帰還3
露店で蓄えた荷物を背負い、急な山道を進んでいく。前を歩いく、齢六十を超えた老師匠の足取りは、玖よりもずっと軽い。これを年の功と言わずして、なんと呼ぼう。
霧の立ち込める道中は視界が悪い。おまけに道らしい道でもないので足場も悪い。何度も足を取られそうになっては危うい所で師匠に助けられる。
早朝に発ったにも関わらず、元道場に着いたのは昼を過ぎた頃だった。
岩が飛び出た山道が石造りの階段に変わり、それを登りきると広い平地に出た。
雑草が隙間なく茂っているが、そこで恐らく武術の指導でも行なっていたのだろう。そしてその庭に囲まれるようにして、大きさの異なる円柱形を二つ重ねたような建物が、苔に覆われながらそこにあった。
師匠が扉に手を掛けると、ぎしぎしと軋むような音がして扉が横に動いた。扉が動くとともに張り付いていたらしい埃が舞い、一面が真っ白になる。
玖は埃を払うように手を振り、口元を押さえながら中へ足を踏み入れる。床が音を立てたが、案外しっかりとした感じである。最悪使い物にならないという可能性もあったが、これならば心配は要らないだろう。
(そういえば)
玖は周囲を伺いながら考える。
(仙人とやらがいないじゃないか)
どこもかしこも埃まみれで、長いこと人が使っていたという様子ではない。
(噂なんてこんなものか)
玖は少々残念な気がしながらも、まあこれでいいのだと納得する。平穏であること、それが一番だというのは、この長旅でつくづく思い知らされた。
「とりあえず、掃除だな」
師匠が腕をまくりながら言う。少し休みたい気もするが、このままではそれもできないので、玖も大人しく従う。
まず師匠とともに一階の掃除をし、ある程度片付いた所で二階の掃除を頼まれる。
師匠の他に、数人の弟子が住み込みで修行していたとあって、二階にはいくつもの小部屋があった。どこも漏れなく埃まみれであるのは、見なくともだいたい分かる。
どうせ二人で住むのだから、全部屋綺麗にする必要はないと思うのだが、気まぐれなくせに几帳面な師匠が許しはしないだろう。
あまりやる気は起きないが、仕方がないので箒と雑巾を携え部屋から部屋へと掃除して回る。埃という埃を掻き出し、隅まで徹底的に磨き込む。山登りの疲労もあってヘトヘトで頭が回らないが、そのおかげで心が自然と無になる。
いくつかの部屋を掃除し終えたところで寝台つきの、これまでの部屋より随分と質の良い部屋を見つけた。
恐らくここが師匠の部屋か、師匠が遠慮してくれたら自分の部屋になるのだろうと思い、他より丁寧な掃除をしようとしたところで、玖は立ち止まった。
何故かその部屋の様子に、仄かな違和感を感じた。頭を働かせていないが故に感じた、ほとんど山勘のようなものであった。そのため何がどうおかしいのか、玖にはその正体が分からなかった。
よって玖はその違和感の正体を探ろうとはせず、そのまま放っておくことにした。玖は勘などというものをアテにしてはいなかったし、何より正体を探るということは、考えなければならないということである。そんなことより今は、部屋を片付けるという単調な作業に身を置いていたい。
そんなわけで埃も違和感も共に消し去り、玖は次の部屋へと移った。そしてもう一部屋寝台つきの部屋を見つけて喜んだりしながら、その日のうちに全部屋の掃除を終えた。
その頃にはもう、すっかり仙人のことなど忘れていた。
師匠の用意した簡単な夕食を終え、玖は与えられた最初に掃除した方の寝台つきの部屋に荷物を投げ入れると、自分も寝台の上に倒れこんだ。そしてそのまま体を丸め、うとうとと眠りについた。
玖は気持ちの良い夢に浸っていた。師匠とともに、あの劉帆とかいう青年がいるのとは別の薬屋を開き、長閑な生活を送る夢である。
(極楽だな)
玖はうんうんと大きく頷き、満足気な表情で夢の世界を満喫する。
しかしそれは突然に破られた。
夢の中で、師匠は玖の頭を撫でた。撫でたと思ったら、長い前髪の下に手を入れ、そして大きな傷の入った肌に触れてくる。
それが師匠の手ではないことに、すぐに気がついた。師匠の、皺とたこで硬くなった、ゴツゴツとした手ではない。目の前にいた師匠の像がゆらゆらと風に晒された水面のように揺らめき、ぼんやりとした暗闇に変わる。
闇に紛れるようにして、人の姿が見える。夢では無いと、玖はすぐに分かって意識をこちらに無理矢理持ってくる。
その人物は寝台に横になった玖を見つめていた。玖の前髪を持ち上げ、黒い瞳は差し込む月光で青みを帯びて焔のようにチラチラと輝いていた。
美しい青年であった。長い柔らかそうな髪が夜風に揺れていた。その美しい青年が、玖の寝ている間に寝所に忍びこんでいる。
声を上げるより先に青年に頭突きを食らわせ、不意を突いてのしかかった玖は、当然のことをしたまでだと言える。