え。橘には、俺から言っとくから」
「待って――それはダメ。柚子はたぶん、部がギクシャクするの嫌がると思う」
「うーん……」
それも、確かにそうかと匠は思った。特に今はステージ合宿の最中だ。明日からその大事なステージがあるというのに、ここで仲たがいなんてことになったら、新見さんは責任を感じてしまうだろう。
「わかった。でも、合宿が終わったらいいだろ」
「まぁ、それなら……」
よし、と匠が納得する。
啓と恵が、皆のジュースを注いで帰ってきて、それを飲み干すころには、千代の心も随分軽くなっていた。大丈夫、という言葉は魔法みたいだなと千代は思った。
その夜、千代は二度目の風呂に入った後、寝る前の時間に部屋を出て、ホテルの一階ロビーで、紗枝に電話をかけた。柚子とのことを話そうと思ったのだ。
紗枝は、すぐに電話に出た。
紗枝も、ダンス部が合宿中だということは知っている。千代は、熱海の海や気候についてから話しはじめ、合宿の様子を紗枝に教えた。そうしてその流れで、柚子との話をした。紗枝は、まさかそんなことになっているとは思っていなかった。
『千代が言ったの?』
『うん』
『おぉ……』
『でも完全に嫌われちゃった。はぁ……私も言い方まずかったんだよね。なんであんな言い方しちゃったんだろう。もっとあったのに』
落ち込む千代の声を聞きながら、紗枝の心も小さく痛んでいた。柚子に一言言うとすれば、それは千代ではなく自分の役目だったのに、千代に無理をさせてしまったと、そう感じていた。
『でも、よく言ったね』
『言わなきゃよかったよ……』
『そんなことないって。そのうち柚子の方から謝ってくるから』
『いやぁでも……私がもう謝りたいよ。無防備すぎるとか、そんなの余計なお世話だよね。はぁ、もうホント、罪悪感だよ。嫉妬とか思われてたら嫌だなぁ……』
千代が言うと、紗枝が落ち着いた明るい声で言った。
『大丈夫大丈夫、たぶん、柚子の方がヘコんでるから』
やっぱり紗枝は紗枝だなぁと、千代は思った。そして、紗枝と匠は、なんだか似たところがあるなと、千代は思った。
『どうにもならなかったら、私が取り持つから』
『うん……その時はホントにお願い』
『大丈夫だって』
紗枝は、心配する柚子の声に、笑って応えた。