照らされて降る雨(8)
詩乃は、少し離れた場所から、その露店の外装を確認していた。
井塚と愛理が、いつもの通りお互いにぶつくさ言いながら、長テーブルに本を並べている。健治は、看板の位置を整えている。
「売れますかね」
詩乃の隣に由奈がやってきて、小さな声でそう聞いた。
「売れるといいけどね」
そう答えて、詩乃は首を回した。
そこで詩乃は、柚子の姿を見つけた。
体育館をバックに、中庭のベンチの奥に立ってこっちを見ている。
「愛理、本一冊持ってきて」
「あ、はい!」
愛理は返事をすると、すぐに部誌を一冊持って詩乃のもとにやってきて、詩乃に部誌を渡した。そしてまた露店のテーブル前に戻っていった。詩乃は受け取った部誌を持って中庭を横切り、柚子のもとに向かった。
柚子の顔がはっきり見えるところまで近づいた時、詩乃は、おや、と思った。てっきり、笑顔でいるものかと思っていた。ところがどういうわけか、少し悲しそうな表情をしている。何かあったのかなと思い、詩乃は眉をひそめた。
「水上君」
柚子は、詩乃の名前を呼び、詩乃に小さく手を振って、詩乃がやってくるのを迎えた。
「これから練習?」
「ううん。終わったところ」
詩乃は、グランドを見た。
青組と白組は、まだ練習をしている。
「赤組は、早く終わらせたんだ。今日はしっかり休んで、本番頑張ろうって」
「良いリーダーだね」
詩乃は感心してそう言った。柚子がマスゲーム団のリーダーをしている事は、詩乃も知っている。部室での昼食の時間に、マスゲームの話はよく聞いていた。
「失敗ばっかりだったけどね」
詩乃はそれを聞いて、目元に笑みを浮かべた。
「お疲れ様」
詩乃が言うと、そこで初めて、柚子はいつものような笑顔を詩乃に見せた。
「これ、今回の部誌なんだ」
詩乃はそう言って、手に持った文庫サイズの部誌を柚子に差し出した。
柚子はそれを受け取って、表紙をじいっと見つめた。
やっぱり何か、いつもと様子が違う気がすると、詩乃は思った。マスゲームで疲れているのか、明日のことを考えて緊張しているのか、そのどちらでもないとすれば、何だろうか。詩乃の脳裏に、一番考えたくない可能性が浮かぶ。
詩乃は一度目を閉じ、深く呼吸をした。
自分の悪い想像は妄想に過ぎないんだと、自分に言い聞かせる。新見さんが、自分にそんなひどい仕打ちをするはずがない。踏み込むのは怖いけれど、新見さんのことを怖がるなんて嫌だと詩乃は思った。
詩乃は口を開いた。
「あの、新見さん――この後もし空いてたら、一緒にお昼食べない?」
詩乃が言うと、柚子はぱっと顔を上げた。
嬉しそうな表情。瞳もきらりと揺れる。
しかし次の瞬間には、柚子の顔は雷に打たれたかのように固まった。柚子は、今さっき入ったばかりの昼食の予定を思い出したのだ。柚子の不思議な表情の変化に、戸惑うのは詩乃の方だった。
「ごめん……この後私、マスゲームの皆に誘われてて……」
「あー……」
と、詩乃は間延びした声を発し、それから、残念な気持ちを飲み込んで頷いた。
この気持ちを見せてしまったら、新見さんを困らせてしまう。
「そっか」
仕方がないね、と詩乃が言おうとしたとき、体育館の入口あたりから柚子を呼ぶ声があった。
「新見さーん、場所決まったから一緒に行こー!」
詩乃は声のする方を、柚子の肩越しに見た。
赤Tシャツの生徒の集団。
その中に、橘昴の姿を詩乃は認めた。千代もいたが、詩乃には、昴の姿だけが飛び込んできて、他の生徒の顔までは、確認する余裕を失っていた。
詩乃は、深呼吸をして、気持ちを落ち着ける。
これは違う。新見さんが、あいつを選んだわけじゃない。たまたま、そういう成り行きになっただけだ。間が悪かっただけだ――詩乃は自分に言い聞かせる。
「うん、今行くね!」
柚子は振り返って、元気な声で返事をした。
ズキンと、柚子の楽し気なその声が、詩乃の心臓に刺さった。新見さん、どうしてそんな声が出せるんだと思った。詩乃は一瞬、裏切られたような鋭い痛みを心に感じた。Yシャツのわき腹のあたりを握り締める。
あっと、柚子は詩乃の変化を見逃さなかった。
「やっぱり断る――」
柚子がそう言って、マスゲーム団の皆の方へ振り返った。大きな声で、「ごめん、やっぱり――」と、そう言おうとして大きく口を開ける柚子の手を、詩乃は掴んだ。
「――いや、行っておいで」
詩乃は、そう言って、頷いた。
「でも……」
不安そうな柚子に、詩乃は笑いかけた。
「ご飯は、また今度にしよう。皆、新見さんを待ってるから」
柚子は、どうしようかと思い、詩乃に目で助けを求めた。
柚子にとっては、マスゲーム団の皆も大事だった。ここまで一カ月、一緒に頑張ってきた。練習の時には言えなかったこともある。そうして最後は、ついてきてくれてありがとうと、お礼も言いたい。
だけど本当は――本当は水上君と一緒にご飯が食べたい。水上君が、折角誘ってくれているのに、断るなんてしたくない。いっそ強引に、私を連れて行ってほしいと柚子は思った。一年前、文化祭の時にそうしたように、水上君の〈モノ〉にしてほしい。
しかし詩乃は、柚子の目の訴えを、首を横に振って退けた。
「いっておいで」
優しく、諭すように、詩乃はそう言った。
柚子は、わかった、と頷いた。
納得するしかなかった。
軽く手を振りあい、互いに背を向け、柚子はマスゲーム団の仲間のもとに、詩乃は文芸部のテントへと、それぞれ戻っていった。
二人の肌を刺す太陽の日差しは冷たかった。
体育祭当日、詩乃は朝の、まだ風の冷たい早朝の時間から登校し、グランドのテント設営などを手伝った。本部テント、穴倉のような救護テント、そして、文芸部の露店。応援団の太鼓運びも手伝った。そうしてひと段落する頃には、生徒の大半が登校してきていた。グランドがにぎやかになり始めた頃、詩乃は、保健室と救護テントを往復して、応急処置用の救急バックの中身に不備は無いかチェックしたり、クーラーボックスに氷を入れたり、製氷機で追加の氷を作ったりした。
それらのことを一通り終えた頃、校外からの見物客がグランドに入ってきた。
生徒代表の開会宣言のあと、詩乃は本部隣の救護テントに戻った。保健の須藤教諭は、今年もサングラスに白衣という姿で、救護テントを担当している。
「運動日和ね」
須藤教諭は、口元に笑みを浮かべた。
今日は曇り空で、気温も、真夏日程は高くはならないと、予報が出ている。
「そうですね」
詩乃はグランド全体を見渡し、答えた。
「ちゃんと寝てきた?」
「……」
須藤教諭はため息をつくと、小さなクーラーボックスの中から栄養ドリンクの小瓶を取り出して、詩乃に渡した。
「飲んどきな」
詩乃は礼を言って、それをぐいっと飲み干した。
ドン、ドンと太鼓の音が鳴り響き、赤組、青組、白組それぞれの応援団が出て来て、互いにエールを送りあう、エール合戦が始まった。応援団は、学ラン姿に、それぞれの組の色の、長い鉢巻きを巻いている。白組応援団の中に健治の姿を見つけ、詩乃はくすりと笑ってしまった。学ランに坊主頭、身長ほどもある団旗を支え持ち、身体を逸らせてしゃがれた声を張り上げている。その姿が、随分様になっている。そして詩乃をもう一つ驚かせたのは、赤組応援団の太鼓だった。二人のうち一人が、紗枝だった。流石下町娘だなと、詩乃はそれにも、くすりと笑ってしまった。
エール合戦の後は、二年生による玉入れ合戦が始まる。
ラグビー部や柔道部などの体格の良い男子生徒が駆け足で道具を用意する。三つのポール、玉入れの小さい球の他に、ピンクのバランスボールが玉入れのフィールド内に無数に配置される。各団から二十名の選手が出て来て、観客にも本部に正面から姿が見えるように、全体で三角形の陣形を作る。ファッション部がデザインした赤、青、白のTシャツ兼ユニフォームを着た生徒たちの顔つきは、真剣そのものだ。
「これ、何ですか……?」
詩乃は、須藤教諭に訊ねた。
「チェッコリ玉入れよ。去年もあったけど、覚えてない?」
「全然覚えてないです」
「水上君、この時間保健室の方にいたんだっけ?」
去年のことは、どうにも思い出せない詩乃だった。
しかし、チェッコリ玉入れは知っていた。チェッコリの音楽に合わせて踊り、歌の途切れるタイミングで玉入れが始まるという、小学校の運動会ではお馴染みの玉入れである。
しかし、それにしてはどうも、緊張感が高すぎる。
スピーカーから、チェッコリの音楽が流れ始めた。
途端、横並びに並んでいた生徒が、キレキレのチェッコリダンスを踊り出す。それぞれの組で微妙に振り付けが違い、赤組は、途中で投げキッスやウィンクなどが入っていた。
「芸術点もあるのよ」
「玉入れにですか?」
驚く詩乃。
しかし、茶ノ原高校のチェッコリ玉入れの神髄は、ここからだった。