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孤狼 (ころう)  作者: 日野 哲太郎
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孤狼

 天地は悠久として生きとし生けるものの愚痴を嗤い、幾百年の時を生きる松柏は一貫不惑、天地の悠久をまねようと青天に枝を伸ばし仁王のごとく峙立している。苦難の歳月を経た古木は地下の深みへと根をおろし、空の高みへと枝をひろげ、群れをなして朝夕の風に唸りながら、天地に躍動する生命の力量を黙示しているのである。それは生命の神秘、久遠の魂を一身に具現して大気に食い入る牙のごとく聳えている。

 されど古木よ。汝もまた生あるものである。天地の雄大に較べれば、汝はいかに小さなものの譬喩であることか! いみじくも古人は看破した。天地の悠久に比せば松柏も一時蝿なりと。

 齢幾百の松の木よ。山の天辺のごつごつとした岩場にて風雨を忍び酷暑に耐えてたくましく成長する、それは生きるものにとって苦しみでしかないのだが、落雷に打たれて朽ちはてることさえも天地の瑣事にすぎぬことを知れば、すべては悠久の勝利である。死にゆくものの悲哀とは、悠久なる天地への讃嘆の表面にすぎぬと申すべきである。今日も狂いなく天地は運行し、陽光は宇宙にあふれているではないか。

 風は流れ、水は巡り、地は騒ぎ、鳥は飛び、雲は行く。

 木々の命は寒に耐え、春に萌え、夏に繁り、秋に稔り、いずれは枯れはてて生まれ来りし土へと帰りいく。命あるものの変転、大地への回帰と新生とは古今東西不変の理なのである。

 獣等が牙を剥いて殺し合い流れる血に塗れて啼きさけぼうが、山が火を噴き大地が亀裂し都が業火に焼けただれようが、天地は泰然として常に不滅の勝利者である。


                〇


 松柏の獣道を千鳥のごとき足取りですすんでいく老いさらばえた狼がいた。雄大な山野を背にした狼の有り様は見るからに滑稽であった。特大の西瓜を乗せるためのお盆に干涸らびた小豆が一粒乗っているようなものである。それは動物というよりはむしろ珍種の塵であった。お盆にそぐわぬ小豆は、山風に吹かれてコロコロとこの世の縁へと転げていった。

 もしも今一降りの雨があったなら、左耳の切れた鯣のようなこの狼は野垂れ死にするに違いない。狼はこの半月あまりというもの子兎の一匹も腹に納めてはいないのだった。山羊のごとく草を喰らって飢えを凌いできたのである。獲物に出会わなかったわけではない。それを捕らえる狼側にささいな落度があったのである。

 十日ほど前の夕刻である。とある森の中ですばらしい肉付きの雌鹿に出くわした。狼は好機到来とばかりに鹿を追った。ところが、事もあろうに追撃の途中、松の根っ子に蹴つまずいたのである。狼は勢いあまってしたたか頭部を打った。駿足の鹿は鼻で笑ってささやかな油断を見せた。敵に後ろみせ、尻尾をふり、楓の葉を噛んでいる。すっかり見下されていることに腹を立てた狼は、背をひそかに弓のようにたわめ、四五間ほど向こうの小癪な鹿のその尻目がけて一気に飛びかかった、と思いきやその刹那、鹿の後ろ足が助骨を直撃したのである。低空飛行であった狼の胸板は、銅鑼の音のごとく無残に鳴りひびいた。

 勝負の決した状況のもとには、狼の赤い痛みと惨めさだけが鐘声のごとき名残をとどめていた。雌鹿はいない。在りし日のジャンプは今や夢である。朽ちた流木の命のごとく戻ることなき幻である。狼は唸った。なぜ儂は死ななんだのじゃ! 雌鹿に蹴殺されなかったのが、まさに不幸中の不幸というものであった。

 それからの事である。家畜にも劣る生活がはじまったのは!

 狼は口許から一筋の血をしたたらせた。追いかけても獲物はやすやすと逃げ去ってしまう。身は細る一方なので草根を喰らい命脈をたもった。しかるに草を受けつけない胃腸の構造により、青反吐は吐く、下痢はする、生気はしぼむで、日ごとに身体は衰弱したのである。そこで巳むなく草を食み、土を掻いては根を喰らった。若き日には大地を我が物顔に駆けめぐっていた狼が、今や大地に捨てられている。ああ、老いこそが、それらすべての災厄の原因であった。



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