鏡の中の殺人鬼
四時間目の授業は社会科で、三階の視聴覚室に移動して『日本の政治(明治編)』というタイトルのビデオを鑑賞させられた。終業のチャイムが鳴り、社会科の先生が、ビデオの感想を八百字で来週までに書いておくようにと告げて、授業が終わった。
授業から解放されるなり、今週の給食当番の生徒が急いでクラスに走っていく。他の生徒たちはぞろぞろとのん気な足取りで戻る。廊下に広がらないように並んで歩くクラスメイトの姿は、亀の行進みたいだ。
僕は途中で列を離れ、トイレに寄った。二年生が使う二階のトイレは、同級生が大量に詰め掛けていて人口密度が気持ち悪いので、僕は一階に遠出することにした。職員室前の職員用トイレ。そこはいつも空いている。教師と遭遇するのが嫌で、生徒らがほとんど寄り付かないからだ。
そして小用を済ませ、手を洗っているとき、僕は背後に気配を感じた。
気配を感じるっていう表現は漫画でよく見かけるけど、実際どういうものなんだろう、と常々気になっていた僕は、まさに気配を感じる瞬間というものを体感した。つまるところ、他人の息遣いだ。他人の呼吸音というものは、静かなところだと結構目立つ。加えて人の温度。人の体温は高い。忘れてしまいがちだが、三十六度以上あるのだ。それは気温だったら猛暑日の温度だし、プールの水温だったら温いと感じるくらいである。そんな温度で背後に立たれると、ぶっちゃけ熱い。ぴったり身体を寄せていなくても、その体温を何となく感じることができる。
ようするに、僕は背後に誰かが立ったのを感じた。
僕は顔を上げて、お手洗いの鏡を見た。鏡には僕と背後にいるワイシャツの女性の姿が映っていた。おやおや、この人は僕の守護霊さんかな。
「――振り向くな。そのままの姿勢で私の話を聞け」
僕より頭一つ背の高い女性は、低い声で言った。女性の顔は少なくとも知っている教師のものではない。チクリと背中に鋭い痛みが走ったので、僕は頷いた。
「はあ。振り向くなと言うなら振り向かないですけど。何でしょう。先生用のトイレを使っちゃまずかったですかね。でもここ、男子トイレですよ」
「お前に話がある。今日の六時に、ここに来い」
女性は、僕の背中に尖ったものを押し付けながら、こちらの学ランのポケットにメモ用紙を入れてきた。
「六時ですか。その時間で部活が終わるか分かりませんけど、頑張ってみます。ところであなた誰ですか?」
「……待っているぞ」
女性は一度もまともな会話を交わさずに、トイレから出ていった。僕はその後ろ姿を見送った。女性の足元を見たら、上履きやスリッパじゃなくて、外履きの靴を履いていた。どこかで見たことあるような黒い革靴だ。
謎の女性が去ってから、僕は気を取り直して手を洗った。ハンカチで手を拭いてから、さっき渡されたメモ用紙を取り出した。メモには一つの住所が達筆で書かれている。住所だけ見ても実際の場所はイメージできなかった。聞いたことがある地名だから、市内であることは確かだ。
トイレを出て、階段を登り、自分のクラスに戻ってから、僕は女性の靴をどこで見かけたかを思い出した。殺人現場の玄関から消えていた例の革靴だ。
二年一組の教室は給食の準備で忙しそうであった。給食当番の邪魔にならないように、僕はさっさと着席した。
みんなの机に給食当番の手によって給食が配られていく。今日の給食のメニューはコッペパン、牛乳、ナスとトマトの炒め物、ごぼうのマヨネーズサラダ、ポテトとひき肉和え、フルーツヨーグルト。
全員に給食が行き届き、担任のいただきますの号令で食べ始めた。
いただきますから十五分後、余ったヨーグルトを争って、じゃんけん大会が繰り広げられ、参加者たちがデットヒートする様子を僕は眺めていた。じゃんけんの勝敗に一喜一憂する彼らを見ていると、僕は考えてしまう。実際のところ、彼らは本当に本気で余り物を食べたいのだろうか? ここで僕が、ある一人を指名して、僕のヨーグルトをあげると言ったら、その一人は喜んでくれるだろうか? たぶん言葉の上では喜ぶだろうけど、内心は不気味がって、素直に喜べないと思う。
たぶん、彼らが食べたいのはただのヨーグルトではなくて、他人と公平な対決をして、敗者を蹴落として、勝ち取ったヨーグルトなのだ。サッカーで例えれば、弱小チームから点を取ってもそれほど嬉しくないが、強豪チームから点を取れればすごく嬉しいと感じるだろう。勝負内容がじゃんけん、つまり運勝負なのも、参加者の過熱に拍車を掛けていると思われる。勝っても負けても恨みっこなし。どんな人も勝てるし、負けることがある。もっと広義に解釈すると、ギャンブルの快楽を味わっているのだと言える。そう考えると給食の余り物バトルも興味深い。
給食が終わって昼休み。僕は暇を持て余したので、図書室に向かった。
僕の読書傾向は、事典と図鑑だ。十歳の誕生日に父からプレゼントされたブリタニカ国際大百科事典が、当時知りたがり屋だった僕の感性に大ヒットした。以降、僕は事典を読み漁るようになった。ちなみに、最近のトレンドは海洋生物だ。
図鑑コーナーを物色していたら、僕はクラスメイトのバレー部女子と図書委員女子を見かけた。委員長の姿はない。
バレー部女子と図書委員女子の二人は、机に新聞を広げて記事を読んでいる。通りがかりにチラッと見たとき、殺人事件という見出し記事が見えた。今朝の話の続きをしているのだろうか。僕は近くの本棚を物色する振りをして、立ち止まった。
「海音ちゃんが言ってたことだけどさ」
バレー部女子が小声で囁いた。
「連続殺人鬼に狙われる人間の法則。あたし、その話ネットで見たことあるんだ。これまで五人が殺されているらしくて、日曜日のを入れて五人ね。でもさ、五人も殺されているのに、どうして警察や新聞は大騒ぎしないんだと思う?」
図書委員女子が答える。
「んーと、情報を制限しているんじゃないの? 犯人を刺激しないためとか、殺されちゃった人たちの共通点がまだはっきりしてないから、とか」
「ううん。正解は、五人とも存在しない人間だから」
「……存在しない人は殺せないよ。どういうこと?」
「あたしもちょっと読んだだけからよく分からないけどさ」
と断りを入れてから、バレー部女子は説明する。
「存在しない人間ってのはつまり、死亡届がすでに出ていたり、戸籍がなかったり、別人が成り代わっていたり……。そういう、法的に生存が証明できないってこと。新聞が騒ぎ立てようとしても、できないんだ。だってこの世に『存在しない人間』だから」
「存在しない人間……? 何それ」図書委員女子が困惑する。
「まるで漫画の話みたいだよね。名前は偽名。身分証は偽造。住所不定、身元不明、正体不明。……死んだときにしか、存在を認められない人たちを、犯人は殺す。そういう意味じゃ、犯人は死神なのかもしれない」
「……何だか、寂しい話だね」図書委員女子が呟いた。
奇妙な沈黙が落ちた二人のそばから、僕はこっそりと離れた。これ以上二人の近くにいたら、あからさま過ぎる。僕は、何も借りずに図書室をあとにした。
教室に戻ってからは、昼休み終了までぼーっとして過ごし、五時間目の英語が始まってからは今日発売の漫画雑誌のことを考えて時間を潰した。ちなみに授業の内容はちっとも頭に入っていない。英語の授業は、英語教師の教え方が下手だから嫌いだ。
月曜日は五時間目で終了だ。授業のあとに掃除をして、帰りのホームルームとなった。担任が明日の予定を僕たち生徒に話していく。最後に駄目押しのように、登下校をくれぐれも注意するように、との注意がなされた。
「それじゃ。さようなら」担任が快活に言った。
部活があるクラスメイトたちが教室を飛び出していった。僕は二年一組の教室を出てから職員室に寄り、担任からプリントを受け取った。病欠した親友君に届けるものだ。僕が欠席した日にはいつも親友君が自宅に持ってきてくれる。持ちつ持たれつだ。
次にサッカー部の顧問のところに行って、今日の部活を休むことを伝えた。
「昨日、自主練で痛めてしまいまして……」
ズボンの裾をまくって靴下を脱ぐと、赤く腫れた右足が現れた。昨日、警察署から帰宅してから気付いた怪我だった。素足で老女の腕を蹴ったときに、自分の足まで痛めていたようだ。
「そうか、安静にしろよ。土曜の練習試合には参加できるか?」
「はい。大丈夫です。三日で治します」
僕は顧問に頭を下げて、職員室を出た。玄関で靴を履き替えて下校する。
学校を出た僕は、まっすぐ親友君の家にお見舞いに行き、親友君と有意義な時間を過ごしてから帰宅した。家に着いたのはちょうど六時だった。今さら出かけるのはおっくうなので、謎の女性からのお誘いはぶっちすることにした。罪悪感は微塵もない。ちゃんと用件を説明しない相手が悪い。
というか、素直に誘いを受けたら墓穴を掘るような気がしてならない。あの背の高い女性はぶっちぎりに危険な匂いがする。ここで無視しても、きっと明日以降に付きまとってくるだろうけど、そのときは警察に任せるとしよう。
テレビを見て、夕食を食べて、お風呂に入って、部屋で宿題をして。
とんとんとんとん、といつもの日常をこなしていったら、午後十時を回った。良い子はもう寝る時間だ。僕は布団を敷いて、部屋の電気を消す。
今日は何事もなく、平穏に終われてよかったなぁ、と。
僕は布団の中で、ほっと一息吐いて目を瞑った。
今日のモットー。怪しい藪には飛び込まない。
では、おやすみなさい。