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ウィーク  作者: 宇佐見きゅう
過剰な日曜日
2/26

日曜の朝にありがちなこと

 意気揚々と出発した僕は、家の前で近所のおじいさんと会った。


 朝の散歩中に僕の家の前を通りがかったようだ。「おはよう」と声を掛けられ、僕は会釈を返した。それからわずかな礼儀を思い出し、「おはようございます」と声を出した。


 背筋のまっすぐしたおじいさんは老眼鏡の向こうでしわだらけの目を細め、僕の顔をまじまじと見つめてきた。


「君は、流さんちのお兄さんの方だったっけ?」

「うちは子供は僕だけですよ。ええと……、散歩ですか?」


 僕はおじいさんの名前を知らないのを誤魔化しつつ、世間話を投げた。おじいさんの方も名乗ろうとせずに、嬉しそうに目を細めて頷く。


「そ。私の唯一の健康法。君は今週も忙しいかい?」

「さあ、過ごしてみないと分かりませんけど」

「危ない目に遭わないように、と君に言っても仕方のないことか。私も現役だったらねえ……。すっかりここの空気に馴染んでしまったよ」


 と、このように少しボケが始まっている愉快なおじいさんである。時々変なことを口走ったりするが、話を聞いている分には無害なのでありがたい。


 そのあと天気の話で話題が尽き、無言の時間が生まれた。


 世間話が終わったとき、おじいさんが急に胸を押さえて倒れさえしなければ、僕はそのままそこから立ち去っていただろう。


 おじいさんは前のめりに倒れ、心臓の辺りをすごい力で掴み始めた。苦悶の表情を浮かべ、声を出すこともできない様子だ。いかにも死にそうである。ここで僕が携帯電話を持っていたらすぐに救急車を呼べたのに、まだ中学生の僕は中学生であることを理由に携帯を持たされていない。他の家の子は中学生であることを理由に携帯を持たされている事情を思うと、家庭が違えば、国が違うとはまさにこのこと。


 そんなことを愚痴っている場合ではない。今は緊急事態だ。


 死にそうになっている人間を見殺しにするわけにはいかない。

 どうも苦悶の隙間から漏れる小声を拾っていくと、家に薬があるから取ってきて欲しい、とのことだった。救急車を呼ぶ必要もあるだろう。早速行動を始めた。


 僕は一度自宅へ戻り、玄関先で「すぐに救急車呼んで! おじいさんが倒れてる!」と叫び、両親の返事を待たずにおじいさんの家に向かった。


 おじいさんの家は、僕の家から五十メートル離れた坂道の途中にある。僕は全力で走った。おじいさんの家に着いた。ラップタイムは六・六秒。イエイ新記録! なんて喜ぶのも束の間、玄関のドアを開けようとした僕は、すうっと背筋を冷やす。


 ドアが開かない。鍵が掛かっているのだ。


 マジか……。マジだ! 混乱した僕は、一旦おじいさんのところに戻るか、どこかの窓を壊して進入するかを迷って、第三の選択肢を選び、インターフォンを押した。おじいさんが家族と住んでいるなんて話は聞いたことはないけど、その可能性に賭けてみた。


 二十秒待ったのち、もう一度インターフォンを押した。少しすると、ドアがそっと開いてしわの寄った女性が出てくる。おじいさんの妻だろうか。 


「はい、どなたさま?」


 その女性は、おじいさんより若く見えた。十歳から二十歳くらい違うんじゃないかな、と変なことを分析する。僕から見たら十分おばあさんだけれど。


 僕は、おじいさんが心臓の発作を起こして、危険な状態であること、すぐにでもおじいさんの薬が欲しいことを、その老女に伝えた。

 すると老女はまったく慌てていない様子で、「それは大変ね」と頷いて、玄関のドアを閉めようとした。僕は慌てて、ドアの隙間に足を挟んだ。


「ちょっと! どうして閉めようとするんですか? おじいさん、危険なんだって」

「いやねえ……。あんな人、別にいいじゃない。もういい歳でしょ?」

「家族じゃないの? よくそんなこと平気で言えるね」


 老女の細腕では僕の力に敵わず、僕は家の中に押し入った。玄関には女性用の靴ともう一足、ピカピカの革靴が置いてあった。

 老女が慌てた様子で何かを叫んだみたいだけど、僕は無視する。


「こっちかな? 薬の袋があるのは……」


 廊下を進んで、居間だと思わしき部屋を覗いた。結構散らかっていた。タンスが開けっ放しにされて、棚やふすまも全開で色んな物が引きずり出されている。布団も無茶苦茶に荒れている。嵐の過ぎ去ったあとのような、これではまるで……。


「……泥棒が入った現場、みたいな?」


 追い付いてきた老女が、罰が悪そうに言い訳した。


「……見られちゃったかい。ごめんねえ、散らかってて。これを見られたくなかったんだよ。整頓しようと思ってんだけど、やっぱり年のせいか……」

「いや、というかあなたの顔、この辺で見たことないし。泥棒でしょ」

「……あれなんだよ、つい引き篭もりがちになっちゃうのさ。何でもかんでも面倒になっちゃうのさ。片付けって昔から嫌いだったんだよ。坊やも嫌いだろう? そんな悪癖はこんな年になっても続いちまうんだから、嫌だよね」

「いや、泥棒でしょ。もう分かってるんだから、とぼけなくていいって」

「……何を言っているんだい。まったく、人を疑うなんて酷い子だね」


 ボケが始まっているのだろう老女の戯言を無視して、僕は荒らされた室内を物色する。おじいさんの心臓の薬は常用薬だろうから、よくあるお薬用の紙袋に入っているのだと思われる。


 ……が、室内は物という物で溢れ、しっちゃかめっちゃかに掻き回されているのでなかなか目的の物を見つけられない。


 泥棒の老女は僕の行動を見て、何を勘違いしやがったのか、掃除機のノズルパイプの部分を握って殴りかかってきた。


「ちょっと! 警察を呼ぶつもりだろ! 止してくれ!」


 パコパコと掃除機のパイプが僕の背中や肩を滅多打ちにする。プラスチック製で老女の細腕による殴打とはいえ、人の全力で振り回される掃除機パイプは普通にその場に蹲りたくなってしまうくらい痛い。どうやらこのイカれた泥棒女は、僕が探しているのが電話機だと思い込んだらしい。


 老女は防御体勢に入っている僕を尻目にいち早く洋服の山の下から固定電話を発掘して電話コードを引っこ抜き、ヒステリックにパイプで叩き始めた。何度も振り下ろしているのだが、狙いが外れて床を叩いたり、固定電話の下に洋服が散らばっていて衝撃を吸収してたりするので、なかなか破壊できずにいる。老女はきっと真剣なのだろうが、追い詰められている人間の行動という奴はどうしてこうも滑稽に映るのだろう。


 僕が起き上がったのに気付いた老女は罪のない電話機への破壊工作を中断して、こちらに振り向き、目を据わらせて掃除機のノズルパイプを構える。


「……ここで捕まって堪るかい。まだまだ金が足りないんだ」

「うっさいうっさい! そんな場合じゃないんだって! 分かれよ!」


 流石に温厚な僕でもブチ切れた。怒鳴ってしまったのは失敗だったかも。

 老女はさっと顔色を変えて、警戒心を高める。もうテコでも動かない雰囲気だ。あちゃあ失敗した。これでもう説得ルートは消えてしまった。あとに残っているのは、さっさとこの家から退散するか、この老女を殴り倒すかの選択肢だけだ。僕はただおじいさんの薬が欲しかっただけなのに、どうしてこんなことになってしまったのか……。


「……じゃあ、僕は帰ることにするよ」


 とりあえずプランAだ。AとかBとか決めてなかったけど、最初に実行する方がA。

 老女はさっと動き、廊下に立ち塞がって両腕を広げた。


「大人を呼んでくるつもりだね。させないよ」

「じゃあどうしろってんだ……。あんたが逃げるまでここにいろって言われても、あんたが逃げたあとに大人を呼ばれたらあんたは逃げ切れんのか? どうせ誰も呼ばないって約束したとこで信じてくれないんだろ?」


 いつかこのババア、口封じのために僕を殺していくんじゃないのかな? そんな不穏な未来がチラついてきた。

 いざとなったら、いざだな……、と僕は覚悟を決める。サッカー部に所属している僕は、キック力には自信がある。しかし、嫌だなあ、老人とガチ喧嘩。


「そこに座りな」


 老女は命令してきた。このお婆さま、ご自分の置かれている立場を分かっていらっしゃらないのでせうか。僕の優しさで見逃してやっているのに、たぶん僕の見た目が気弱に見えたりするから、僕が手を出してくるなんて思いもしないのだろう。


 掃除機のパイプで脅されようが、母のフライパンの方が怖いってもんだぜ。


 とりあえず隙を見て逃げる作戦にしよう。僕は老女の命令に従って、その場に腰を下ろそうとし、腰を曲げた直後、お尻にチクリと痛みが走って中腰で止まった。やばい、このまま座ったら危険だ!  ズボンのポケットに入れていた物の存在を思い出した。


 その途端、僕の頭に天啓が舞い降りた。廊下で老女と対峙していた中腰の僕は、盗塁を仕掛けるランナーがごとく、いきなりダッシュを仕掛けた。それは老女が塞いでいる玄関方面ではなく、逆側の台所方面に向かって。


「……ッ! 逃がさないよ!」


 老女は反射的に追いかけてきた。逃げ道がないと分かっていても、敵に逃げられると追いかけたくなる臆病者の習性である。それとも僕が台所で武器を入手することを怖れているのかな。

 台所に入る寸前に、僕はポケットに入れっ放しだった画鋲をばら撒いた。僕の靴に仕込んであったのを回収したものだ。


 撒かれた画鋲に老女は止まろうとするが、つるつるの廊下で老女の足が滑り、そのまま画鋲のデットゾーンにまんまと踏み入れる。


 僕が目を背けると同時、「あヶウやはなッッッ!」と異世界の言葉のような滅茶苦茶な悲鳴が聞こえた。いやまあ、あの数の画鋲を踏んじゃったらねえ。


 悪人に同情の価値はないと言っても、痛む心はある。画鋲を踏んだことに対してじゃないよ。これから僕がすることに対しての話。

 老女が尻餅を着いて、画鋲の刺さった右足を押さえている。僕は老女の近くまで行った。僕の手には食卓用の椅子が一つ。それを老女の頭上で振りかぶった。


「や、やめて!」条件反射で頭を庇いながら、老女が情けない声を出す。

「いや、やめてって言われても……」


 あんた悪人だし、人の命を見殺しにしようとしたのだし、もう執行猶予を与える意味はないと思うのだけど。

 

 もっとも、僕だって無抵抗の人間をぶん殴ってスカッとする快男子ではない。振り上げた椅子をゆっくり下ろしながら、老女に言った。


「殴られたくないんだったら観念して、動かないでいてくれる?」

「う、うん、うん」

 痛みか恐怖かで両目に涙を浮かべつつ、老女は頷いた。


 その手が掃除機のパイプをぎゅっと握り締めたのを見つけた僕は、ペナルティーキックの要領でその手首を蹴った。えい。


 絶叫が鳴った。


 おばあさんったら怪鳥の生まれ変わりなのかな? 喧しいなあ、たかが片手の骨がポキッと折れたくらいで。大体、サッカー部なんて足の骨とか折るのだ。足首もぐねりと捻るし額を切って縫ったりもする。それが日常茶飯事なのである。老女の声がうるさいのは仕方ないとして、こんなに騒がしくしたら近所の人が来ちゃうんじゃないかな。


 泥棒を無効化した僕は、それからゆっくりと(あくまで気分的なもので、実際はスピーディに)薬を探し回り、判別が付かなかったので全部持っていくことにした。

 出る前におじいさん家の電話で119を掛けるのも忘れない。


「もしもし、急病人がいます。心臓を押さえています。七十歳くらいの男性です。住所は……」と僕の家の住所を伝えて、最後に付け足す。「あと、骨を折った女性が一人」


 薬は持った僕はおじいさんの家をあとにした。


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