黒塗りのビー玉/覗き込む雛(5)
昴は、詩乃を見つけると、笑いかけた。頬は笑っているが、詩乃は、彼の目が笑っていないのを見て、新見さんの事だろうと直感した。
「水上君だね」
昴の呼びかけに、詩乃は、「うん」とだけ答えた。
二人は、直接お互いがそれと分かる形で顔を合わせるのは、これが初めてだった。当然、言葉も交わしたことはない。しかし詩乃も昴も、いつかこうして、一対一で話すときが来るだろうと、とっくに承知していた。
「今日は、見に来てくれたんだ」
昴は、笑顔のままに詩乃に言った。
詩乃は昴の目を睨むように見た。昴は笑顔を少し引っ込めて、詩乃の視線を受け止めた。詩乃は昴の表情に、楽しくおしゃべりをしに来たわけじゃない、という強い意志を感じた。それでいて物腰は落ち着いている。詩乃はそこに、昴の大人っぽさを感じた。この男には勝てないと、本能的にそんな敗北感を覚える。
詩乃は腕を組み、「まぁ」とだけ応えた。
昴は苦笑いを浮かべ、視線を舞台へと外した。詩乃も、昴に釣られてステージを見る。次の発表のために、椅子やシンバルが、舞台袖から運び込まれている。
「この後は、新見さんと?」
舞台を眺めながらそう言った昴を、詩乃は、ちらりと見やった。
「どうしてそんなこと」
「あの子を泣かせたそうじゃないか」
昴はそう言いながら、再び、詩乃を横目で見つめた。
詩乃は、昴から視線を外した。
なぜそのことを、よりにもよってこの男子が知っているのか――詩乃は動揺を隠すため、唇を結んだ。
「余計なお世話だと思っているんだろうけどね、新見さんは、君だけのものじゃない」
昴は、冷ややかな声音でそう言った。
詩乃は言い返そうと思ったが、言葉が出てこなかった。
自分と新見さんの仲にあったことを、この男は知っている。それは、詩乃にとっては恐怖でしかなかった。新見さんが話したのだろうか。どこまで、何を知っているのだろうか。しかし詩乃は、全てを握られているような気がした。
「僕は新見さんの友達だから、君のことは色々聞いてるよ」
詩乃は腕組みする両手の拳を固く握りしめた。
「新見さんにとっても、新見さんのダンス部にとっても大事なこの時期に、あの子を動揺させるなんて、君は一体何を考えているのか――はっきり言って、僕にわからないよ」
昴の言葉は、ぐさりと、詩乃の心に突き刺さった。
「彼氏って言うのは、彼女が大変な時に、支えるのが役目じゃないのか」
詩乃は、言われるがまま沈黙する。
昴は、詩乃の様子をしっかり確認しながら言葉をつづけた。
「君の事情は知らないけどね、たぶん僕は、君よりも新見さんのことを理解していると思うよ。――君は、新見さんがダンス部でどんなに頑張っているか、このステージのためにどれだけ練習しているか、知らないだろう?」
詩乃は口を開いて、辛うじて言い返した。
「自分勝手な価値観を押し付けるなよ。結局、何が言いたいんだよ」
昴は、詩乃を睨みつけた。
その顔には、もう最初の笑みは微塵も残っていない。
昴は、はっきりと詩乃に言った。
「新見さんの優しさに甘えてるなら、迷惑だから別れるべきだ」
そう言われて、詩乃も、敵意むき出しの視線で昴を睨んだ。
「――よく考えた方がいい。新見さんは、君といて幸せになれるのか? 僕から見ると、君は、あの子に相応しくない」
昴はそう言って、最後にじっと詩乃を見据え、そうして、人混みの中に消えていった。
詩乃は、もうステージ発表を観る気にはなれず、公園を離れた。
日が落ちはじめた頃、詩乃と柚子は、ダンス部の発表があった公園から徒歩数分ほどの神社で落ち合うことになっていた。昨年も、二人で訪れた神社である。詩乃は公園を出た後、人混みの中をぶらついて、待ち合わせの時間よりずいぶん早く、神社にやってきていた。
詩乃は境内のベンチに座り、昴に言われたことを考えていた。
昴の物言いは一方的だった。ふざけるなと思った。しかしどうにも、他人の戯言と捨て置くことはできなかった。昴の言っていたことは、事実なのかもしれない。だから自分は、まともに言い返すことができなかった。自分は、あの男の考えに、納得してしまったのだ。詩乃は、自分の男としての欠点を白日の下にさらされたような気分だった。
やがて、浴衣姿の柚子がやってきた。
白地に紫の花びらの模様の浴衣。淡い青紫の帯。桜のような髪飾りで、髪を後ろで一つにまとめ上げている。赤い小さなかご型きんちゃく袋を片手に持ち、鳥居をくぐってきょろきょろと、境内に詩乃の姿を探した。
「あっ……」
柚子は、詩乃を見つけて小さい声を上げた。ベンチの隅っこに座り、頬杖を突き、目を閉じて考えに耽っている。七分丈のハーフパンツに半袖の薄い白ニットシャツという装い。
柚子は、カラ、カランと、下駄の小気味よい音を響かせて詩乃のもとに歩み寄った。
詩乃は、下駄の音に目を開けた。
目の前に柚子がいて、詩乃は驚いてしまった。柚子の浴衣姿に、詩乃は思わず見とれて、固まってしまう。
「あ、はは、おはよう」
柚子の第一声で、詩乃は現実に引き戻された。柚子は笑顔だったが、その笑顔が、無理をして作っているものであるのを、詩乃はすぐに見て取った。
詩乃は立ちあがり、「うん」と挨拶代わりに頷いた。
「なんか、久しぶりだね」
柚子はそう言って、詩乃を観察した。
柚子は、まだ詩乃が自分のことを許していないのではないかと、そんな不安も抱いていた。そしてまた、愛理を呼び捨てにしていることについても、実のところ、やはりまだ気になっていた。しかし一番気がかりなのは、詩乃が何か悩みを持っていて、それを隠して辛そうにしていることだった。あの電話の後も、柚子は詩乃と何度か電話もしていたが、柚子は、詩乃の喉の奥に何かがつかえているのを感じていた。
「――ダンス、すごく良かったよ」
「ホント!?」
「うん」
詩乃に褒められて、柚子は詩乃に抱き着きたい衝動にかられた。でも、それがいけないのだと、柚子はその気持ちを抑え込んだ。いつも自分ばっかり水上君に甘えて、だから水上君は、私に悩みを打ち明けられないのではないか――柚子はそう考えた。
詩乃は、ぎこちない柚子の様子に、心が痛んだ。柚子に気を使わせてしまっていると思ったのだ。詩乃はそれを自覚すると、昴に言われた言葉がより一層深く心に突き刺さった。
二人は境内を出て、花火が始まるまで屋台を回ることにした。あんず飴にイカ焼き、かき氷、焼きトウモロコシのタレの焼ける匂いに柚子は空腹を覚え、腹をさすった。
「発表の後、何も食べてないの?」
「う、うん……」
恥じらいながら答える柚子に、詩乃は、近くにあった屋台でイカ飯を買い、それを柚子に与えた。赤茶色のタレにテカテカ光るでっぷりした烏賊の中に、麦色のもち米が、ぎっしりと詰まっている。
「食べなよ」
「ありがとう! 一緒に食べようよ」
そう言って、柚子は早速、イカ飯の輪の一つを口に運んだ。柚子の口には大きいそれを、柚子は食欲の求めるがままに頬張った。頬を膨らませて、ハムスターのようになった柚子を見て、詩乃は思わず笑ってしまった。柚子も、照れ笑いを浮かべながら、もぐもぐと、イカともち米を噛んだ。
柚子の笑顔を見ていると、詩乃の中に、猛烈な支配欲、独占欲が沸き起こってきた。新見さんが、自分以外の男にこの笑顔を見せていると思うと、それを考えるだけで、気持ちが獰猛になってくる。祭囃子の太鼓と笛と鐘の音が、詩乃の気分に拍車をかける。
どうしてあいつに自分のことを話したんだ、と。しかし詩乃は、自分の中の敵意が柚子にまで向いたその瞬間、昴に言われた言葉を思い出し、一気に冷静になった。
――彼氏って言うのは、彼女が大変な時に、支えるのが役目じゃないのか。
ぐぅの根も出ないくらい、正しい考え方だと、詩乃は思った。現に新見さんは、自分が一番つらい時に、近くにいて、励ましてくれた。だから自分は、新見さんのことが大好きで、こんな子は生涯いないだろう、と思っているのだ。自分の親だって、そこまではしないというのに。
一旦冷静になると、詩乃は、自分はなんて醜いんだ、自分勝手なんだと、落ち込んでいった。やっぱり自分は、あの男――橘には勝てないと思った。
たこ焼き、かき氷と食べ歩きながら、詩乃の表情は徐々に暗くなって、沈黙が多くなっていった。いつも話している時でも、黙って考える時間の多い詩乃だが、その沈黙の種類は一つではないのを、柚子は知っていた。そして今日の沈黙は、良い沈黙ではないのが、柚子にはわかった。
日もすっかり落ちて、花火の上がる時間が近づき、二人は神社に戻った。
程なく、最初の花火が打ちあがった。
二発目、三発目――そのあとは、続けて、どんどん打ちあがった。
夜空に光の花が咲く。
柚子は、花火を見ながら、しかし実は、花火よりも詩乃の様子を見ていた。腹に響く花火の音。炸裂し、ぶわっと広がり煌めく満開の大輪。しかしそれを見つめる詩乃の目、表情は、花火の消えてゆく様をのみ見つめているようだった。
花火はこんなに綺麗ですごいのに、水上君はどうして悲しそうなの――柚子は、詩乃の目でこの花火を見てみたいと思った。同じ花火を見ているのに、隣にいるのに、自分と水上君は全く違うものを見ている。
『ねぇ水上君、花火綺麗だよ。すごいよ。それなのに、どうしたの。何か悩んでるなら言ってよ。私知りたいんだよ』
柚子の心の声は、詩乃には届かない。
詩乃はただ、花火を見つめる。
柚子は、詩乃の腕に手を回し、身体をくっつけた。
「綺麗だね」
柚子は、詩乃に耳打ちするように言った。
「うん」
と、詩乃は応えた。
柚子は、いっそう強く、詩乃の腕を抱きしめた。そうしないと、詩乃も、消えていってしまうような気がした。