寝起きの決意
僕は母を殺すと決意した。
今日も僕が休日にも関わらずに朝早く起きることができたのは、母がフライパンで叩き起こしてくれたからで、使い込んでいるフライパン特有のザラザラした底面でぶっ叩かれた僕の額は赤く腫れている。真っ赤に腫れ上がるほど強烈かつ鮮烈しかも情熱的に叩いてきたのだ、あの母は。
心当たりは……ない。
最近、母の機嫌を損ねたことはないはずだ。
いいや、そもそもどんな理由があったところで、家族を鋼鉄の調理器具でぶん殴るなど、到底許されることではないのではなかろうか。一歩間違えれば虐待の刃傷沙汰の殺人未遂だろう、これって。母は昔から(それこそ僕が幼稚園児の頃から)話の通じない人で、いつか何かを仕出かすのではないかと冷や冷やしていたのものだが、まさかその凶刃が僕に向けられようとは。棚からぼた餅の逆verだね。
まあいい。
親の奇行には優しくそっと目を瞑ってやるのが一人息子の役目だ。
殴り起こされた直後は柄にもなく殺意に目覚めてしまったが、別に出血はしてないし脳挫傷も起こしてないだろうし、優しさの延長線だと解釈できなくもない。さっきの浅はかな決意は撤回しよう。愚かな復讐の連鎖は止めるべきだ。
寝起きのせいか、頭がおかしな方向に働いている。僕はヒリヒリと膨らんだたんこぶをソフトタッチに撫でながら、布団から這い出た。
僕は起こされるのが嫌いだ。特に嫌いだ。大嫌いだ。眠たいのに起きなきゃいけないとかどんな拷問だと思う。眠らせない拷問というのがあるらしいが、僕は運のいいことにこれまでそんな拷問を受けたことがない。眠らせない拷問。想像しただけで恐ろしくて眠れなくなってしまいそうだ。
学校で授業中に起こされるのはまだいい。気分はよくないけど、起こしてくる先生の言い分も分かる。向こうも仕事なんだ、と先生には解釈してあげて、目を瞑る。そしてそのまま二度寝を敢行するのが毎日のルーティン。
学校は寝る場所じゃないよ、学ぶことは多いんだから、時間を無駄にしてはいけないよ、ってよく親友くんに注意されているのを思い出した。寝起きのタイミングでも脳裏にマジマジとよみがえってくるのだから、それだけ親友くんの思想が僕の頭の中に棲み付いているという証明だ。僕と親友くんの友情に乾杯。
さて、寝言をほざくのはここまでにしようか。
とりあえず今日も気持ちのいい朝だ。
すっかり目を覚ました僕は自室を出て、一階に下りていき、風呂場前の洗面台で顔を洗った。冷たい水で寝汗を拭い去り、さっぱりしてから顔を持ち上げると、洗面台の鏡に映った自分と対面した。
「おはよう僕」
そこには中学二年生の日焼けした男子が映っていた。
ひょろりとした体躯は、僕のささやかなコンプレックスだ。嫌な夢でも見てしまったのか、目の下に黒々としたクマがある。口元には間抜けなよだれの跡。愛玩用の小型犬を思わせる垂れ目は、親戚一同からはお母さんによく似ていて可愛いと評判なのだけれど、屈強なスポーツマンを目指す男子の身からすると何とも情けないような面映いような。
毎回思うけど、あまり自分の顔って見ていたいものじゃないなあ。
僕は鏡の向こうの分身から目を逸らして、今年に入ってからちょっと突き出てきた喉仏をさすりさすりしながら、両親がいる居間に向かった。
システムキッチンの横を通り、ダイニングテーブルの席に着いた。
テーブルに並んだ今朝の朝食はハムエッグとみそ汁とご飯の献立。僕のご飯茶わんには、僕の箸が垂直にぶっ刺さっていた。恐らく母の仕業だ。やっぱり何かしてしまったようだ。やれやれ、粘着質な母親を持つと苦労するぜ。
僕は「いただきます」と両手を合わせ、ご飯にみそ汁を掛けたあと、その上にハムエッグを乗せてから、足元にじゃれ付いてきたペットのコリー犬に「ほーら残飯だよー」と笑いかけて、それをあげた。
朝食グッバイ。
さてどうしよう。
ついカッとなって朝食を無駄にしてしまった僕は手持ち無沙汰になる。
ここで「お母さん、お腹空いたから何か食べるものない?」なんて言った日には、母から憤怒のアイアンクローを食らうこと間違いなしだ。
いやはや、懺悔懺悔。考えなしで動くもんじゃないなあ。
別のことを考えよう。とりあえず今日は何をして過ごそうかな。今日はサッカー部の練習もないし、テスト期間でもないので完全フリータイムである。家にいてもすることはない。っとなると親友くんの家にでも遊びに行こうかな。
向かいの食卓で朝刊を読んでいた父が、僕の方に新聞を差し出してきた。これで暇を潰していいぞ、ということらしい。僕は父の優しさに感謝しつつ、新聞を受け取って中身に目を通す。
ほうほう、最近の政治は荒れてますなあ。よく知らんけど。何なに? 某国民的アイドルグループが覚醒剤所持の容疑で逮捕? 芋づる式に容疑者が出てきて、芸能界の安否が騒がれるって? こういう騒ぎって常に起きているイメージだな。……ほほう、男子児童を標的とした連続誘拐事件が関東圏で起きているだって? 怖いなあ。一応僕の住んでいるところも関東に含まれているってのに。
最後に四コママンガを読んで、新聞を父に返した。
あー、面白かった。
楽しい楽しい暇潰しも終わってしまったので、僕はランニングに出かけることにした。清々しい朝の空気を吸いたい気分って奴だ。
「ちょっと走ってくるよ」
「ああ、車に気を付けてな」
父とやり取りして、僕は玄関に向かった。
「いってきまー……ッて!」
運動靴に突っ込んだ右足の裏に鋭い痛みが走った。足を持ち上げて見てみると、靴下に丸い金属が刺さっていた。いわゆる画鋲だ。僕の靴の中にブービートラップが仕掛けてあったようで、はてさて、こんな悪趣味な悪戯をするのは誰だろうと、食卓の方を窺ってみるが、父は新聞に顔を背けて知らん振りを決め込みやがっており、その隣では母がそ知らぬ顔で味噌汁を啜っていた。いやまあ、容疑者は最初から一人しかいないわけだけど。
ここまで来ると天晴れというか呆れてくる。小学生のような悪戯をねちねちと、よくもまあ。昼ドラに出てくる姑だってここまで陰湿ではないぞ?
「お母さん。僕、何かしたっけ?」
呼びかける、されど返事は冷淡なもの。
「別に、何も」
あっそ。じゃあいいや。
交渉の余地がないなら仕方がない。こちらもクールに受け流すとしよう。許すつもりがないくらい怒り心頭なのか、本当は母の仕業じゃないのか、あるいは本気で悪意なしの親子同士のスキンシップという可能性も考えられる。考えたくはないが。
いずれにせよ、数日経てば飽きてくれるだろう。僕がむきにならなければ、悪戯している母もやっていて虚しくなるはずだ。それまで母の児戯に付き合ってあげよう。
僕は中学校指定の白い運動靴を引っくり返して、画鋲を全部落としてから履き直した。画鋲を玄関に放置しておくと愛犬が誤飲してしまう恐れがあるので、ちゃんと回収しておいた。ジャージのポケットに回収した画鋲を突っ込む。
「いってきまーす」
改めて宣言をし、今度こそ玄関を飛び出した。