黒塗りのビー玉/覗き込む雛(3)
『……水上君、この間の事』
『あぁ……』
やっぱりその話なのかと、詩乃はぎゅっと目を瞑った。
本当は、今すぐにでも、あの時は馬鹿なことを――怒鳴ったりしてごめんと、謝りたかった。あんな、自分が勝手に持っている嫉妬心の一部をぶつけてしまうなんて。でも、言ってしまったものは取り返しがつかない。今謝ったところで、言ったことは言ったのだから、その結果は、甘んじて受けなければならない。だから、謝って、許してもらおうなんて都合の良いことは到底できないと詩乃は考えていた。
しかし詩乃には、柚子に対するその懺悔の気持ちとは別に、柚子に対して、一種の不信感をまだ持っていた。それは、昴に対して柚子が抱いているかもしれない愛情の可能性についての不信感ではない。昴との関係について、柚子が自分に嘘をついた、何か誤魔化そうとした、そのことが詩乃の心に強く引っかかっていた。隠そうとしたのが彼に対する恋心なのか、彼氏以外の男と仲良くしている事への罪悪感なのか、あるいはまた別の、自分に対する何かの負い目なのか、それはわからない。でもそれが何だったとしても、新見さんは誤魔化そうとしたのだ。自分を、言葉で。誤魔化すくらいだったら、隠さずに言ってほしかった。それで傷ついた方が、嘘をつかれるよりも百倍はマシだと、詩乃は思っていた。
『三島さんの事、勝手に色々言って、ごめんね』
『いや、いいよ』
『ごめん』
『うん』
『あと、橘君の事、本当に何もないよ』
『うん……』
『私が好きなのは、水上君だけだから』
詩乃はそう言われて、考え込んでしまった。言葉の真偽はわからない。でも新見さんの言葉には、今は、偽りの響きはない。でもそれは、自分が都合よくそう思い込もうとしているからそう感じているだけなのかもしれない。
よく考えれば、大体どうして新見さんが、自分にそこまでこだわるのだろうか。自分にとっては、新見さんは自分に歩み寄ってくれて、自分に興味を持ってくれたり、励ましたりしてくれる唯一の存在だ。だけど自分は、新見さんほどに、新見さんのために色々できていない。そんな自分を、どうして新見さんは、特別だと思ってくれているのだろう。
――あの、橘という男の方が、よっぽど特別ではないのだろうか。
そんなことを考えて詩乃は黙ってしまった。
『水上君?』
『あぁ、うん……』
『怒ってる?』
『怒ってないよ』
詩乃は額を覆い、こめかみを指で掻いた。こうしていつも、新見さんを不安にさせてしまう。この間も、随分怖がらせてしまった。
そうして詩乃の脳裏によぎるのは、父のことだった。
母を裏切り続けた父。そうはなるまいと思ってきたのに、結局自分も今、自分勝手に、新見さんを傷つけている。
まだ付き合ってもいない時にさえ、新見さんは、わざわざ自分の家まで連日足を運んで、看病してくれた。彼氏として情けない姿を見せても、失望の色を見せず、いつも笑顔を向けてくれる。新見さんだって人間なんだから、嫌なことだって――自分の欠点だって見えているはずなのに。そこまでしてもらっているというのに、自分は今、新見さんの心を、信用しきれていない。本当に自分は、なんて自分勝手で薄情な人間なのだろう。どんなに逃げても、自分はやっぱり、父と同じような人でなしなのかもしれない。
『――水上君?』
『あ、うん……ごめん』
電話越しに柚子は、詩乃が何を思っているのかを考えた。同じ黙り込むのでも、今日の沈黙は重い。やっぱりまだ怒っているのだろうか。でも、それとも少し違う気がする。落ち込んでいるような、そんな気配がある。
『何かあった?』
柚子の温かい声が、詩乃には辛かった。
新見さんの声を聞くと、もういっそ、悩んでいる事の全てを、洗いざらいさらけ出してしまおうか、という気になってくる。でも、それを言われても、新見さんは困るだけだろう。また、温かい言葉で慰めてくれるのは、目に見えている。そうして悩みを打ち明けられた方は、その悩みから受けた傷を誰にも打ち明けられないまま、心に隠すしかない。新見さんにそんな思いは、やっぱりさせたくない。
『……大丈夫』
詩乃は答えた。
それからは夏の予定などをお互い話し合って、詩乃の方から電話を切った。
柚子は通話の切れたスマホを膝の上に置いて、両手で軽く握った。
謝ることはできた。
でも電話をする前のとはまた別のもやもやが、心に現れた。
大丈夫――と水上君は言っていた。でもあの大丈夫は、大丈夫じゃなさそうだった。だけど水上君は、そのことを打ち明けてくれない。水上君の、時折見せるあの寂しそうな瞳のわけ。たまに見せる、思いつめたような表情。それに、今日の声。でも、その秘密を前にすると、私はいつも怖がって、もう一歩を踏み出せない。さっきも、もう一歩、もう一言、『話して』と言えばよかったのに。
柚子は自分の臆病さを恥じて、一人静かに涙を流した。
隅田川の花火大会もいよいよ週末に迫ってきた、七月四週目の火曜日。ダンス部の練習はいよいよ大詰めとなっていた。体育館のステージを貸し切ってのリハーサル。本番で登壇する全員が集まり、本番の衣装も着用して踊った。舞台にはダンス部とジャズ研、舞台の下にはダンス部顧問の阿佐教諭とサングラスの外部指導員ジョルジ、その他に、ファッション部の三年生と、たまたま学校に来ていた生徒が見物客となった。
本番のように四グループが一曲ごとにバトンタッチして通しで踊り、細かい修正をして二回目、また改善をして三回目と、本番三回分を全員が踊り切った。練習は残す所木曜日の一回で、本番は土曜日。とにかく後は体調管理だからと、三年生は後輩たちにそう言って、解散となった。
先に全員舞台用の衣装を脱いでファッション部の生徒にあずけ、着替え終わった部員から、モップがけをしたり、スピーカーやパイプ椅子を片付けたりと、撤収作業を始める。片付けが終わると、ダンス部の部員たちは、リハーサルが上手くいったこともあり、それぞれ仲の良い友達同士で集まって、食事やカラオケに繰り出すのだった。
柚子はと言うと、足が痛そうな一年生の女の子がいたので、その子を体育棟の下駄箱の所で呼び止め、階段に座らせると、テーピングの仕方をレクチャーしていた。その女子生徒と、彼女の友達の後輩二人は、終始顔を赤らめて、最後はしっかりテーピングの仕方も覚え、柚子にお礼を言って体育棟を後にした。
「柚子、いつの間にテーピングなんて覚えたの?」
途中からやってきた千代は、感心しながら、柚子が後輩にテーピングを教える様子を見ていた。
「最近だよ。まだあんまり上手くないんだけど」
「いや、流石だよ。こりゃまた、柚子ファン増えちゃうね」
「何それ」
柚子は笑いながら言った。
「ちーちゃん、この後みっくんと?」
「そうそう。アイス食べてくる」
「いいねぇ」
千代は下駄箱から靴を取って、昇降口の土間に靴を置いた。靴を履きながら、千代は。何気なく柚子に言った。
「あのさ、柚子」
「うん?」
「――本番、頑張ろうね」
「うん」
千代は昇降口を出る時、一度振り返り、じっと柚子を見つめた。なんだろう、と柚子は不思議に思ったが、千代は何も言わず、最後は、じゃあねと手を振って、行ってしまった。
「さてと――」
と、柚子も、帰ろうかなと立ち上がった。
そこへ、二階から昴が当たり前のように降りてきた。手にはペットボトルが二つ。レモンティーとアップルティー。
「お疲れ様」
「――あ、橘君。あれ、まだ片付けるのあった?」
「いや、もう終わったよ」
にこりと、昴は柚子に笑顔を向ける。
そして、冷たいペットボトルを柚子の前に差し出した。
「どっちが好き?」
「え?」
「いいから」
「えーっと、こっちかな」
柚子はレモンティーを指さした。昴は柚子にレモンティーのペットボトルを差し出した。
「え、くれるの?」
「うん。――いやちょっと、実はね、例の、片想い中の子のことで、是非新見さんの意見が聞きたいと思って」
「あ、そうなんだ」
「これはその手付金」
柚子は、昴の言葉に思わず笑みを浮かべ、ペットボトルを受け取った。
「新見さん、この後時間は?」
「大丈夫だよ」
昴は柚子の隣に腰を下ろした。
昴は、本題に入る前に、さっきまでのリハーサルのことや、曲についてのあれこれを語り、柚子を楽しませた。そしてまた、驚いたり、笑ったり、ころころと表情が変わる柚子の反応も、昴を存分に喜ばせた。二人のペットボトルが汗を流し始めた頃、いよいよ昴が切り出した。
「――この間、ちょっと喧嘩をしちゃってね」
「その、好きな子と?」
「そうなんだ。それで、どうしたら仲直りできるかと思って」
喧嘩と仲直り――柚子は、昴の話を身近に感じて、深々と頷いた。
「あるよね」
「新見さんも?」
「う、うん……つい最近も……」
昴は一瞬間を置き、それから柚子に訊ねた。
「仲直りできた?」
柚子は首を傾げながら答えた。
「うーん……できたような気はするんだけど、なんか、できてないような気もしてて」
昴はいたたまれないという表情をして頷いた。
「でも意外だな。新見さんが怒るところなんて、想像できない」
柚子は恥ずかしそうに笑って応えた。
「怒るというより……泣いちゃって」
「新見さんが?」
「うん」
「彼の前で?」
「う、うん……」
昴は口元に指をあてて、唇を噛んでいるのを柚子から隠した。
この子をそこまで動揺させることができる男がいるという、そのことに昴は、燃えるような嫉妬を覚えた。