ツノメドリは飛ぶ(1)
花火大会の日の後、詩乃は、柚子からまた少し距離を置くことにしていた。柚子は、お互いの合宿の前に一度会いたいと思い、一緒に買い物に行こうと提案したが、詩乃はそれを小説の執筆のせいにして断った。執筆の方は実際の所、やたらと調子が良かった。花火大会のその日の夜から、キーボードを仇のように打ち続けて、たった数日のうちに、短編を一つ書き終えそうな勢いだった。押し込めていた苛立ちや怒りが、圧縮された水蒸気が巨大なプロペラを動かす発電機の物理現象のように、それが詩乃の心の中でも起きていた。
そうして、睡眠時間も、曜日や時間の感覚も忘れて、カーテンを閉め切り、冷房を点けっぱなしの部屋で執筆をしていた詩乃は、一万文字の短編をほぼ書き上げた段階で、身体が眠気を思い出し、うとうとと夢とうつつの狭間に意識を漂わせていた。そんな時、スマホが突然しゃっくりのような電子音を立てたので、詩乃はぴくんと目を覚ました。
バッテリー切れを知らせる音だった。
詩乃はスマホを充電し、数分したのち、スマホの電源を入れた。
メールが数件に、着信が三件入っていた。完全マナーモードにしていたので、詩乃はスマホのバッテリーが残っている間でも、メールや電話の着信があった事には、全く気が付かなかった。メールの方は、全部広告だった。着信は、三件とも愛理だった。着信のあった時間と、今の時間を確かめる。七月二十九日、愛理からの一番新しい着信の時間は十三時過ぎ。今の時間は十四時。
何かあったかなと思い、詩乃は愛理に電話をかけた。
「もしもし」
『水上先輩ですか!』
久しぶりの愛理の声だった。やたら明るい、ともすると、うるさい元気な声。
「うん。何かあった?」
『え、先輩こそ何かあったんですか!?』
「え?」
『え……、先輩今日、合宿の打ち合わせって――』
「あ……」
詩乃は思い出した。
明後日から始まる文芸部の合宿、今日はその打ち合わせをすることになっていたのだ。そもそも打ち合わせなんて必要ないだろうと詩乃は思っていたので、今日の予定は完璧に頭から抜け落ちていた。
『忘れてました?』
「ごめん」
『何してるんですかー!』
愛理は、笑いながら言った。電話の奥で、他の部員たちの笑い声も聞こえる。
「まだ、みんないる?」
『いますよ』
「……神原先生も?」
『いますよ!』
「ごめん、今からすぐ行くから。あぁ、先生に代わってもらっていい?」
はい、と愛理は返事をして数秒後、神原教諭が電話に出た。
『もしもし。水上君ですか』
「あ、神原先生。すみません、完全に今日の事忘れてました」
ははははと、神原教諭の穏やかな笑い声が聞こえてきた。特に怒った風もないが、詩乃は、それでいっそう慌てた。
「すみません、急いで向かいます ええと、たぶん、三十分後くらいには!」
『慌てなくていいですよ。事故の無いように』
詩乃は電話を切った後、制服に着替えて、急いで学校に向かった。
久しぶりの外出、久しぶりの日差しを受けながら、自転車を走らせる。家を出た後から、日焼け止めを塗り忘れたとか、汗を拭くタオルを忘れたとか、こまごました色々な忘れ物に気づく。家の鍵はかけたっけかなと、そんなことも心配になってくる。クーラーは消しただろうかということを考えている時に学校に着いた。
駐輪場に自転車を置き、小走りを挟みながらCL棟に向かう。半袖のYシャツは汗でびっしょり濡れて、肌に張り付いている。タオル忘れてきたのは痛いなと思いながら、CL棟昇降口で靴を履き替え、部室に向かう。
「ごめんなさい、お待たせしました」
そう言いながら、詩乃は部室に入った。
汗だくの詩乃の様子を見て、五人の部員と神原教諭は、思わず笑ってしまった。特に後輩たちは、詩乃の慌てた様子を見るのは初めてだったので、そんな新鮮さもあり、余計に面白がった。
部室には、移動式のホワイトボードに、合宿中のスケジュールや、合宿中にやるイベントの候補が箇条書きで書いてある。詩乃は、部室にホワイトボードが置かれたことも知らなかった。詩乃は参加しなかったが、実は二年生の由奈や健治の提案で、夏休み中も部内では読書会や文書作法の勉強会などが開かれていた。ホワイトボードは、勉強会の時の必要にかられて、皆で漫画部から使っていないものを貰ってきたのだった。
詩乃は神原教諭に謝った後、プリンター横のパイプ椅子に座った。
「先輩、汗すごいですよ。タオルないんですか?」
愛理が言った。
「忘れてきた」
ぶふっと、愛理が大袈裟に噴き出す。
「これ使っていいですよ」
と、愛理はスクールバックから細長いスポーツタオルを引っ張り出して、詩乃に投げ渡した。詩乃はそれを咄嗟に受け取った。タオルを掴んだ手も汗で濡れていたので、詩乃はもう愛理の行為を受け取るしかなくなった。女の子のタオルには抵抗があったが、もう仕方がないと諦めて、詩乃は自分の額や首筋に流れる汗を拭いた。そのあと、手を口元に手を持ってゆくいつものくせで、詩乃はタオルごとそうしてしまい、図らずも愛理の柑橘系の匂いを吸い込んでしまい、はっとした。
得体のしれない罪悪感が湧いてくるのを、詩乃は、顔をしかめて隠した。
「合宿中のイベント決めてたんですよ」
ホワイトボードに視線をやった詩乃に、健治が言った。
――花火、山登り、肝試し、九谷焼体験、町観光、食べ歩き、等々……六泊七日を遊び倒そうとする後輩たちの意志がよく反映されたホワイトボードだった。書記は愛理がやっているため、ボードのいたるところに、無意味なハートや星が飛んでいる。
「遊ぶ気満々だな……」
詩乃が言うと、愛理がすぐに反論した。
「遊学ですよ遊学! 小説のために、遊ぶんです!」
詩乃はちらりと、他の分たちを見た。花依は頷いていたが、他の三人は、詩乃から目を逸らせた。
「全く口ばっかり……」
そう言う詩乃の声音は、優しかった。詩乃も、合宿については「やる」ということをのみ決めて、後は今日までその内容については後輩の考えるに任せていた上、しかも今日は遅れてきた手前もあり、皆がこうしたいと言っているものに、今更あーだこーだと難癖をつけるつもりはなかった。
詩乃は神原教諭の表情を確認した。
神原教諭は、いつものように穏やかな微笑を浮かべている。
「遊ぶ代わりに、一人短編一つ、夏休み中に書いてくる、そういうことにしよう」
えーっと、声を上げそうになった愛理は、慌てて、自分で自分の口を塞ぎ、表情を固めて詩乃を見た。詩乃は、子どものいたずらを楽しむ教師のような目で、愛理を見つめ返した。
「まぁ一応、補助費を出してもらって行くことだからね」
詩乃がそう言うと、皆、頷いた。
「先輩は、どっか行きたいとことかありますか?」
健治が詩乃に訊ねた。
詩乃は少し考えた。合宿地の山代温泉――加賀市のことは、詩乃も少しは調べていた。その中で、いくつか、気に入った場所や風景もあった。しかし、皆を巻き込んで行ってみたい、というほどこだわりのある所があるわけでもない。そもそも詩乃は、予定を立てるのは嫌いだった。予定を立てるなら、完璧にその通りにしたい。そうでなければ、行きあたりばったりの方が気が楽だ。
「それだけ行けば、もう充分だよ」
詩乃は、ホワイトボードを見て言った。
詩乃らしい答えに、神原教諭は小さく笑った。
「先生はどっかないんですか、行きたい所」
詩乃は、神原教諭に聞いた。
神原教諭は穏やかな低い声で答えた。
「もう何度も行きましたからねぇ。でも皆さんと一緒に行くのは初めてですから、どこに行っても、初めての経験ですね。どこでも楽しいと思いますよ」
それを聞いて皆、そうだ、きっと楽しいに違いないと、いっそう目を輝かせた。明後日からいよいよ合宿なんだと、神原教諭の言葉に実感がわいてくる。集団での泊り行事なんて全く好きではないと思っていた詩乃は、意外にも、楽しそうだと思っている自分を発見した。
その土地や温泉や、合宿中に開催されるという地元の祭りや、後輩たちが書き連ねたイベントがどう、というより、この土地を離れることができるという解放感だったり、後輩との合宿という新鮮さが、自分の心にべったりとこびりついている嫌な考えや感情を払しょくしてくれそうな気がした。
「先輩、本当に何か希望ないんですか?」
「うん」
愛理の質問に詩乃は頷いた。
合宿を決めたのは先輩なのに、私たちに好き勝手されていいんですか、と愛理なりに気をつかっていたが、詩乃の頓着の無さに、まぁいっかと思いなおし、詩乃に言った。
「じゃあ勝手に決めちゃいますよ」
「行事増やしすぎないでね」
詩乃の発言に、愛理と由奈が笑った。
二人は、今日の詩乃が、夏休み前までよりも何か、やわらかくなったと感じていた。詩乃は意識すらしていなかったが、愛理や由奈ほどではないにしろ、他の部員たちも、詩乃の雰囲気の変化を感じ取っていた。
合宿の打ち合わせが終わったあとは、部員たちはこの日、皆で食事をすることになっていた。詩乃はその場でその食事会に誘われたが、家に帰って書いていた小説を完成させたかったので、それを断った。皆で部室を出て、正門に向かう途中、愛理はこっそり、詩乃に訊ねた。
「先輩、何かあったんですか?」
「何かって?」
「なんか、夏前より雰囲気が、丸くなったなぁと思って」
詩乃はそう言われて驚いた。
「――彼女できたとか、だったり?」
イタズラ半分、怖いもの見たさの好奇心半分で愛理は詩乃に聞いた。
詩乃は少し考えてから、口を開いた。
「愛理は、彼氏いるんだよね?」
「え、まぁ、はい……一つ上の、他校生ですけど」
説教されるのかと思い、愛理は緊張した。
「その、彼氏さんはさ……嫉妬したりしない?」
「へ?」
「自分以外の男と話したり、合宿行ったりさ、言われたことない?」
「えっと、いや、全然そう言うのは、無いですね」
そっか、と詩乃は頷いたまま、黙り込んでしまった。
やっぱり自分が子供なんだろうなぁと、詩乃は心の中でため息をついた。
「急にどうしたんですか、先輩。え、本当に彼女、できたんですか!?」
詩乃は答える代わりに、答える必要はないだろうという意思を乗せて愛理に一瞥を投げた。愛理は、ギクっとして、「すみません」と言って唇を結んだ。そんな、柚子とは違う方角で子供っぽい態度を見せる愛理を見て、詩乃は微笑を浮かべた。
「――タオル、洗って返すよ」
「え? あ、いいですよ、全然! 気にしないでください!」
「合宿に持っていくよ、忘れなければ」
「大丈夫ですよ、そんな――」
「あと、遅れて悪かったね。色々、助かったよ」
詩乃は愛理にそう伝え、正門の所で皆と別れた。
愛理は、詩乃の新しい一面を見て、なんとも言えない気持ちを心に抱くのだった。