照らされて降る雨(10)
――パンパン、とスターターピストルの乾いた音が響いた。大きな歓声、悔しがる声、拍手。詩乃はゆっくりと顔を上げ、握った柚子の手にもう一度キスを落とし、グランドを見つめた。竹馬を持った生徒たちが、競技を終えて汗と笑顔を見せている。
詩乃は静かに息を吐き、それから何事もなかったかのように言った。
「新見さんお昼は、マスゲームの皆で食べるんだよね?」
「う、うん……でも――」
「行ってきなよ。皆、新見さんのこと待ってると思うよ」
詩乃の言葉に、突き放されたような響きを感じ、柚子はうな垂れた。そして、そうやって自分の感情を弄ぶ詩乃を、恨めしく思って、唇を尖らせた。水上君は、私と一緒にいたいの? いたくないの? どっちなの!? と、そんな渾身の問いを、胸の内に隠す。
「じゃあ、行ってくるね」
柚子は詩乃をじっと見つめた。「本当にいいのね? 行っちゃうよ?」という気持ちを込めて。詩乃は、柚子の瞳の熱さを受け取りながらも、それには応じなかった。
詩乃が自分を止める気のないことを悟ると、柚子は席を立ち、とぼとぼと救護テントを後にした。
「良かったの?」
須藤教諭は、詩乃に訊ねた。
「全然良くないですよ……」
「え……」
詩乃は深いため息をついた。
「でも新見さん、引っ張りだこなんで」
はははと、詩乃は力なく笑う。
へらへらと、詩乃は自分でそうしていて、そんな自分に嫌気がさしていた。
詩乃は、自分が柚子の人気を言い訳にしていることを自覚していた。昨日の昼食のときも、そして今日の昼食も、それから今日の後夜祭のダンスも、本気でその気になれば、新見さんを独り占めできたはずなのだ。そのことは、詩乃が一番よくわかっていた。新見さんは、自分が強引さを見せれば、それを絶対に断らない。きっと、全部の予定をキャンセルして、自分を優先してくれるだろう。
しかし詩乃は、柚子にそうさせるだけのものが自分にはあると思えなかった。それに、新見さんを離したくないという気持ちの強さは、そうしないと離れていってしまうということを認めるようなものだ。独占すれば、新見さんを拘束すればするほど、別れは決定的になってゆく。
「――はい」
須藤教諭は、突然詩乃に焼きそばパンを投げ渡した。
詩乃はそれを受け取り、困った顔で言った。
「あんまりお腹空いてないんですよね」
「一つくらい食べときなさい。午後マスゲームなんだから、新見さん、出るんでしょ?」
「ま、まぁ……」
「今年は倒れちゃだめよ。寝ないでしっかり見る」
「は、はい」
須藤教諭の迫力に負けて、詩乃はパンの袋を破った。
午後は各組応援団の応援合戦で始まり、次が、各組のマスゲーム団のダンス発表である。
青組、赤組、白組の順番。
救護テントから、詩乃は赤組のマスゲームも、しっかり目に焼き付けた。情熱大陸と他いくつかのクラシック曲をアレンジし、メドレーにした陽気な音楽とともに、赤組は踊った。百人が一つの生き物のように流動する。マスゲームそのものの仕上がりもさることながら、皆の表情が明るいのが、特に良いと詩乃は思った。そのリーダーが新見さんなんだと思うと、詩乃は誇らしさを感じた。そしてまた、身勝手だなとも思った。新見さんを自分のものにする勇気や覚悟を持てずにいながら、都合の良い時だけ、自分のものみたいに思って、ちょっとした優越感さえ覚えている。
そんなことを考えていて、詩乃は、マスゲームの退場際、柚子が救護テントに手を振ったのにも気が付かなかった。
体育祭は、大きな事故も怪我もなく終わりを迎えた。校外から来場した見物客が帰ってゆく中で、生徒たちは急ぎ足で片付けを始める。片付けと同時に、グランドには簡易ステージが作られ、体育祭の閉会式から三十分程度で、そのステージに軽音楽部のバンドが登壇する。生徒たちがまだ片付けをしている中、バンドは構わず演奏を始める。激しいハードロックをBGMにして後夜祭の準備が始まる。これも毎年の風物詩である。
日暮れが近くなると涼しい風も吹き始めて、その風に誘われるように、生徒たちもグランドに集まってくる。団のTシャツをそのまま着ている生徒もいれば、部活のTシャツや、学校とは関係ない運動用のTシャツを着ている生徒もいる。全身制服という生徒は一人もいないが、女子生徒は、下だけスカートを穿いている者もいる。
バンドの演奏が終わる頃になると、グランドに点在して置かれた卵型の簡易ライトの白い明かりが目立ち始める。放送部の紹介で、ジャズ研がステージに上がった。最初は、定番のフォークソングの演奏。ペアを入れ替えながらのダンス。柚子は、休む暇なくペアを代えて踊った。柚子と踊れた感激で、踊りながら泣き出してしまう後輩もいた。愛理も、柚子にダンスを申し込み、オクラホマ・ミキサーを踊った。
一時間ちょっとのダンスタイムの後は、各団体の打ち上げが始まる。場所は学校の各部屋。クラスの打ち上げはそのクラス、応援団やマスゲームの打ち上げは、体育館、グランド、各棟の会議室などが使われる。赤組のマスゲームと応援団の打ち上げは、体育館のアリーナだった。学校の中なので、酒を持ち込んでくる生徒はさすがにいなかったが、その代わり食べ物や飲み物は、かなりの量を学校が用意していて、SL棟の食堂かCL棟の裏手に止まっているトラックに行くと、それを貰うことができる。
体育館では、マスゲームと応援団の堺無く、打ち上げが始まった。用意された大量のプラスチックカップ、紙皿、ソフトドリンクにスナック菓子に甘味。しばらくすると、食堂からうどんが運ばれてくる。後夜祭の〈力うどん〉もこのイベントの名物である。
うどんで腹も満たされ、無礼講の雰囲気に、酒は無くても生徒たちは酔っぱらったように、ハイな気分になってくる。誰も頼んでないのに、突然下品な一発芸をする男が出てきたりする。そんな中、柚子にも、そういった災難の火の粉が降りかかった。場の勢いに任せて、柚子に告白する男子が出てきたのだ。しかも、一人ではない、柚子が戸惑っている間に、「ちょっと待った!」などといって、一人、また一人と、我こそはと男が名乗りを上げた。
結末は誰もがわかっていたが、自然と、皆の注目は柚子とその男子生徒たちにそそがれ、柚子の返事を、皆わくわくと見守った。「ほら、頭下げてお願いしろよ!」というヤジが飛び、柚子の前に並ぶ三人の男子は、頭を下げて柚子に手を伸ばした。
「ごめんなさい!」
柚子が、大きな声ではっきりそう答え、三人に頭を下げた。
なんだよーと、三人はその場にしゃがみこんだり、大の字に寝っ転がったりした。その結果と男たちのリアクションに、体育館は笑いに包まれた。
柚子は一旦アリーナの外に出て、気持ちを落ち着かせることにした。幸い、三人の告白が悪ノリの延長のような雰囲気のうちに決着がついたため、柚子がアリーナを出ても、誰もそれを不審に思ったりはしなかった。恥ずかしがって、いったん外の空気を吸いに行くのだろう、と思われる程度にとどまって、深刻に柚子を心配する生徒はいなかった。そのことが、柚子にとっても救いだ。
柚子は体育棟の二階に上がり、ジムの脇にある冷水器で冷たい水を飲んだ。ジムも二階の廊下も、明りは小さな小ライトのみしか点いていない。ずっと明るい中にいた柚子は、思わず、ふうっと息をついた。
「お疲れ様だね」
そんな柚子に声をかけたのは昴だった。柚子を追って階段を上がってきたのだった。柚子は驚いて声の方を見て、そしてそれが、お化けではなく昴であることを確認し、ほっと安心する。
「吃驚した。橘君もお疲れ様だよ」
昴は柚子に微笑を返し、近くの長椅子に腰を下ろした。
「注目を浴び続けるというのは、新見さんでも疲れるんだね」
「――さっきの、見てた?」
「そりゃあ――」
昴はケラケラと笑ってから答えた。
「あんなバラエティー番組みたいな告白を生で見られるとは思ってもみなかった」
柚子は苦笑いを浮かべた。
「嘘でも、一人くらい選んであげても良かったのに」
「それはできないよ!」
昴は、じっと柚子の事を見つめて、それから質問した。
「彼氏に悪いから?」
柚子は、表情を固めた。柚子に関する噂は多くの生徒が話しているが、柚子に直接、彼氏のことを聞いてくる生徒は、多くはなかった。ダンス部の同級生さえ、千代を除けば、そのことについて深く聞いてきたりはしない。まさか昴から彼氏のことを言われるとは、柚子は思っていなかった。
「――ごめんごめん、意地悪な質問だったね。そうじゃないんだ、ただちょっとね、新見さんの顔色が気になって」
「え、私、なんか変だった?」
「変じゃないよ。ただ、練習でも、たまに落ち込んでるような時があったからさ。あぁ、練習場所が取れてなかったって、あの時の失敗については勘定に入れないよ」
柚子は、昴の温かい皮肉に、表情を緩めた。
「皆、新見さんに一目置きすぎてるから、相談したいことを相談できないことが多いんじゃないかと思ってね」
柚子は、お腹の前で、手をもじもじさせた。
どう答えて良いものか、迷うのだった。
「これから、まぁ、少なくとも夏の合同合宿のステージ発表までは一緒にいることが多いから、それだったら、お互い悩みくらい、話せる関係を作っておきたいなと思ってさ。それで今こうして、新見さんを追いかけて、話しかけたというわけ」
そう言った後、昴は、「座る?」と、自分の隣を目線で示した。柚子は、少し悩んだのち、小さく頷いて、昴から一人分の空間を開けて、隣に座った。昴は距離を取られたことに小さく笑った。
「悩んでるのは、彼の事? それとも、全然悩んでいない?」
「……」
「新見さんは、男の友達はいるの? 悩みをさ、打ち明けられるような」
柚子は口を開きかけたが、「いる」とは言えず、目を伏せた。
話せる男の子はたくさんいる。ちょっとした悩み事、相談くらいだったらいつも、持ちつ持たれつで話している。特にダンス部のメンバーとは。けれど、もう一歩踏み込んだ悩み――例えば、水上君のことについて話したことのある男の子はいない。ちょっとしたことを聞かれて、何か一言答える、それくらいだ。
柚子の様子を見て、昴は微笑を浮かべた。
「実はね、僕もそうなんだ」
昴の言葉に、柚子は顔を上げた。
「女の子の友達がいない。理由は――新見さんならわかるんじゃないかな」
そう言われて、白々しく「わからないよー」というような黄色い返事をする柚子でもない。柚子も、橘昴という男の子が、茶ノ原高校の中でも特別女子人気のある生徒だということを知っていた。昴がどうして女の子の――異性の友達ができないのか、そしてまた昴が、その理由をはっきり口にしないのか、柚子には、その気持ちがよくわかるような気がした。自分の事の様で、柚子は胸が苦しくなった。
「橘君は、それが、悩み?」
首を傾げながら、気遣うように柚子が言った。
昴は寂しげな笑みを浮かべて、「まぁね」と一言答えた。
柚子は、少し無言でいて、その後、口を開いた。
「話し相手くらいだったら、なるよ。私で良かったら」
「新見さんが? 僕の?」
昴は感動したように体を少しのけぞらせ、笑った。昴の喜んだ様子を見て、柚子も穏やかな笑みを浮かべた。
「願ってもないよ」
「あんまり助言とかはできないと思うけど――」
「いや、是非助言が欲しいな」
昴は、はっきりとした強い声で柚子に言った。
「女の子の友達を作るための?」
「いや、それは今もう叶った。――友達じゃなくてね……実は、好きな子がいるんだよ」
「え、そうなの!?」
柚子は声を上げて聞き返した。そんなことを打ち明けられるとは思っていないうえ、しかも相手は、〈王子〉とあだ名されている橘昴である。昴が人気だということは、もはや全校の知るところだが、昴に好きな子がいることは、柚子も噂でさえ聞いたことがない。そもそも昴は、彼女がいるのかいないのかすら、謎に包まれていた。
「さっき言った通りで、僕には女の子の友達がいないから、女性の意見を聞きたいときには困ってた」
「あー、そっか。そうだよね」
柚子も、同じことを思う時があった。柚子にとっては今がまさにそうだった。女の子を下の名前で呼ぶ時の男性の心理とはどんなものなのか、知りたかった。詩乃が後輩を下の名前で呼び捨てにしているということを、柚子は千代と紗枝にすでに相談していたが、二人の知恵をもってしても、確かそうな答えは出なかった。
「――この夏でね、落としたいと思ってるんだ」
「お、おぉ……」
落とす、という言葉は、柚子には刺激が強かった。
「一緒に海に行く予定はもう入ってる」
にやりと、昴は笑う。
「じゃあ、もうその子とは、良い感じなんだ」
「いやぁそれがね、まだ距離がある。だから、夏までにぐっと縮めたいんだ」
「あぁ、そうなんだ」
柚子は、うんうんと頷いて。
昴はさっと、右手を柚子に差し出した。
「――握手。新しい関係に」
「あぁ、うん。よろしくね――合同ステージの方も」
柚子はそう言うと、昴の手を握った。