照らされて降る雨(11)
柚子と昴が体育棟の二階で話をしている頃、体育館では、紗枝と千代が、いつの間にか一緒にいて、食後のプリンを食べていた。絶対やらないと思っていたのに、太鼓の音に釣られて結局応援団をやってしまった紗枝を、千代は褒めながら慰めた。
「紗枝の太鼓は鳴りが違ったよ」
「ありがと……」
紗枝は礼を言うと、プラスチックスプーンにプリンを乗せて、つるんと口に吸い込む。
千代も紗枝も、こうしてゆっくり、二人で時間を過ごすのは久しぶりだった。
「結局祭り好きは細胞レベルなのよね、はぁ……」
ため息をつく紗枝。その肩を、千代が笑いながらポンポンと叩く。
できたら女の子らしく振る舞いたいと紗枝が思っていることを、千代は知っていた。しかし千代は、そんな紗枝の下町娘らしい性格に、秘かに憧れるようになっていた。普段は、女の子らしくありたいという気持ちが紗枝を押さえつけているが、ひと度何かがあると、紗枝の男っぽさが顕現する。
「いや、いいよ、羨ましいよ。私ちょっと、嫉妬しちゃったし」
「嫉妬!? やめてよ。あんな鉢巻き姿」
「ホントに格好良かったって。ほら大将、まぁまぁ、ぐいっと――」
千代はそう言いながら、紗枝の空になった透明プラスチックのコップにレモンティーを注いだ。
「――鰻職人の彼、見に来てたんでしょ?」
「うん。まぁ、アイツも祭り好きだから」
「どうなの?」
千代にそう聞かれた紗枝は、自分のスマホをハーフパンツのポケットから出して画面を操作すると、それを千代の上に置いた。千代はそれを受け取って、画面を見た。
そこには、紗枝と、紗枝の意中の鰻職人の幼馴染とのラインメッセージが映し出されていた。文字を読んで、千代は早速。「えー!」と声を上げてしまった。太鼓のダメ出しをされていた。
「町内会で毎年太鼓叩いてんのよ、あの鰻馬鹿は」
「そ、そうなんだ……」
「腕が落ちたとか、法被着ろよとか、全くね」
紗枝は千代からスマホを受け取り、再びポケットにしまった。
「千代は?」
「みっくん? まぁ、いつも通りだよ。あ、でも最近、だんだんみっくんが、男っぽくなってきてるんだよね。この間初めてコスプレを本気で断られたよ」
「千代ね、彼氏の扱い間違ってるから」
二人して笑いあう。
それから千代は、ちらりと体育館の出入り口の方を見やった。紗枝も、柚子が帰ってこないのが気になっていた。そこへ、そんな二人の心配を察したように、もう一人、ダンス部三年の男子生徒――長江匠が二人のもとにやってきた。
「おい千代、いいのかよ、新見さん」
匠は、二人の前に立膝をついて、千代に言った。
「いいって、何が?」
そう応えたのは、千代ではなく紗枝だった。紗枝と匠は、同じクラスなので、面識がある。週に一度か二度は、一緒に昼食も食べている。顔見知りよりも、もう一歩進んだ、気の知れた仲である。紗枝、柚子、匠、それに他の生徒が一人か二人、というのが、紗枝と匠が昼食を共にする時のグループである。
「さっき橘が追いかけてったぞ」
「え、ホントに?」
千代が驚く。紗枝も千代も、そこまでは見ていなかった。
千代は少し考えてから言った。
「トイレ行っただけかもよ?」
「馬鹿野郎、王子はトイレなんかいかねぇんだよ」
ぶふっと、千代と紗枝は噴き出した。
「いや、笑ってる場合じゃないだろ。あいつ絶対新見さんのこと狙ってるって」
「そうなの?」
紗枝は、匠ではなく千代に聞いた。
千代はきゅっと眉間にしわを寄せた。
「そうかもなんだけどさぁ……」
千代は苦い顔で応えた。
ダンス部やマスゲームの活動中の様子を知らない紗枝にとっては、これは初耳だった。柚子からも、そんな話は聞いていなかったのだ。ジャズ研とダンス部がコラボすること、赤組のマスゲームの曲の担当が昴になったこと、聞いていたのはそれくらいである。紗枝も、柚子と匠の噂のことは知っていたが、所詮噂でしょ、と思っていた。今更柚子を取り巻く噂なんかに翻弄されたりはしない。とはいえ、千代の見立てとなれば話は別だ。
「新見さんまだ、なんとかっていう文学男子と付き合ってるんだろ?」
匠は確認するように聞いた。
紗枝は頷いた。
「――いや、いいんだよ別に、王子が略奪愛狙っていようが、分かれようが、別にさ」
そう前置きした上で、匠は言った。
「でも、新見さん押しに弱いし天然だから、望まないことになるんじゃないかって思うんだよ俺は。そう思わないか?」
匠の意見はもっともだった。そんなことは、千代も、言われるまでもなく想像がついていた。それだけに千代は、匠の言葉が勘に障った。親友気取ってるのにそんなこともわからないのかよ、とか、友達甲斐のない奴だな、とか、そういうことを暗に言われているような気がしたのだ。
「そんなのわかんないじゃん」
千代は、口を尖らせて言った。
「はぁ?」
千代の態度に、匠は顔を歪ませる。
「だってタクは、じゃあ、柚子の事そんなに知ってるの? わかるの?」
「なんでお前が怒るんだよ。いや、そこまではよく知らないけどさ、大体の性格みたいなのはわかるだろ。お前なんかよく知ってんじゃないの?」
千代は、唇をぎゅっと結んだ。
目は、匠を睨むように見つめている。
匠は、千代がそんな態度を取る意味が分からず、眉をひそめ、目を細めた。
「だったらさ、どうできるの?」
「そりゃ、サポートとかさ……」
「具体的には?」
「――あぁもう、知らねぇよそんなの!」
千代のトゲのある態度に、ついに匠も癇癪を起こした。
立ち上がりかけた匠に、紗枝は空のプラスチックカップを渡した。
「折角だから飲んできな」
「お、おぅ……」
紗枝の妙な迫力に負けて、匠は腰を下ろした。
匠はコップを受け取り、紗枝から、ジンジャエールを注いでもらった。千代はその間、バツが悪そうに俯いていた。
「実際どうなってんだよ、新見さんとその彼氏って、上手くいってんの? 別れそうなの? どうなの?」
「え、何、長江も柚子のこと狙ってんの?」
紗枝は、からかうように匠に言った。
匠はムキになって応えた。
「ちげーよ!」
あはははと、紗枝は笑う。
千代は、ムスっとしたまま黙っている。
「彼氏の方は正直よくわからないけど、柚子は、絶対別れる気はないと思うよ」
「へぇー、そうなんだ」
匠は小さく二三度頷く。匠が確かめたかったのは二人のどちらかが――特に柚子の方が、今の彼氏に冷めているとか、もう好きじゃなくなっているとか、そういう状態かどうかだった。そんな状態だったら、別に、昴がアプローチをかけようが何しようが、勝手にすればいいと、匠はそう思っていた。でもそうではないなら――二人が上手くいっているなら、そこに横ヤリを入れるような奴を放ってはおけない。
「じゃあ俺ちょっと、行ってくるわ――」
そう言って匠が立ち上がりかけたので、そのシャツを、紗枝ががしっと掴んで、立ち上がるのを止めた。
「行くってどこに?」
わかりきっていたが、紗枝は確認のため匠に聞いた。
匠はシャツを掴まれながら答えた。
「新見さんと橘を探しにだよ」
「探してどうするの」
今度は千代が聞く。
「新見さんを連れ戻すんだよ」
「ちょっと長江、落ち着きなさいよ。気持ちはわからないでもないけど、そんな強引なことしたら、柚子が困るでしょ」
紗枝にそう言われて、匠は再び、床に腰を下ろした。
「急に何なのタク。柚子に何かあるの?」
千代の言葉に、匠は声を荒らげた。
「俺は、新見さんは、勝手に戦友みたいに思ってるんだよ。――俺が新見さんの心配しちゃいけないのかよ」
「そんなこと言ってないじゃん!」
「言ってるだろ」
「はいはい、やめてやめて、もう二人だって体育祭で疲れてるでしょ。ほら――」
紗枝はそう言いながら、千代にはレモンティーを、匠にはジンジャエールをコップに注いだ。二人は、口を尖らせながら、コップに口をつけた。紗枝は、飲み物を飲む二人を見て、深いため息をついた。
紗枝は、柚子を巡る千代と匠の細かい関係は知らなかったが、二人の今のやり取りで、色々見えてくるものがあった。そして匠の口ぶりから、ダンス部の中での柚子の存在は、やはり何か、特別な意味を持っているのだろうなと思った。
彼氏のいる女の子が、他の男の子に言い寄られている、言ってしまえば、ただそれだけのことなのに、柚子が関わると、それが色々なものを巻き込んで、問題は大きく、ややこしくなってしまう。こういうことが、柚子の抱えている悩みの正体なのだろうと、紗枝は柚子に同情的な気持ちを持つのだった。――そして、柚子が詩乃のことを好きな理由も、それを考えると、分かるような気がした。そういう人間関係のしがらみに全く頓着しない、そういう世界観の中で生きている水上は、柚子にとって一番リラックスできる存在なのかもしれない。
匠はその後、他のグループの生徒に呼ばれて、二人の輪から離れていった。
その後で、千代は紗枝に「ごめん」と、小さく謝った。千代も、自分の匠に対する大人げなさがわかっていないわけではなかった。八つ当たりのように匠に突っかかって、その結果、紗枝に色々と、気を使わせてしまった。気持ちが落ち着いてくると、千代は自分の言動を後悔した。
「――まぁ、わかるよ」
紗枝は、千代にそう言った。
千代は、紗枝の言葉に思わずうるっときてしまった。
「柚子には悪気ないだろうし」
紗枝が続けて言う。
千代は頷いた。
「これが逆だったらね、徹底的に叱るんだけど」
「逆って?」
千代が、紗枝に質問した。
「水上が他の女の子に言い寄られて、鼻の下伸ばしてるとかだったらさ」
「あっははは、そうだね。なさそうだけどね」
「いやぁ、水上だって男でしょ」
それはそうだねと、千代は笑った。
「でもまぁ、ねぇ、柚子の場合は、誰かに言い寄られてるのが日常だから、ね……それが今回は、橘だってことでしょ。でも実際どうなの。千代の目から見て、橘って、柚子に気ありそうなの?」
そう聞いてくる紗枝に、千代は首を傾げながら、頷いた。
「普通に見たら、もう、完全にその気って感じ。でも、王子だからなぁ……」
「なるほどね……」
紗枝は頷き、それから言った。
「千代は優しいねぇ」
「え、なんで、急に!?」
ふふっと、紗枝は微笑した。
紗枝は、千代の心の中の葛藤が目に見える様だった。千代は、水上と同じクラスで、水上のことを、結構気に入っている節がある。だからたぶん、柚子に一言言ってやりたいに違いない。でも千代も、柚子の性格を知っている。言った所で、柚子を傷つけることにしかならないのではないか、とか、そう思っているに違いない。だからきっと、ずうっと仕方なしに、様子見状態を続けていたのだろう。
そんな色々考えて、悩んでいたところに、長江の言葉である。千代の態度は責められない。しかし紗枝は、長江もなかなかいい奴なんだな、と匠のことも見直していた。
「まぁでも、千代のやり方が私も良いと思うよ。水上のことは気になるけどさ、でも、柚子と付き合うって、そういうことなんじゃない。言い寄ってくる男にイチイチ嫉妬したり、不安がってたら、たぶん柚子とは難しいのよ」
紗枝の諭すような落ち着いた話しぶりに、千代は小さく頷いた。
「彼氏がいるって知ってるのに、なんで男ってちょっかい出すんだろう」
「まぁ、そういうもんなんじゃない。女だって、取る子いるし」
「まぁ、そっか……」
千代はしぶしぶ自分の恋愛の常識に折り合いをつけて頷いた。
そうそう、と紗枝は頷きながらも、そのうち柚子に、言わなきゃいけないこともあるんだろうなと、ぼんやりと思っていた。その役目の適役は千代ではなく私なのだろう、ということも。できれば、そんな状況にはならないでほしいが、どうだろうか。
紗枝は、ダンス部の今後のスケジュールも、ざっくりとは知っていた。
ダンス部は七月末の土曜日に花火大会で踊り、そのあと八月ど頭には熱海でのステージ合宿がある。どっちの発表もジャズ研との合同になる。体育祭のあと明日からは、夏休み中に試合やイベントのある他の部活と同じく、ダンス部とジャズ研も、ステージ発表に向けて追い込みをかけるのだろう。特に三年生にとっては、この夏の発表が実質、メンバー全員で取り組む最後の舞台となるらしい。夏以降、三年生の多くは本格的に受験勉強体制に入るからだ。そこから先は、現二年生が、部の中心となる。
そんな追い込みのこれからの時期、物理的に柚子の一番近くにいるのは橘になるだろう。水上がマネージャーのように、ダンス部の活動ごとに柚子にくっついていかない限りは。
「まぁちょっと、見守ろうよ」
紗枝は、自分に言い聞かせるように呟いた。