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星の海で遊ばせて  作者: ノマズ
3,孤独な言葉のために
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黒塗りのビー玉/覗き込む雛(6)

 花火大会のクライマックスは、何十発、何百発という色も大きさも様々な花火が乱れ打ちにされ、夜空はその間中、昼間のように明るくなった。最後の花火は特大の大きさで、その花びらは、虹色に変化しながら、やがて、夜の中に静かに溶け込んでいった。


 見物客たちがぞろぞろと帰り始める中、柚子は、動かない詩乃に寄り添って、じっとしていた。詩乃が何か、言う言葉を探しているのが、柚子にはその気配からわかった。水上君は、何か大事なことを言う時には、その前に、独特な沈黙がある。柚子はそのことをよく知っていた。


 やがて、詩乃は口を開いた。


「新見さんも、来週はもう合宿だよね」


「うん」


 柚子はじっと詩乃の顔を見つめた。


 詩乃は、まだ微かに白い煙の残る空を見上げた。


「新見さん……」


 詩乃はそう言って、心に浮かんだ言葉を言おうかどうか考えた。


 ――新見さんがそうしようというなら、橘君を選んでいいよと、詩乃の中にはその言葉があった。自分との関係のことをあの男に相談するくらいなら、付き合うのは、自分ではなくあいつでいいじゃないか、と。


「どうしたの……?」


 柚子は、黙り込んだ詩乃の顔を覗き込みながら言った。


「……なんでもない」


「なんでもあるよ! どうしたの、教ええてよ。私ちゃんと聞くから」


 柚子は、詩乃に詰め寄った。


 それでも黙る詩乃に、「ねぇ」と、柚子はさらに背伸びをして、顔を近づけた。


 詩乃はあとずさり、柚子に背を向けた。


「ダメ」


 柚子は、逃がすまいと詩乃の腕を掴んだまま、再び詩乃の傍らに体を寄せた。


 詩乃はそれでもしばらくは黙っていたが、柚子は詩乃の前に回り込み、じいっと詩乃を見上げながら見つめて、ついに詩乃も逃げられないことを悟り、口を開いた。


「自分には幸せが似合わない気がするんだよ」


 詩乃の言葉を、柚子はじっくり受け止めて、それから訊ねた。


「どうしてそう思うの?」


「――ちょっと座ろう」


 詩乃は柚子にそう言うと、近くのベンチに腰を下ろした。柚子も詩乃の隣に、寄り添って座る。

「白状するとね、新見さん……自分は、橘君には何一つ勝てないと思う」


「え――」


「新見さんと橘君は、同じ世界にいる気がするんだ。新見さんの笑顔が一番似合うような、日の当たる空間にいるというか……でも自分はそうじゃない。新見さんと自分は、住む世界が違うと思う」


 静かに語る詩乃の声に、柚子は安心と不安の両方を同時に感じた。偽りのない本心を語ってくれているという安心感と、そしてその内容の冷たさ。しかし柚子は、話の内容そのものよりも、その言葉を絞り出す詩乃の気持ちに胸が痛んだ。水上君の心の秘密に踏み込みたいなんて思っていたけれど、水上君は、こんなに辛そうにしている。傷口を無理やり開いて心臓を覗き込む様な、そんなひどいことを、自分はしてしまっているのではないかと、柚子は思った。


「辛いんだ、新見さんに優しくされると。新見さんの可愛い笑顔を見てると、本当に、辛いんだよ。抱きしめられたり、触られたり、新見さんのあったかい身体に触れると、新見さんを穢してしまってるみたいで、辛いんだ」


 柚子は詩乃の手をぎゅっと握って、首を振った。


「自分は、二人で幸せになろうなんて、とても言えないよ。新見さんを傷つけることしかできないと思う。こんな男早く捨てた方がいいよ。ダメだよ……」


 そう言いながら落ち込む詩乃に、柚子はたまらずに、抱き着いた。


「――もういいよ、大丈夫だよ、ごめんね」


 柚子は、詩乃の胸に顔をうずめながら、そう言った。


 詩乃は、柚子の頭に軽く触れた。


 詩乃の手が震えているのを、柚子は感じた。


 詩乃は目を閉じて、柚子の頭を抱えるように首を垂れた。


 柚子の温かさに溺れてしまいそうになる自分を感じ、詩乃は恐怖していた。こんなに優しくされたら、どこまでも依存してしまいそうな気持になってくる。


「新見さん――熱海の発表も、きっと上手くいくよ。今日、本当にすごく良かったから」


「うん」


 と、柚子は詩乃に抱き着いたまま、小さく頷いた。


「愛理のことは――あれはね、初対面で失礼な奴だったから、こっちも失礼にしてやろうと思って、それで呼び捨てにしただけだよ。それが定着しただけ」


 柚子は顔を上げて詩乃を見つめた。


「新見さんは特別だよ。たぶん自分にとっては、一生」


 柚子を見つめたまま、詩乃は言った。


「でも、新見さんがそう思う必要はないんだよ。今日の花火も、だんだんと、思い出の一つになっていくんだから。高校生の時、付き合ってた彼氏と花火を見たなって、将来懐かしくそれを思い出すんだよ。そんなもんだよ」


 柚子はそれを聞いて、泣きそうになってしまった。


 特別と言われたことへの嬉しい気持ちと、詩乃の達観したような寂しい考え方の両方が、柚子の心を揺さぶった。


「水上君は、だから花火を見てるとき、悲しそうだったの?」


 かすれた声で柚子は詩乃に訊ねた。


「桜のことを考えてた」


「桜?」


「同じ消えるのでも、あんな風に派手で綺麗に爆発できれば、後悔はないと思うんだ。でも桜は、生々しいよね。音もなくて、いつの間にか散ってる」


 柚子はそれを聞いて怖くなった。


 水上君も、桜と同じように、散っていってしまうのではないかと、柚子は不意にそんなことを思った。そう思うと、柚子の背中は冷たくなった。


 水上君は、桜のように、どの風で散るかを待っているのかもしれない。


 でもそんなのは嫌だと柚子は思った。


「私と詩乃君は、そうじゃないよ」


「詩乃君?」


「うん、詩乃君」


 詩乃は、柚子の瞳の強さに息を呑んだ。


「甘ったるいよ」


 詩乃は恥ずかしさを誤魔化す様に言った。


「詩乃君って呼ばれることある?」


「無い」


「呼ばれたことは」


「無いよ」


「無いの!?」


 柚子は、思わず大きな声を上げてしまった。


「じゃあ、私が初めて?」


「うん、新見さんがそう呼び始めれば」


 柚子は、すうっと息を吸った。


「詩乃君って、呼んでいい?」


 詩乃は、むつかしい顔をした。しかし柚子は、今そうしないと、ずっと後悔するような気がした。

「じゃあ、二人でいる時だけ! それだったらいい?」


「うーん、まぁ、それだったら」


 柚子は、くすぐったそうな笑みを浮かべ、それからぽつりと、何の脈略もなく、「詩乃君」と、口に出して呼んだ。呼ばれても特別何の反応も示さない詩乃の肩に、柚子は身体を寄せて、体重を預けた。


「私は、ずっと詩乃君のそばにいたいよ」


 詩乃はそれを聞くと、笑いながら首を振った。


「なんで笑うの!?」


「たぶんそれは錯覚だよ。ずっとなんて、あるわけがないんだから」


「ううん、ある!」


 柚子は意地になって言った。


 詩乃は首を振った。


「でも、詩乃君は一生って――」


「新見さん、自分と新見さんは違うんだよ。考えてごらん、モグラが、掘ってる穴の中で、たたまた、穴に落っこちてきた鳥を見たとしてさ、そのモグラは、一生その思い出を忘れないと思わない? ミミズやカエルのことは覚えてなくても、たぶんそのモグラは、一生その鳥のことを、鮮明に覚えてるよ。だけど新見さんはモグラじゃないでしょ。飛んでる最中、たまたま、何かの拍子に、穴から顔を出したモグラの頭を見つけたようなもんだよ。珍しいからちょっと降りて、そのモグラを観察してる。鳥の知らない世界のことをモグラは知ってるから、それでちょっと、鳥の方は興味を引かれてる。でも鳥は、やっぱり鳥だから、穴の中には入らないよ。モグラと鳥の別れはさ、先にモグラが地中に戻るか、鳥が空に戻るが、どっちが先かだけの話なんだよ」


 柚子は、詩乃の胸に額を押し付けたまま、首を振った。


「詩乃君モグラじゃないもん」


 詩乃は弱弱しく笑った。


「私鳥だったとしても、詩乃君モグラの穴見つけたら、ずっともぐってくよ。で、洞穴の家に入れてもらうの」


 にこりと、うるんだ眼に笑顔を見せる柚子。


 仕草も声も、言葉の内容も、新見さんはどうしてこんなに可愛いのだろうと、詩乃は困惑してしまった。モグラがどうのとか言う、自分の下手なたとえ話に、無邪気に入ってきてくれる。どうしてこんなに突き放しているのに、くじけないのだろうか。泣きそうになりながらも、自分なんかに、どうしてそこまで尽くしてくれるのだろう。


 自分が人に誇れるのは、ちょっと作文ができるということくらいで、あとは、自慢できるようなものなんて何一つない。しかもその、ものを書くということについてだって、橘のピアノの実績には到底及ぶものではない。新見さんをつなぎ止めているのが、自分の中にある何かだと思いたいけれど、その何かが自分にあるとは思えない。


 どうして彼ではなくて自分なんだ。自分に何があるんだ――詩乃は、心の中で叫んだ。


 詩乃が黙り込んでしまったので、柚子はまた、その胸に額を当てた。


 また頭、撫でてほしいなと柚子は期待したが、詩乃は今度は、両腕をたらんと垂らして、柚子に触れるのを避けた。綺麗な黒髪、ほんのり甘い香り、微かにはだけて見えそうな胸元。


 詩乃は柚子から目を逸らせた。


 新見さんを抱き止めること、その背中や頭を撫でることはできる。身体をそう動かすことは容易い。でもそれは嘘だと、詩乃は思った。自分には新見さんを受け止めるだけの度量が無い。それなのに、さも受け止めた風を装って新見さんを抱いたり、撫でたりするのは、新見さんに対する裏切りだ。新見さんには、やっぱり嘘をつきたくない。


 柚子は、いつまで待っても詩乃の手が自分に触れないので、不安になって、詩乃の顔を再び見上げた。


「――帰ろう。送ってくよ」


 詩乃はそう言うと、柚子を自分の体から優しく引き離して、立ち上がった。


「え、まだ……」


 柚子は、慌てて詩乃の後を追った。


 詩乃は、これ以上新見さんと話していたら、自分の中の、あの猛烈な醜い感情が現れ出てしまうと思った。


 ――あの男の方が信頼できるなら、そっちに行けばいいじゃないか。今日の楽しそうな笑顔が、自分への同情からなら。今日は一言もあいつの名前を出さないのは、自分に隠している感情があるからじゃないのか。


 しかし詩乃は、そんな心の中に燃える苛烈な感情を、絶対に柚子に見せたくなかった。それは男として情けないことだ。そんな醜い感情を出すなんて、そこまでの醜態は晒したくない。それに、新見さんは今、夏のステージ合宿の前だ。新見さんを動揺させるようなことは言うべきではない。それは、癪だけど、あいつの言うとおりだ。今ここで自分が何か言って、新見さんと橘の関係がギクシャクしたら、ステージに影響してしまうかもしれない。そんな、新見さんの頑張りをぶち壊すようなこと、絶対にしたくない。


「詩乃君、明日早いの?」


 駅に向かう詩乃について歩きながら、柚子は詩乃に訊ねた。


 詩乃はゆっくり呼吸をして、冷静さを何とか保ちながら答えた。


「予定なんてないよ」


「じゃあ……」


 もう少し一緒にいようよ、と柚子は目で訴えた。


 詩乃は、柚子のその無言の訴えに気づかない振りをして歩き続けた。


 柚子は、詩乃の態度の理由がわからず、混乱していた。ちゃんと話ができたはずだったのに、呼び方も、受け入れてくれたのに、どうして水上君――詩乃君は、こんな冷たい態度を取るのだろう。私がどうしたいか、詩乃君ならわかっているはずなのに。それなのに、駅に向かって歩いて行ってしまう。どうしてそんなに、急いで帰ろうとするの。


「私明日、練習午後からだよ」


「明日も練習あるの?」


「あるけど、午後からだから――」


「大変だね」


 ――そうじゃなくて、と柚子は詩乃の背中に突進した。こつんこつんと背中に頭をぶつけてくる柚子に、詩乃は思わず、頬が緩んでしまいそうになる。詩乃は、きゅっと唇を結んだ。


 花火大会後の帰宅のピーク時間は過ぎていたが、それでも、駅までの道や、駅の前には、まだ人が多く残っていた。すでに家族ずれの姿は少なく、ヤンチャそうな若者が多い。柚子は自然と、そういった若者の視線を集めてしまうので、詩乃は気が気ではなかった。


「ねぇ、もう少し――」


「ダメ」


 詩乃は、柚子の手を掴むと、ぐいっと引っ張って、改札口の前まで、有無を言わさず連れて行った。柚子は、詩乃の態度の理由をあれこれ考えていたが、思考も感情も、詩乃に手を握られた瞬間、引っ張られた瞬間、心臓の高鳴りとともにどこかへ飛んで行ってしまった。


「じゃあ新見さん、今日はまっすぐ帰るんだよ」


 詩乃にそう言われて、柚子はただこくりと頷くことしかできなくなっていた。


 詩乃君の彼女なんだ、という実感が、右の手首から全身に広がって、飛んでいるような気分になっていた。


「――ほら、電車来るから」


 詩乃にそう言われ、柚子は改札機を通った。


 人混みの中に消えてゆく柚子を見送った後、詩乃も駅近くの駐輪場に向かった。歩きながら、柚子のいない寂しさと、柚子にひどい言葉を言わなくて済む安心感と、詩乃はその二つの感情を同時に覚えていた。


 自転車に乗り、帰路に就く。蒸し暑さを感じながら、詩乃はゆっくりと自転車をこいだ。

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