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星の海で遊ばせて  作者: ノマズ
3,孤独な言葉のために
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黒塗りのビー玉/覗き込む雛(1)

 体育祭が終わると、梅雨も明け、いよいよ夏という気候になってきた。


 蝉も鳴き始め、体育祭で発散された生徒たちの熱気と情熱は、今度は夏に向けて蓄積されてゆく。夏休みを前に浮かれていた二年生時とは違い、三年生は、エネルギーを蓄えながら、粛々と、夏休みに向けて準備をするのだった。


 ダンス部とジャズ研は七月に入ると、週に三度は、合同練習をするようになった。最初は不安で泣いていたダンス部の一年生たちも、だいぶ逞しくなり、弱音を吐かなくなった。発表の日が迫ってくる中で、できることは、ただ必死に練習するのみ、ということがわかってきたのだ。三年生が一生懸命やっているのに、後輩の自分たちが足を引っ張るわけにはいかないと、一、二年生も必死である。


 そんな中で、ちょっとした事件があった。


 柚子が、練習中に倒れたのだ。


 体育棟の二階、いつもの多目的ホール。軽い脱水症状を起こしていたのを、その場にいた昴が介抱した。多目的ホールの外にあるソファーに柚子を寝かせ、スポーツドリンクを柚子に飲ませた。ジムからよく見える場所でその手当てをしたため、ジムでトレーニングをしていた運動部の生徒によって、その二人の様子や噂は、あっという間に、尾ひれや胸びれがついて、生徒の間に広まった。夏休み前、生徒たちはこの手の話に飢えていた。開放的になるのは、空と太陽だけではない。


 ――やっぱりあの二人って付き合ってたんだ。


 そんな確信めいた質問を、ダンス部の生徒たちは、部外のコミュニティーの友人から聞かれるようになった。三年生は、柚子がまだ詩乃と付き合っているのを知っているので、聞かれればそう答えたが、ダンス部でもまだ一年生や二年生は柚子の恋愛事情の実際の所は知らない生徒が多かったので、友達に聞かれても、わからない、としか言いようが無く、結果として、噂は多くの生徒の面白いように――柚子と昴という校内のビックカップルが誕生したかのように語られた。


 この噂は、愛理を経由して、文芸部にもすぐに入ってきた。


 噂なんて馬鹿らしいと思いながらも、本当の所何があったのか、詩乃は気になって仕方が無かった。しかし、気になっても、そのことを根掘り葉掘り柚子に聞くのは嫌だった。噂なんかに動揺している自分を認めたくもなかった。


 詩乃が柚子と昴の噂を耳にしてから数日後――終業式の前日、授業が三時間で終わったその日の放課後、詩乃は文芸部の部室で、昼食を食べていた。その日は文芸部の活動もないので、詩乃の気持ちは楽だった。部員が来ない、というだけで自由になれた気がした。


 冷房の効いた部屋、詩乃は自分のゲーミングチェアーに座り、白米に塩をかけただけというシンプルな昼食を、箸でちびちびやっていた。そして、ふとした瞬間に頭に浮かぶのは、柚子の事だった。今頃新見さんは――と、柚子のダンスをしている様子を空想してしまう。


ダンス部は二週間後の週末に花火大会でのステージがある。追い込み練習の最中、きっと自分の存在は邪魔だろうと思い、詩乃は、柚子と連絡を取ることも遠慮していた。そしてそのうちダンス部の活動に関係なく、自分の存在が新見さんの邪魔になる日が来るという予感が、詩乃をいっそう、柚子から遠ざけていた。


 部室には誰も来ない、そう思って詩乃は気を抜いていた。


 そこへ――コンコンと、遠慮がちなノックの音があった。


「新見です。水上君いますか」


 詩乃はびくんと痙攣するように椅子から立ち上がった。


「いるよ」


 詩乃は弁当箱と箸を置き、とりあえずそう返事をしながら部屋の端を通り、扉を引き開いた。

制服のスカートに白ワイシャツ姿の柚子が立っていた。姿を見ただけで、詩乃は一目ぼれの瞬間のような胸の高鳴りを覚えた。


 柚子は部屋の中を、きょろ、きょろっと詩乃の肩越しに確認し、部屋に誰もいないのを確かめると、ぴょこんと詩乃の懐に飛び込んで、詩乃の腹周りに抱き着いた。詩乃は目を白黒させながら、柚子の肩越しに腕を伸ばし、扉を閉めた。


「――部活は?」


「時間あるから」


 柚子はそう応えると、詩乃を見上げてにこりと笑った。


 詩乃は席に戻り、柚子も詩乃の隣、いつもの緑色の椅子に座った。


「部屋、寒くない?」


「え? あぁ、待って」


 詩乃は冷房をつける時、最初にいつも設定を最低温度にして風量も最大にするので、それをそのままうっかり放置して、気づくと、部屋の中が冬の寒さになっているということがよくある。


 詩乃は空調の設定を変えて、窓を開けた。


 窓を開けた途端、熱風が部屋に入り込んできたが、今はそれが、二人には心地よかった。


「ご飯食べてたんだ」


「新見さんは?」


「もう食べちゃったんだ。――今日は、塩ご飯?」


「うん」


 詩乃は、冷たい白米を箸で口に運んだ。


「水上君のご飯、冷たくても美味しいんだよね」


「土鍋で炊くとね。むしろ、冷ましてから食べた方が風味が出るんだよ」


 なんでもない会話が、二人には久しぶりだった。


 しかし柚子は、ただ詩乃の顔を見に来たわけでもなかった。自分と昴の変な噂が出ていることを、千代や紗枝から聞いて知ったのだ。体育祭前に出ていた噂のことは柚子も知っていたが、その噂と、今流れている噂とは、その深刻さが違うと柚子は思っていた。


 体育祭前の噂は、ただ二人でいたのを、誰かが勝手にそう思っただけのものだった。でも今流れている噂はそうじゃない。私が橘君に介抱してもらったのは、本当のことだ。


 橘君は私をソファーに寝かせて、スポーツドリンクをストローで飲ませてくれた。頭か背中に手を添えられたような気もする。お互いにその気はなくても、その気があると疑われても不思議はない、そういう状況だったと、柚子も後から思った。


 もし自分が逆の立場で、水上君が他の女の子に、そういう手当をしていたら、単なる嫉妬以上の感情を持ってしまう気がする。


 部活前の短い時間を利用して柚子が詩乃に会いに来たのは、そのことについての誤解を解くためだった。そして、自分の気持ちはずっと変わらず、水上君にあるのだと、それを伝えに来たのだ。しかしいざ詩乃を前にすると、柚子はなかなか、話を切り出せなかった。


 そもそも水上君は噂のことを知っているのだろうか――。


「あ、あのね――」


 柚子は、噂の件について話そうと口を開いた。


 詩乃の目が柚子を見つめる。


 詩乃の目の深さを見て、柚子は咄嗟に話題を変えた。この目に少しでも、私に対する失望が浮かんだらと思うと、怖くて橘君の名前を出すことさえできない。


「えっと、旅行の事!」


「旅行?」


 詩乃は首を傾げた。そういえば、夏は絶対にどこかお出かけ行こう、というようなことを言われていたのを詩乃は思い出した。しかし旅行とは聞いていなかった。


「旅行行くの?」


「だめかな?」


「どこに行くの?」


「箱根行きたい」


 柚子の口から出てきた地名に、詩乃は驚いた。箱根は、詩乃にとっては、思い出のある場所だった。もしかすると、どこかで新見さんに、そんな話をしたかなと、詩乃は柚子との会話の記録を探った。しかし、やはりよく思い出せなかった。


「どうして、箱根?」


「……嫌、だった?」


「そんなことないけど。そうじゃなくて――」


「水上君が言ってたから」


「あー……」


 やっぱり自分はどこかで新見さんに言っていたらしい。そして詩乃は、そんな自分さえ覚えていないことをしっかり覚えていてくれることに、柚子の愛情を感じるのだった。


「紫陽花見たんだ。山岳鉄道だったかな。山の中を行く電車なんだけど」


 柚子は早速、スマホでそれを調べた。


「箱根登山鉄道――これじゃない?」


 柚子は、調べた内容と、電車からの風景の写真をスマホに表示して詩乃に見せた。写真は山の中の駅の写真で、それを見た瞬間、詩乃は今まで忘れていた幼い頃の、全く同じ駅の風景と、その時の情景を思い出した。


「うん、ここだ。ここだよ……」


 詩乃は柚子のスマホをじいっと見つめた。


 詩乃の表情には、昔を懐かしむ時に人が見せるある種の柔らかさ、優しさのようなものはなかった。張りつめたような、思いつめたような目、辛そうな顔をしている。


 詩乃は顎に手をやり、暫くその写真を見ていた。


 ここに――この駅や箱根の登山鉄道にどんな思い出があるのか、柚子は、迂闊には聞けないと思った。だから必ず、水上君と二人で箱根に行って、この電車に乗ろうと決めた。きっとそこに行けば、水上君は、心の中にある秘密を教えてくれるに違いない。


「日帰りじゃ忙しいよね」


「そうだね」


「お泊り、だよね」


 詩乃は、柚子が恥ずかしそうにそう言うのを見て、思わず笑ってしまった。


「任せるよ、日帰りでも――」


「ううん、泊まろう!」


「家の人、大丈夫なの?」


「うん、何とかする」


 力強く柚子はそう言った。


「水上君は大丈夫?」


「泊まり?」


「うん」


「自分は――」


 詩乃は一瞬言葉を詰まらせた。


 それから、質問のおかしさに思わず笑ってしまった。


 大丈夫も何も、何日外泊しようが、自分には気にする家族はいない。


「お金が続けば何泊でも大丈夫だよ」


 詩乃は、冗談めいた調子でそう言った。


 しかし柚子は、詩乃の言葉と表情の裏側を敏感に感じ取った。詩乃にとってはなんでもない軽口だったが、柚子にとっては、冗談と思って聞き流すことはとてもできなかった。柚子は、自分はなんてことを聞いてしまったのだろうと、自分の思慮の浅さを後悔した。母を亡くし、父とは別居中の水上君の身の上を考えれば、絶対に聞いちゃいけない質問だった。水上君を、また傷つけてしまった――。


 柚子は、詩乃の手をぎゅっと両手で握った。そうしてじっと、詩乃を見つめる。ごめんなさい、という思いを込めて。


 詩乃は、柚子に握られている手の拳を握った。


 新見さんの温かい手。


 でもそれが同情の温かさなら、やめてくれと詩乃は思った。同情を抜きにして、君は俺を選ぶのか。それとも、同情を愛情と勘違いしているだけなのか、どっちなんだ――詩乃は唇を結んだ。

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