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星の海で遊ばせて  作者: ノマズ
3,孤独な言葉のために
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黒塗りのビー玉/覗き込む雛(2)

 詩乃は、昴が柚子を手当てしたという噂を、何とか気にしないようにしていた。嫉妬や独占欲が、新見さんとの関係を終わらせてしまうのはわかっていた。だけどもし、新見さんの気持ちがもう彼の方にあるのなら、同情や思いやりを延命措置のように使いたくないし、使わせたくもない。


 柚子は、詩乃の身体が強張るのがわかった。


 詩乃の脳裏には、柚子と昴が楽しそうに会話をしている様子がちらついていた。


 詩乃は柚子に握られている手を引いた。


 柚子の体温の温かさに、自分の冷たさを自覚させられているようで、詩乃にはその温もりが辛かった。


 あっ、と柚子は小さく声を上げた。


「新見さん、体調は大丈夫なの?」


 詩乃は、静かな声で柚子に訊ねた。


「体調?」


 柚子は聞き返した。


「うん。練習中に倒れたって聞いたから」


 柚子は、自分の身体が冷えてゆくのが分かった。


 水上君は、噂のことを知っている。


「うん。でも、噂は――」


「ピアノ部の三年生でしょ?」


「うん。でもそうじゃなくて……橘君とは、ただの友達だよ」


 柚子の言葉を聞いた瞬間、詩乃の目に、一瞬、燃えるような怒りが宿った。


「ただの?」


 そう聞き返した詩乃の眼差しに、柚子は竦んでしまった。


 柚子を怖がらせてしまった事を自覚して、詩乃はそれを恥じた。しかし、それでもなお、柚子に対して穏やかな気持ちにはなれなかった。


 新見さんが『ただの』なんていう風に、人を評価しているわけがない。そんな嘘を、自分が見抜けないとでも思っているのだろうか。その不自然さの――嘘の裏側に隠しているものは何だ。


 詩乃は、柚子を睨むように見据えて言った。


「仲良いんじゃないの?」


 詩乃の言葉に、柚子は固まってしまった。


 詩乃は、柚子が答えないので、弁当箱を片付け始めた。柚子は、詩乃が弁当箱を片付けるのを、混乱した頭で、おろおろと見ているしかなった。


 詩乃は風呂敷に包んだ弁箱をスクールバックの中に放り入れた。


「そういうんじゃないよ。橘君は――」


「別にいいよ」


 詩乃は、柚子の言葉を最後まで聞かず、吐き捨てるように言った。


「新見さんの友達は新見さんだけのものなんだから。その関係に口を挟むつもりはないよ。それがもし恋に発展したとしても、自分には何も言えないし」


「――だから、そういうんじゃないの! 橘君はそうじゃなくて――」


「別にいいって!」


 詩乃は、自分でも驚くほど鋭い声でそう言った。


 柚子は、詩乃に大きい声を出されて、怖いのと悲しいので、目に涙が溢れてきてしまった。でも今目を逸らせちゃいけないと思い、柚子は泣きそうになりながらも、じっと詩乃を見つめた。しかしどうしても涙が流れるのを押えられず、柚子は涙が流れ落ちる前に、ずっと心にしまっていたことを、口から零した。


「……じゃあ、水上君は、三島さんとはどうなの」


「え?」


「三島さんとは、ただの先輩後輩の仲なの?」


 なぜ急に愛理の名前が出てきたのか詩乃にはさっぱりわからなかった。しかし詩乃は、愛理でも誰でも、その関係を勝手に『ただの』と言われたくはなかった。愛理と自分とは、先輩後輩の関係ではなく、自分と愛理の関係だ。


 詩乃は、沸き起こってきた苛立ちのままに応えた。


「愛理との関係がどうして今――」


「なんで……」


 そこで柚子の目から、涙が零れてきた。


「なんで下の名前で呼んでるの! なんで、私には呼んでくれないのに、なんでっ……!」


「え?」


 詩乃は、予想だにしなかった柚子の反応に、怒っていたことも忘れて驚いてしまった。


 詩乃は、柚子が自分に、誤魔化すようなことを言ったという、そのことを問題にしていた。誤魔化すくらいなら、はっきりと本心を言ってほしかった。その〈本心〉が仮に、恋心が移った、という内容だったとしても――嘘をつかれたり、誤魔化されたりするよりはマシだ。


 そんなことのみを思っていた詩乃は、虚を突かれたのもあって、しどろもどろに目を泳がせた。


「私は水上君のこと大好きなのに、水上君は、私以外の子の方が好きなの……?」


「いや、えと……」


 ロクに答えることもできず、柚子から目を伏せる。


 詩乃の思考は、出口の見つからない混沌の宙を浮遊しはじめた。


「今日は、もう行くね」


 柚子は涙声でそう言い残すと、席を立って、部室を出て行った。


 詩乃は、声一つかけることもできなかった。





 柚子が文芸部の部室を泣きながら飛び出した日の翌日は終業式だった。終業式の後はダンス部の練習があったが、その気になれば、詩乃も柚子も、話をするくらいの時間的な猶予はいくらでも見つけられるはずだった。しかしお互いに昨日のことを引きずって、結局、言葉を交わすことはなかった。柚子は、式の間も、ちらちらと三年E組の列にいる詩乃の顔を盗み見ていたが、詩乃がそれに気づくことはなかった。


 柚子は、不安ともやもやする気持ちを抱えたまま一日を過ごし、その翌日――夏休み一日目も、部の練習が夕方前に終わった後は、考えるのは詩乃とのことだった。なんであんなに感情的になってしまったのか、柚子自身にもわからなかった。あんなこと言わなきゃよかった、あんな態度、どうかしていたと、柚子には後悔しかなかった。


 部活の後、柚子は千代に、彼氏と喧嘩をしたときの仲直りの方法などを教えてもらっていた。謝るのは、できるだけ早い方がいいと、千代は経験則として、そのことを柚子に伝授した。そのアドバイスを受けた柚子は、今日のうちに謝ろうと、決意した。


 しかし謝ろうと決めても、いざスマホを前に詩乃に電話しようとすると、悪い想像が浮かんでしまい、なかなか〈通話〉ボタンを押すその一押しができなかった。家に帰り、夕食も終えて入浴も済ませた後、柚子は自室の広いベッドの上にペタンと座り、スマホを目の前に置いて、じいっと一時間ほどそれを見下ろしていた。


 夜十時。


 これ以上遅くあるわけにもゆかないと、柚子は勇気を振り絞って、ついに詩乃に電話をかけた。

プルルルルという、無機質な呼び出し音が、柚子を不安にさせた。


 ――出てくれなかったらどうしよう。


 柚子は、祈るような気持ちでスマホを握った。


 長めのコールの後、詩乃が電話に出た。


『はい、もしもし』


 詩乃は、自宅のPCデスクの前に座って、ぼーっとしていた。スマホをどこに置いたか忘れていて、柚子からの着信があると、音を頼りに、布団の中からなんとかそれを見つけ出して、電話に出た。


『新見です。水上君……?』


『うん』


 通話先を確認せずに電話に出た詩乃は、そこで初めて、通話の相手が柚子なのを知った。


『今時間、大丈夫?』


『うん。大丈夫』


 詩乃は、電話先には聞こえないように、慎重に深呼吸をした。


 あれから、詩乃も詩乃で、柚子の事を考えていた。自分の恋愛感情が愛理に向いているのではないかと新見さんは疑っていたのだと、それくらいは、頭を冷やした後なら、詩乃にも容易に理解ができた。自分が愛理を『三島さん』ではなく『愛理』と呼び捨てにするから、そこを勘違いしたらしい。詩乃からすればそれは全く見当違いの推測だったが、それよりも、詩乃は、柚子が他の女子にそんな不安を抱くということが意外だった。詩乃にとってみれば、柚子以上の恋人なんて生涯現れないだろうと確信していたので、柚子の愛理に対する嫉妬心は、詩乃にとってはまさに青天の霹靂だった。


『ごめんね、遅い時間に』


『大丈夫だよ』


 柚子の息遣いが小さく聞こえてくる。


 詩乃は、心臓を少しずつ、針で刺されているような苦痛を感じていた。


 別れ話なら、ざくっと一刀のもとに葬ってほしいと思った。


『文芸部、夏は活動あるの?』


『合宿に行くことになったよ』


『え、そうなの!? いつ?』


 詩乃はそれから、柚子に聞かれるがままに、文芸部の合宿の予定を柚子に教えた。文芸部は、七月三一日から六泊七日で、石川県の山代温泉で合宿をする。神原教諭の知り合いが宿を経営していて、そのツテで、安く泊まれることになった。ダンス部のステージ合宿は八月一日から八月四日までの三泊四日なので、ちょうど同じような日程である。


『文芸部の合宿って、やっぱりずっと、部屋に籠って書くの?』


『それもいいよね。皆は安く観光できるからって浮かれてるけど、学校からも活動費出てるんだから、そこは、ちゃんとやれって、するかもしれない』


 そうなんだ、と柚子はほっとして息をついた。


 柚子は、電話越しの詩乃の声が怒っていないので、ひと先ずは安心した。


 しかし合宿の話を聞くと、柚子は心臓に、また一つ小さな錘が乗せられたような気がした。水上君が他の女の子と一緒に宿泊するなんて、それが合宿だとしても、嫌なものは嫌だった。私だってまだ、水上君と一緒に旅行なんて行ったことないのに――。しかしそれを言うのは、あまりにも自分勝手だと、柚子にもわかっていた。柚子は、感情を飲み込んで、本題に入ることにした。

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