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Waltz for Debby

作者: 古藤正志

 そう。今は梅雨の時期だった。

 やっと思い出せるくらい久々の雨が朝から降り続いていた。あと二日で六月も終わるというのに今月に入ってから三日も降っていないのではないだろうか。溜めていた仕事を月末に一気にこなそうとする様は、月末の銀行員の仕事ぶりと同じようだった。

 今年の梅雨は、時期が遅いわけでもなく、短いらしい。それも極端に。メディアでは連日、異常気象についての報道がなされていた。一昔前、Jリーグで活躍した外国人選手と似た名前らしいことは知っていても、どんなものなのかも興味がないし、いつ梅雨入りしたかもよくわからない。晩の暇な時間を潰すため、いつものようにバーに出かけた。


 店に入ると、客は若いカップル一組だけだった。テーブル席に向かい合って、バーには珍しく豪勢なディナーを賑やかに食べていた。カウンター一番奥のスツールに腰掛け、セッターに火を点けた。一分ほどしてから厨房から滝本くんが現れた。気付かなかった非礼を詫び、すぐに灰皿を置き、おしぼりとメニューを出した。

 僕はもう常連と言っても差し支えはないのだろうが、毎回メニューに目を通してからオーダーする。特に理由はない。

「ビールを。アサヒで」

 僕はバーに限らず酒を置いている店ではいつもビールを最初に注文する。メニューは二杯目から見ることになる。

「わかりました。いつものですね」

 にっこりと笑い、ボックスの中からビールより冷えているであろう氷漬けになったグラスを取り出し、慣れた手付きでビールをゆっくりと注いだ。グラスはタンブラーというにはあまりに細長いものだ。グラスに浮かんだ水滴をさっとふき取り、コルク製のコークスの上にゆっくりと置いた。表面張力が効いた水面のようにギリギリに保たれた泡はフツフツと音を立てた。ソフトドリンクといいビールといい、こういう店では凝った物にしてくれる。もちろん中身は既製品だ。僕にとっては中身が変わらない以上、どっちでもいいのだが、腕を磨いたバーテンの手付きを見るのは嫌いではない。

 しばらくしてカップルは店を出て行った。男の方と一瞬目が合ったが、僕の姿は視界に入っているだけで、頭の中はどうセックスに持ち込むかその過程をシュミレートしているのが容易に見受けられた。女の方は男に肩を摺り寄せヨタヨタと歩いていった。

彼のことを女は狼というのかもしれない。酒を飲ませて事に及べば、下手すれば準強姦にあたる。いや、女の方は酔った演技で男をベッドに誘い込むのかもしれない。狼か狸か。彼らが一夜の関係なのか付き合っているのかはわからないが。

 それから一時間、僕と滝本くんはポツポツ話し、いつの間にか僕は考え事を始め、彼もこれから来る客のために氷を整形し始めた。彼も考え事をしているようだった。バーテンダーにも色んな人間がいるが、彼は大人しい方ではない。僕と歳が一つしか離れていないこともあり、僕らは話が合った。こんなに話さないのは珍しい。悩み事があるのかもしれないが、僕は自分から訊くようなことはしない。


 ここのマスターは、フランス映画に出てくるようなバーテンで自分から話しかけてくるようなことはまずない。もちろん客が話し掛けてくると、話し相手にはなる。基本的に寡黙な男で、口ではなく腕で語る生粋のバーテンダーだ。

考え事をするネタを探すことにも飽きた僕は、天井の際に置かれたスピーカーから流れる音楽に耳を傾けた。ボサノヴァ調の曲で、歌詞を辿っていると、MISIAの『Everything』をアレンジしたものだと気付いた。そういえば、ここでインスト以外の音楽を聴くのは初めてかもしれなかった。今、流れているのは滝本くんが選んできたものだろう。

いつもはジャズ、特にジャズピアノの比較的ポピュラーなものが流されている。ビル・エヴァンスやオスカー・ピーターソンが多かったように思える。ここはジャズバーではないから、フリージャズなどはまずかけない。いつだったか、僕とマスターしかいない時に店の奥からレッド・ガーランドのレコードも取り出し、珍しく、熱く語ってくれたことがある。マスターはフリージャズが好きらしい。

 次の曲に移った。今度はいよいよわからなくなった。

カップルが店を出てから、客は一人も来なかった。給料日後の金曜の夜にしてはかなり珍しい。先週の金曜は、給料日前にもかかわらず二軒目に立ち寄ったと思われるサラリーマンがまとまって来ては次の店に移っていった。今日は雨だ。それも久々の大雨だ。僕は四杯目を注文した。他にすることのなくなった滝本は、僕に断りを入れてからタバコを吸い始めた。取り出したタバコはKOOL。若者には一番人気があるらしい。女ウケが良いのが大きな理由と聞いたことがある。彼がタバコを吸う姿を見るのは初めてだった。マスターはタバコを吸わない人だから控えていたのかもしれない。一本吸い終え、もう磨ききっているはずのグラスをどこからか取り出し、再び磨き始めた。


「今日はマスター、お休み?」

 グラスを磨く手が一瞬止まった。「いえ。先週の金曜日で辞められたんですよ」 そう言ってカクテルグラスを拭き終えると、ショットグラスを磨き始めた。あまりに驚きすぎて、何から訊けばいいのかわからなかった。

「誰がマスターになったんだい?」

「お恥ずかしながら、僕が店長をさせていただくことになりました」

 差し出された名刺には彼の名前の上に『ショップマネージャー』と打たれていた。店のロゴも変わっていない。さらなる疑問が最初に飲んだビールの泡のようにフツフツと湧いてきた。

「先週の金曜だったら俺も来ていたし、店長とも話したけど、何も言ってなかった気がする」

「あの日は古藤さんも来られてましたね。そうですか。三枝さん、何も言わなかったんですか」

 マスターは名刺をくれたこともなかったし、僕もマスターとしか呼ばなかったため、本名を聞くのはこれが初めてかも知れない。

 マスター、いや三枝氏が雇われ店長だったこと、若者向けに店の趣向を変えていこうとする上の方針を受け入れられなかったこと、半ばクビのような状態で退職していったこと、何も語らず静かに去っていったこと、僕が訊きたいことのほとんどを丁寧に説明してくれた。僕は黙って聞いていた。それ以上、訊くことも浮かばなかったし、あのマスターが色々身の上話をしているとは思えなかった。

ゆっくり店内を見渡してから「寂しいですね」と独り言のように言った。客が少ないことか、マスターがいなくなったことに対してなのかはわからない。おそらく後者だと思う。とはいえ、自分が店長になったばかりの時に客が少なかったらさぞかし悲しいことだろう。彼が抱えている悩みはおそらくそのことだろう。今日がたまたまだといいが。

 十時を少し回った頃、突然、人の声が聞こえてきた。音はくぐもっている。店の外の歩道からだろう。この店はガラス張りになっているが防音ガラスを使っているらしく、緊急車両のサイレン以外の音が聞こえてくることは滅多にない。よほど大きな声を発しているのだろう。その声は、サイレンのドップラー効果のようにだんだん大きくなる。近づいているのではなく扉が開いただけのようだった。大声の主がこの店に入ってきたのだ。酔っ払いに絡まれるとろくな事がないため、顔を向けなかった。僕はうんざりした。目の前の男は僕よりもっとうんざりしながらも笑顔で「いらっしゃいませ」と客を迎えた。僕には客商売は無理だなと改めて思いながらも、今やっている仕事が接客業に分類するならどのカテゴリーに入るか疑問に思った。

 二人の声がするが会話になっていない。一人はわけのわからぬことを息継ぎもなく喋り、もう一人は「お前、飲みすぎだよ」と酔っ払いに言い、こっちには「すいません」と言う。後の言葉は滝本くんに言っているようだ。どうやら酔っ払いと介抱役らしい。僕から二つ隔てたスツールに座った。携帯電話をいじる様にしてさりげなく右を横目で見た。サラリーマン風の二人が隣り合って座った。手前に介抱役が座っているから、目が合わない限り、酔っ払いに絡まれることはないだろう。僕は酒も好きだし、酒を好む人間にもどこか仲間意識を感じる。しかし、酔っ払いは大嫌いだ。自分がああいう姿になることへの恐れからかもしれない。

 スツールに着いた途端、酔っ払いの方は借りてきた猫のように急に大人しくなった。ここが騒ぐ店じゃないと冷静になったのかもしれない。いや、ここに来る前の店で飲んだ酒のアルコールが歩いたことで血中に溶け出し、ぐったりとしているのか。どちらにせよ、さっきの店で飲み続けてもらう方が、僕はありがたかった。もう一杯飲んで帰ろうと、五杯目にギムレットを頼んだ。カウンターの前にはビーフィーターが置かれた。氷で冷やされラベルが見えないほど白くなっている。

「ベースを変えてもらってもいいかな?」

「もちろん。ゴードンにしましょうか?」と言ってから、思い出したように「あっ、そういえば三枝さんはタンカレーでしたね。すいません」 ビーフィーターを下げようとした。

「いや……やっぱそれでいい」

「だいじょうぶですよ。タンカレーもありますから」

「いや、いいんだ。気にしないでくれ」 僕の言い方が引っ掛かったのか怪訝そうな顔を一瞬してからメジャーカップにビーフィーターを注いだ。

 僕がギムレットを初めて飲んだのはこの店だった。その頃はまだ酒の知識もなくのっけからギムレットを頼んだ。酒の飲み方に作法はあっても決まりはないし、特に問題はないのだが。その時、マスターは「ギムレットには早すぎる」と笑いながら言った。その言葉が、レイモンド・チャンドラーの小説『長いお別れ』の台詞だと知ったのは、しばらく後だった。ギムレットはその小説に登場したことで有名になったらしい。ハードボイルドというジャンルらしいが、本を読む習慣がない僕にはよくわからなかった。でも、マスターがその小説の主人公のような不器用な人間であることは薄々感じていたし、彼がその小説を好きなんだろうとも思った。

 ほとんどの、いや僕が足を運んだバーでは例外なく、ギムレットのベースには、ビーフィーターかゴードンを使う。レシピは、ジンを四分の三、ライムジュースを四分の一。マスターは、ベースにはタンカレーを用い、両者を半分ずつシェイクする。いわゆるクラシックスタイルだ。僕はその味が大好きで、他のバーでもレシピを指定して作ってもらうことがよくある。どれもここのマスターの味には到底及ばないのだが。いつかまたマスターのクラシックスタイルを飲みたい。今夜はそういう気分ではなかった。「長いお別れ」であって欲しくなかった。


「どこで間違えたのかなあ。あの時、引き止めなかった俺が間違っていたのか。お前はどう思うんだよ?お前ならどうしてた?なあ?」


 物思いに耽っていた僕はすぐに引き戻された。横に座っているのが酔っ払いだったことを思い出した。耳につくでかい声だ。もちろん僕に言った言葉ではないが、内心むっとした。もう少し酔っていたら手が出ていたかもしれない。介抱役の男は適当な返事をしてなだめてから、滝本くんにすいませんと謝った。僕には何も言わなかった。静かに酒を飲む場所をぶち壊す奴を連れてきたという意味で、こいつも酔っ払いと同罪だと思った。それを最後に酔っ払いはまた大人しくなった。


「タクシー呼んでもらえますか? 僕、電車の時間があるのでこれで失礼させていただきます。タクシーが来たら平井に向かうように運転手に告げてください。平井に行く頃には彼も多少酔いが醒めて家まで行けると思います」

 信じられない奴だった。物腰は柔らかそうだが、発した言葉は無礼極まりない。厄介事を他人に押し付けているだけだった。しかし、滝本くんはにこやかに、わかりましたと答えた。

「なあ」

 僕は自分でも驚くような濁った声が出た。「それはないんじゃないの。酔った人間を独り残して。連れて来たのは君の責任だ。せめてタクシーが着くまで待ったらどうなんだ」

 男は突然見ず知らずの奴に言われたからか、鋭い目つきになった。一瞬黙って口をモグモグしてから「ご迷惑おかけします。でも終電がありますので」と頭を下げ、頭を上げるときには僕は視線から外されていた。彼は立派なサラリーマンで、会社でもいつもこうなのかもしれない。さっきの厄介事を平気で押し付ける態度と言い、出世するのはこういう人間なのかもしれないと心の底から思った。


「それではお願いします。お釣りはいりません」 数枚、千円札を出して、足早に店の外に出た。彼はチャージの存在を知らないのだろうか。足りないことはないにせよ、ことさら言うほどの釣りは残らないはずだ。

滝本くんは「ありがとうございました」と言い、聞こえてもいないはずの男の背中を見送った。客商売で成功するのはこういう人間なのだろう。もちろんこっちは皮肉ではない。


 五分もしない内にタクシーは到着し、運転手と滝本くんに支えられ酔っ払いは去って行った。外は静かで雨はやんでいるようだった。

 やっと静寂が訪れた。時計は十一時半を指していた。煙草はもうあと一本になっていた。灰皿には三つの吸殻が仲良く並んでいた。それを見た滝本くんが新しい灰皿に変えようとしたが、あと一本だから結構と言った。

「すいません」

「これだけ飲んだら帰るよ」

「いや、さっきのこと。気を使っていただいて…」

「こっちこそ出しゃばってすまない。こういう商売って大変だね」

「そうですね。でも良いことの方がだいぶ多いですよ。色々な人と知り合えますからね」

「ホストになろうとか思わなかったの? 君なら十分にやっていけると思うんだけどな」

「昔からよく誘われてました。若い子は酒を出す仕事より、飲む仕事の方がいいみたいですね。でも、全く考えたことはないですね。この仕事が天職というか、これしかないんだなとつくづく感じます。まあ酒は味きき程度にしか飲めませんからね」

 滝本くんは僕より一つ上で、今年で二十三になる。僕が通うずっと前からこの店で働いている。確か高校の頃から働いていると話していた。自分の店ではないとはいえ、店長になるのは大変なことだろう。二十そこらでバーを経営する人間はまずいない。岡山は日本で有数のバー激戦区で、ここ中央町は岡山歓楽街の中でも一番の中心地である。


「来週、いつかはわからないんですけど、三枝さん来られると思いますよ。ピアノを持って帰られるみたいなので昼の間だと思いますけど」 グラスを磨きながら、僕の後方に顔を向けた。僕も後ろを振り返った。黒いクロスを掛けられたアップライトピアノが鍵盤をこっちの方に向けていた。

「あれって私物だったんだね。それもマスターの」 ピアノがあることは知っていたが、誰かが弾く姿は一度も見たことがない。置物ぐらいにしか思わなかったし、存在自体も忘れるくらいだった。

「三枝さんはピアノを弾かれるみたいですよ。僕が早く出勤したときに何度か見たことがあります。でも人に見られるのが苦手なのか、すぐに弾くのを止めてました」

「どんな曲を?」

「ピアノのことはあまりよくわからないのですが、あれはジャズでしたね。それは確かです。ちょくちょく耳にしたことがある曲で有名な曲だとは思いますけど」

「一曲、弾いてもいいかな?」  返事を聞く前に立ち上がった。

「ええ、僕のじゃないですが。いいと思いますよ」

 何かに引き寄せられるように僕はピアノの前まで歩いていった。      

クロスをはぐると、茶色い体が姿を現した。クロスが黒だからか、茶色が際立って見える。鍵盤の蓋を開くと「KAWAI」と刻印されていた。造りから見てもかなり年代物のようだ。鍵盤はくすんで黄がっている。相当弾き込まれているに違いない。

椅子を調整しようとハンドルを回すと、キィー、と悲鳴のような音を出した。高さを変えられることを拒んでいるのかもしれない。この高さに調整されて以来、ずっと変えられていないのだろう。鍵盤の上に手を構えた。自然とメロディーが溢れてきた。そのまま指が動くようにまかせた。


 ワルツ・フォー・デヴィー


 僕が初めて聴いたジャズであり、初めてピアノで弾いた曲だった。 

この曲は作曲者のビル=エヴァンスが、デヴィーという少女のために書いた曲だと聞いたことがある。


 ピアノを弾いているというより、弾かされているという感覚に陥った。まるで誘われるようにして最後まで弾ききった。少し鍵盤が柔らかいと思ったのは、弾き終えた後だった。蓋を閉め、カバーを掛け、スツールに戻った。その間、滝本くんはずっと手を叩いていた。

「驚きましたよ」

「僕がピアノを弾くのは意外かな?」 最後の一本に火を点けた。

「ええ。古藤さんがピアノを弾かれるのは正直、意外です。それよりも三枝さんが弾いてた曲と一緒ってことに驚きました」

「マスターもこの曲を?」 僕の目は相当見開いていたのだろう。僕の反応にさっきよりも驚いたように頷いた。

「以前は一ヶ月に一回も弾いている姿を見かけなかったんですけど、今月に入って何度も見掛けましたよ。前は僕が店に出るとすぐに弾くのをやめていましたが、集中してるというか気付かず、弾かれてました。それもさっきの曲を何度も弾いてましたね」

僕はどこか運命的な物を感じながらも「ジャズピアノでは有名な曲だからね」と支離滅裂な返事をした。


 いつの間にか火は指先一センチの所まで迫っていた。すぐに揉み消し、シャツを羽織りスツールから降りた。

「そろそろ帰るよ。ギムレットおいしかったよ」 

「ありがとうございます。また来てくださいね」 少し緊張したものを感じた。店を任されることの不安なのかもしれない。彼なら上手くやっていけるはずだ。

「もちろん。近い内にまた来るよ」

 扉を開けると、もう雨は止んでいた。



 店を出てから五十メートルも歩かない内に雨がまた降り出した。傘をカウンターに忘れたことを思い出した。取りに戻ろうと思ったが、マンションまで五分もかからないためそのまま歩くことにした。日中降っていたのと違い、大した雨ではないようだ。また次に行く時に受け取ればいい。

 桃太郎大通りに続く並木通り。一人の男がしゃがみ込んでいるのが見えた。近づくと、一人でないことに気付いた。背広を着た男が倒れてぐったりとしている。寝ているといった方が適切かもしれない。座っている方は僕に気付いて腰を上げた。薄暗くてはっきり見えないが、かなり若いと思った。服装からして、巡回通りや岡山駅周辺にたむろしている若者の格好をしていた。髪はきついブリーチを施してあるのか、黄色と通り越してほとんど白く見える。僕はそのまま通り過ぎようと思ったが、何かが引っ掛かり立ち止まったこの二人が友達で、飲み屋で隣り合って話をしている姿は滑稽だ。きっと他人同士だろう。倒れている方はいびきに近い寝息を立てている。泥酔しているのだろう。少なくともこの流行ヤンキーに殴り倒されたということはなさそうだ。

 僕が何も訊いていないのにヤンキーは突然話し始めた。

「あっ、わりぃんじゃけど、このおっさんにタクシー呼んでやってくれん? なんかようわからんのじゃけど、タクシーでゲロったみてえで、捨てられたらしいわ」 笑いながら言った。格好からして予想はついていたが言葉遣いがなっていない。そもそもおかしな話だ。タクシーに“乗車後の乗車拒否”を受けた人間にタクシーを呼ぶ。初等教育を受けていないらしい。

「いや、ええわ。自分で呼べ。携帯を持ってない」 もちろん嘘だ。

「ホンマによん? てか、エラそうにゆんじゃな? わし、これから忙しいんよ。まあええわ。死なんじゃろうし、このままでもしゃーねかろー」 学校教育未経験者は桃太郎大踊り方面に向かって歩き始めた。

「ちょっと待て」

「ああん? なんなら?」 

「その財布は?」

「これ?」 コドモはベージュの革財布を首の高さまで上げた。「わしのじゃけど」

「じゃあ、その白い長パンの後ろに挿してある財布は?」

コドモは何かを考え始めた。数秒して名案を思いついたようだ。「これは先輩から預かっとる。さっき行くとこある言うたが、その先輩のことなんよ。てかグチグチ言う前にタクシー呼びに行けや」

「その財布、俺に見せてくれん?」 確信はなかった。ただこのコドモにその財布はかなり不釣合いだっただけだ。違ったら謝ればいい。それだけだ。

「おめえ、ポリみてぇなこと言うんじゃな」 彼は何がおもしろいのか、大きな声で笑い始めたと思ったら、すぐに表情を変え、「じゃあ、先におめえの財布見せてや。中身だけくれりゃええけ」

 初等教育未経験者は、格闘技未経験者でもあった。不用意に僕の間合いに入ってきた。僕は、腕を掴もうとするコドモの手を払いのけ、左耳に付いているいくつかのピアスを思いっきり引っ張った。指にはシルバーの円い細工が一つあった。一つしかちぎり取れなかったが、それで十分だったようだ。コドモは両手で耳を覆い、膝をついて奇声を上げ始めた。ちょうど膝の位置に口があったが、ジーンズに血が付くのを避けるため、左の拳を口元に叩き込んだ。鈍い感触があった。すぐには声を上げなかった。

「勘弁してくれぇ。ホンマ悪かった。財布は返すけ、勘弁してくれぇ」 手に持っていた方の財布を精一杯持ち上げた。

「まあ酔っている人間の財布を取るのはよくないけど、恐喝はおえんで。何も言わなかったらこんなことしてねえからな。気をつけろよ。もう行け」 返事はなかったが、両手で左耳を押さえたまま小走りに去っていった。水たまりで左手についた血を洗った。

 泥酔した男は、何もなかったかのように横たわったままだった。実際、彼は何も見ていないし、もし財布がなくなっていてもどこかに落としたと勘違いしただけかもしれない。とりあえずこのまま放置するわけにもいかないし、さっきのコドモに仲間を呼ばれたら厄介だ。横向きになっている男の肩を揺すると、仰向けになりさっきより大きないびきをたて始めた。急性アルコール中毒からくる鼾ではなさそうだ。急性アル中に陥ると、自律神経が麻痺することで舌が下がり呼吸を妨げるらしい。いびきとは別に寝言のような声もかすかに出している。雨水でスーツはびしょ濡れになっていた。


 よく見ると、さっきバーで酔っ払っていた男だった。友人にも見捨てられ、タクシーにも捨てられ、その上、追い剥ぎに遭おうとしていた彼を、心底不憫に思った。頬を叩いて声を掛けると弱々しい声を上げた。シャツを脱ぎ、水たまりに浸してから、男の顔に絞り汁を掛けた。一瞬目を開けたが、すぐに閉じた。もう一度水を浴びせると今度は目を半開きにして僕の声に反応した。「立てるか?」というと、無言で体を起こそうとし始めた。肩を担いで歩くのも無理だと判断した僕は男を背負い、男の右膝の下から回した右手で、左肩から回した男の左手首を掴んだ。驚くほど楽に担ぐことができた。高校の保健の授業で習ったことがこんな所で役立つとは思いもしなかった。そのまま担いでマンションに向かった。男は一度も目を覚まさなかった。

 一度も立ち止まることなく無事にマンションにたどり着くことが出来た。インターホンを鳴らしても中からは反応がなかった。冴子は今夜も仕事らしい。苦労して鍵を開け、玄関に男を下ろした。ドアに背もたれ座ったまま寝息を立てていた。僕の服も男と同様にどろどろになっていた。その場に服を脱ぎ捨て、シャワーを浴びに浴室へ向かった。

 シャワーを浴びた後、リビングでビールを一缶飲んだ。このまま全て忘れて眠りに着きたかったが、そうもいかない。玄関に脱ぎ散らかした服を取りに行くと、男は目を開けたままさっきの姿勢で座っていた。『キョトンとする』という言葉が辞書にあるなら、今の彼の状態を表すのもしれない。

 焦点が合っているのかわからなかったが、僕が声を掛けると、「水をください」とやっとまともな言葉を発した。差し出した水を一気に飲み干すと、トイレの場所を訊いてきた。案の定、トイレからは嘔吐する際のなんとも言えない声が響いてきた。それから三十分近く、僕はコップを持ったままトイレと台所を何度も往復し、男は何度も便器に向かって奇声を発し続けた。胃液しか出なくなった頃、男はやっと「もう結構です」と立ち上がった。着替えを手渡しシャワーを浴びるように言うと、男は素直に従った。


 シャワーを浴びた男はさっきより幾分かは顔色が優れているように見えた。バーで見た時は照明の暗さもあってかはっきりとは見えなかったが、歳は二十代半ばだと思う。髪も短く揃え、爽やかな感じだ。もちろん泥水に浸かる前だが。「人は第一印象で決まる」とはよく言ったもので、バーでの醜態を見なければ、きっと好青年に見えただろう。


リビングに通し、彼にソファーを勧め、僕は食卓テーブルに備え付けの椅子に腰掛けた。

「ご迷惑をおかけしました」 それだけ言った。ここがどこなのかも、なぜここにいるのかも、目の前にいる男が誰なのかも尋ねなかった。僕は財布を手渡し、簡単にこれまでの経緯を説明した。ヤンキーに財布を抜かれそうになったことは言わなかった。後日、礼を持ってこられるのは面倒だったからだ。いや、もうここまでしたことは十分礼に値するだろう。そんなことを考えていたが、その心配は必要なかったかもしれない。「すいません」とだけ言って、男は財布を握り締めたまま再び俯いた。

 ここでも借りてきた猫なのだろうか。酒を飲んで語る人間は、酒を飲んでしか話せないことが多い。この男もきっとそうなんだろう。

ただ、一つだけ。

“どこで間違えたのかなあ。あの時、引き止めなかった俺が間違っていたのかなあ”

酒に強そうでもないこの男があそこまで飲んで喚くにはそれ相応の理由があったのかということが気になった。目の前の男は語らずして、僕の興味を引いているのは確かなようだ。バーで男が吐いた言葉は、他人に向けて言ったことはないが、自分自身に言ったことはあった気がした。あれはもう三年も前か。


「何かお辛い事でもあったのですか?」

「いえ」 

沈黙。顔色は良くなったが、目には薄黒い色が漂っている。

「もう終わったことなんです」

 男が抱えている問題について、何通りか予想を立ててみた。女が逃げた。友人を無くした、もしくは亡くした。株取引で売り時を誤ったということも考えられなくはない。普通に考えれば、妥当なのは最初の二つだろう。

「知り合ったのも何かの縁でしょう。お力になれるかもしれませんよ」 名刺を差し出した。話をしたがらない男の話に興味が多少あるとも言えるが、飯の種になればそれでいい。時と場合に分けて使えるよう、四種類の肩書きを用意している。内容もまだはっきりしないため、一番無難な名刺を選んだ。


「松下オフィス……副所長…」 唇の動きはそうなぞっていた。顔を上げて僕の顔を上目使いで一瞥し、再び名刺に目を落とした。一瞬にして男の目に不信感が漂っているのが、ハッキリと見て取れた。目は口ほどに物を言ふ。男が口を開くのを待った。


「どういう仕事内容なのですか?」 この質問には慣れているし、対する応えは肩書きの種類以上に用意してある。

「うちの事務所は松下グループの傘下に治められていて、多岐に渡ります」 男の眉が少し上がった。興味はともかく安心感を得ることには成功したようだ。やはり彼はサラリーマンだ。まだ仕事内容は話していない。一切。

“松下グループ”という言葉に反応しているようだが、商法には「商号自由の法則」がある。彼がどこの松下を想像したかを知るのは容易だが、知ったことではない。そもそもグループ名は自称、公称問わず、法的には商号にもならない。グループ内の調査に止まらず、各企業の社内調査を請け負っていると説明し、個人向けの調査業務も行っていると追加した。

「そうですか。もっと早くにそちらを知っていれば良かったかもしれません」

「と、いうと?」

 男は咳払いをし、「ビールか何かあればいただけませんか?」というおかしな前置きをした。「飲んで大丈夫ですか?」とは訊き返さなかった。やっと話してくれるのだろう。やはりこの男は酒がないと話せない人間なのだと改めて思った。自分の分とで二本のビールをテーブルに置いた。彼はビールを一口だけ飲むと、自己紹介が遅れたことを詫び、ゆっくりと話し始めた。



 彼の名前は吉本耕一。歳は二十五歳。院卒で去年の春から薬品会社に勤務し、開発部に所属している。

 彼には三年前まで付き合っている女性がいた。大学に入って間もない頃から付き合い始め、一度も別れることなく一緒に卒業を迎えたらしい。その後、彼は院に進学した。彼女の方は、大学在学中から、自分の将来に疑問を抱えたまま卒業し、その年の秋からアメリカのカリフォルニアに語学留学をした。初めの数ヶ月は、遠距離恋愛もうまくいっていたらしいが、徐々に連絡は少なくなり、一年が経つ頃にはほとんど連絡を取らなくなったという。遠距離恋愛によくあるパターンだと僕は思った。

 一方で感心する面も彼にはあった。彼女の母親は、彼女が中学校の時に離婚し、その数ヵ月後に交通事故に遭い車椅子の生活を送っていた。それでも女手一つで彼女を育てたという。彼女が留学してからは、彼がちょくちょく実家に様子を見に行き、その母親の面倒を見ていたらしい。しかし、彼女との連絡が少なくなっていくにつれて、実家に足を運ぶ回数も減っていったという。

 そして一ヶ月前、大学時代の友人から彼女が帰国していたことを聞かされる。しかも帰国したのは去年の春だという。ということは、彼女は帰国してから半年以上も経つのに一度も連絡を取らなかったことになる。

 いくつか「そうらしい」と思ったのは、どうも彼には物事を良い方に話そうとする傾向が見受けられるからだ。言い直しや余計な修飾語も多い。まだどこかで通じ合っていると考えているのかもしれない。そこまで話して彼はまた口をつぐんだ。いつの間にか二時を回っていた。彼は初めに飲んでから一口もビールを口にしていなかった。ずっと手に持っているせいでだいぶ温くなっているはずだった。僕はすでに二本目を飲み干そうとしていた。彼が話を再開させるのを静かに待った。



「佳子……明後日、結婚するんです」

 嗚咽し、缶を強く握った。まだ三百ミリリットルは残っているであろうビールは、ゆっくりと缶から染み出るように(シタタ)り落ちた。それからまたゆっくりと彼は話し始めた。ここからの話は全て彼女と親しい友人から聞いたものだった。

 留学してしばらくしてから彼女はアルバイト先の上司と付き合い始めた。一年ほど付き合った(ノチ)、彼女は二年の課程を終え日本に帰ることになった。彼氏の方はアメリカにいて欲しいと頼んだらしいが、母親を日本に残しておくわけにもいかず、アメリカにずっと滞在するわけにはいかなかった。そうした中で、反対にアメリカ人の彼の方が日本に来ることになり、去年の秋から同棲しているという。そしてこの日曜日に結婚式を挙げるらしい。


「そうですか。お察しします」 そう言ったものの遠距離恋愛をしたことも、まだ心にある女性が結婚するという出来事に遭遇したことがない僕にはピンとは来なかった。彼も社交辞令と受け取ったかもしれない。そんなことよりも、この一時間近く、いや、店を出たところからいうと二時間も付き合わされた心労が一気に圧し掛かってきた。

「それで。諦めは、もうついたのですか?」

 吉本はゆっくりと首を横に振ってから「わかりません」と答えた。

「彼女と話したらどうです? 一度も話してないんでしょ?」

「そうですね。もう最後に話したのは二年以上も前です」 昔を振り返るように言い、「でも、もう……僕はどうすれば…」と、呟いた。

 僕に問うために言ったのかはわからないが、答えることにした。「二つしかないでしょう」 はっきりと前置きをおいた。どちらかに限定して選択させれば、選んだ本人はそれしか方法がないように思い込む。交渉術ではよく用いられるもので、こういう状況にはうってつけだ。依頼者にならないのなら、できるだけ早く話を切り上げたかった。

「このまま諦めて一生、彼女の前には現れない。もう一つは結婚する前に、話をしてもう一度あなたのことを考えてもらう」

 セッターに火を付けた。空気の流れがないのか煙は僕らの間にふわりと浮かんだ。

「結婚、厳密には婚姻届の受理ですが。国際結婚の場合は国籍や永住権の関係で法務省も絡んできますから、まだ時間は十分にあるはずです」

 この言葉は、彼に期待を持たせるために言ったわけでも、そうするべきだと示唆したのではない。もちろん、一番平穏に終わるのは前者だし、彼にとってもその方がいいに決まっている。前者を選ばせようと思っていたが、余計な一言が彼に望みを与えてしまったようだ。未練ゆえ、なのかもしれない。

「具体的にいうと?」

 思ってもいない展開だった。「そうですねえ」 僕はゆっくりと煙草の煙を吸った。肺から紫煙が全て排煙されるまでの数秒に、脳をフルに働かせたが、当たり前すぎる言葉しか思い浮かばなかった。

「結婚式を挙げてしまえば、やはり厳しいでしょうね。明日しかないでしょう」 厳密には今日だった。

「そうですね。今日しかチャンスはないですね」 彼はゆっくりと顔を上げた。僕と目が合った。ついさっきまで弱々しかった彼の目には、新たな強い光が宿っていた。


 僕はこの男の意志を尊重し、手助けをする気になった。どう転ぶにせよ、彼の納得のいく形にしてやろうと思い始めた。

この男は純粋で、きっと人から好かれる人間なのだろう、そう思う。しかし、世の中でうまくやっていくのは先に電車で帰った男のような人間なのだろう、改めて思った。不器用な人間は嫌いではない。


 僕らは段取りを始めた。僕が日常的に行っている探偵業務の範疇を超えているが、やるべきことはないわけではない。僕は話し合いの仲介と代理人を務め、彼には友人から結婚式の段取りを出来るだけ詳しく聞き出してもらうことにした。本来ならば、調査を請け負うこちら側が調べなければならないのだろうが、時間がない。今日一日分の日当、三万円を受け取り、事務所名義で領収証を切った。

 本来は諸経費を含めた手付金に値するものだが、成功報酬のことは一切口にしなかった。結婚式を延期もしくは中止にすれば成功なのか、彼女とよりを戻せば成功なのか、彼が納得すれば成功なのか、よくわからなかったからだ。


 一緒にマンションを出た。タクシーが集まる中央町の中筋まで送ることにした。午前三時を回っていた。雨はもうやんでいた。ほとんどの店は閉店時間を過ぎているが、仕事を終えた水商売従事者たちが道端で話をしていた。タクシーに乗り込んだ吉本は「よろしくお願いします」と言った。

 岡山の歓楽街は眠る。その様子を見ながら、ゆっくりと、来た道を歩いた。


 マンションの前に着いたとき、同時にタクシーが止まった。そのままエレベーターに向かおうとすると、急に後ろから名前を呼ばれた。冴子だった。パンツにパーカー、仕事を終えた冴子は普段着に着替えていた。そのままパジャマにしてもおかしくはない。

「お姫様、おかえりなさいませ」

「え?何が?」

 料金をポーチにしまい終えたタクシーはまた次の客を求めて走り出した。

「ワンメーターもいかない距離なのに」

「ああ、タクシーね。だってまだ雨やんでないよ。ほら」 掌を上に向けた。並んで部屋に向かった。

「立派な御身分で」

「別にいいじゃん。仕事の後だし。それより何してたの。わたしの帰りを待ってたとか? そんなわけないか」

「うん、ない」

「中央町行ってたの?」

「そう。ツレを送って行ったところ」 すぐに訂正しようと思ったが、遅かった。「中央町で飲んで帰ってきたところ」と、言うべきだった。

「もしかして黙って人を部屋に入れたの?」

 一緒に住んでいるが、僕は家賃を払っていない。人を部屋に上げる時は、事前に言っておかなければならないという決まりがあった。緊急だったとはいえ、約束を破ったことに変わりはない。僕は素直に謝った。

「オンナ?」

「気になる?」 冗談のつもりで言ったが、度が過ぎたようだ。

「そんなわけないじゃん。てか何度も言うけど、正は居候であって私と同棲してるわけじゃないんよ。家賃とるよ」 最後の言葉は僕を黙らせるのに十分だった。

 部屋の前に着き、鍵を差し込んだ。玄関を泥だらけにしたままだったことを急に思い出した。

「ちょっと待ってて」 そう言って冴子の視界を隠すように玄関に入り、中から鍵を閉めた。初めて彼女を家に呼んだ時にすることなのかもしれない。僕らはなんだかんだで二年半も一緒に住んでいる。

「ちょっとぉ」と聞こえた気がしたが、後の言葉は扉の閉まる音に掻き消された。すぐに洗面所に行き、雑巾を水で濡らした。玄関に行くと、すでに扉は開いていた。当然だが冴子は鍵を持っている。驚いた顔をしていたが、「わたし、もう寝るから、ちゃんときれいにしといてよ」と、一言だけ言って自分の部屋に入っていった。怒られるより怖かった。

 隅々まできれいに拭いてから、床に就いた。



 十時に目が覚めた。無理やり覚ましたと言った方が適切かもしれない。すぐに動けるように身支度を始めた。十一時きっかしに依頼人から電話が掛かってきた。

「おはようございます。昨夜はありがとうございました」

「どうでした? 誰かから訊けましたか?」 彼が帰った後のことはもちろん話さず、すぐに切り出した。

「いえ、まだなんです」

「そうですか」

「大学の同級生に電話をしたのですが、もう関わらない方が僕にとってもいいと言われました」

「そうですか」 予想していたことだった。

「もう一人いるので恥を承知で訊いてみます」

「恥?」 わざと大きな声で訊き返した。「いいですか。あなたがこれからやろうとしていることは、彼女だけでなく多くの人間を巻き込むことなんです。そのくらいの覚悟がないなら、素直にその友達の言葉に従ったほうがいい」

 長い沈黙があった。友人に忠告された上に、唯一味方と思っている僕からも叱咤されて、がっかりしているのかもしれない。

「そうですね。すいません。また連絡します」

 彼女の実家の住所と電話番号を訊いてから電話を切った。すぐにその番号に掛けた

 十回以上鳴ってから、相手が出た。「はい。園田です」男の声だった。彼女の結婚相手かもしれないと一瞬焦ったが、声の主は明らかに日本人で歳は四十歳前後だろうか、渋く落ち着きを払った声だった。彼氏ではなさそうだ。どこかで聞いたことのある声のような気がしたが、よくわからなかった。

「佳子さんはご在宅でしょうか?」

「いえ、今はおりません。どちら様でしょうか?」

「大学の友人で田中と申します。いつ頃、お帰りになられますか?」

「えー、ちょっとお待ちください」 電話の向こうから女の声で「誰から?」という声がした。彼女がちょうど帰ってきたのかと思ったが、また予想は裏切られた。

「お電話代わりました。佳子のお友達ですって?」 さっきの男性と同い歳くらいの声だった。母親だろう。本人が出るより好都合だった。母親を取り込み、彼女から娘に話をさせる方が上手くいくかもしれない。母親の情に訴える口実もある。

「はい。そうです」

「ごめんなさいね。ちょっと今、出かけてるのよ」

「式の準備か何かですか?」

「そうなのよ。彼と一緒に出かけてるの」

「いつ頃、お帰りになられますか?」

「ごめんなさいねえ。それが、全くわからないのよ。何か伝えておきましょうか?」

「明日の式の案内を無くしてしまったもので。それを訊こうと思って電話させていただきました」

「あら、そうなの。ええっと、大元にある教会なんだけど、確か福音カトリック教会って言ってたわ。時間は三時からよ。帰ってきたら連絡するように言っておきましょうか?」

「助かります。あと、伝言よろしいですか?」

「ええ、もちろん」

 僕は咳払いをしてから落ち着いた声でゆっくり話した。

「あのう、吉本耕一くんのことはご存知ですよね?」

短い沈黙があった。どう答えればいいのか戸惑っているのかもしれないし、僕が何を言い出すのか次の言葉を待っているようにも思えた。

「ええ。娘と以前、付き合っていた子ですよね?」

「そうです。彼からの伝言を伝えて欲しいのです」 僕の言葉には答えず、代わりに「あなたは?」という質問が返ってきた。

「彼の友人です」 さっき僕がついた嘘を問いただしてくるのかと思ったがそうではなかった。

「それで伝言というのは、どんなこと?」

「佳子さんと今日中に会ってお話がしたい、それだけです」

 今度は長い沈黙だった。もしかしたら娘からは、別れたと聞かされているのかもしれない、いやそうに違いない。状況がうまく掴めていないように思える。

「ごめんなさい。それはできないわ」

「いえ、無理なお願いだということは重々承知しています」 吉本がこの電話の主に世話をしていたという、「恩」をネタに話を持っていこうと思っているが、どの程度のものかはわからないし、こちらからカードを切るには早すぎる。

「彼が納得いかないままでは、娘さん達の結婚を受け入れられないと思うんです。話し合いの機会を持つことが娘さんのためにもなりますし、強いては彼のためにもなると思います」 いかにもそれらしく話した。そろそろカードを切り出してもいい頃だろう。

「そもそも今回の事は僕が切り出したことなのです。」 あくまで吉本青年が僕に頼んだのではなく、僕が彼の心中を察して自らの配慮で勝手に電話をしている、という印象を与えるように心掛けた。

「吉本くんは、佳子さんだけではなく、お母さんにもなるべく迷惑は掛けたくないとも言っていました。佳子さんが渡米されてからは母親のように慕っていて、とてもお世話になっていたとも話していました」 一方的に話した。もちろんどれも嘘ではない。相手の言葉を待った。


「そんな……お世話になったのは、わたしの方です」 鼻を(スス)る音が聞こえた。当時のことを思い出しているのかもしれない。僕は罪悪感は全く感じなかった。依頼人の利益のためならどんなことも言う。それが誇張であろうと事実でなかろうと。世の中で最も尊敬される職業に入る弁護士でさえ平気でやってのける。


「耕一くんには佳子がいない間もよく来てもらっていたわ。本当に優しい子で、足が不自由な私の様子をよく見に来てくれていたの。私も息子のように可愛がっていたわ」 一呼吸おいて、「でも、それと今回のことは別。私自身、まだ籍は入れてないんだけど、こんな私と一緒になってくれる人が現れたの。あっ、さっき電話に出たのが主人なんだけどね。だから、ずっと父親がいない家庭で苦労させてきたあの子には幸せになって欲しいの。女としての幸せを手に入れて欲しいと思うの」と言い放った。人としての幸せはあるにしても、「女としての幸せ」がどういうものかいささか疑問に思うし、この御時世に結婚が幸せに繋がると考えている若者は少ないだろう。しかし、反論する余地はなかった。僕が男だからというわけではない。

強固な決意を感じた。これ以上、僕が何を言っても説得することは不可能だろう。トーンを落とし、お祝いの言葉と迷惑を掛けたことの謝辞を言い、電話を切った。

 冷蔵庫からコカコーラを出し、コップに注いだ。さて、どうしたものか。このままあきらめるわけにはいかない。残る方法はなくはないが、あまり穏便なものとは言えない。煙草を二本吸ってから依頼人に電話を掛けた。


「どうでしたか? 話をする段取りはつきましたか?」 電話に出た彼からの第一声がこうだった。焦りが感じられる。無理もない。

「佳子さんの母親が出て話をしたのですが、駄目でした」

「そうですか」 一声目とは打って変わって、落胆ぶりが見て取れるような声だった。

「どうでした?」

「無理でした」また一呼吸おいてからゆっくりと「もう諦めた方がいいですかね?」と言った。

「それは僕が判断することではありません」

「他に方法があるっていうんですか?」 声を荒げた。この無能な請負人に怒っているのかもしれない。僕は冷静に「なくはないです」と答えた。

「どんな方法ですか?」

「方法は二つありますが、一つは無理やりでも今日中に直接会って話をすることです」

「もう一つは?」

「明日、式当日に話をすることです」

「え? それはどう考えても無理でしょう」

「そうでしょうか? 今日、会えばきっとあしらわれるだけでしょう。それに時間もわからないし会えるかもわかりません。それよりも確実な機会が訪れる明日にする方が」

「どういうことですか?」

 僕は順序立てて説明することにした。

「“大元福音カトリック教会”という所は、似非信仰者の日本人が行う結婚式会場と違い、きちんとした聖教者が式を行うことが多いのです。彼の方がアメリカ人であることを考えれば、正式な形で式を行う可能性が高いと思われます」

「それがどう関係するのですか?」 電話の向こうであっけらかんとした顔をしている吉本の顔が、目に浮かぶ。

「米国では、両者と司祭がウエディングライセンスに署名するまで夫婦と認められないと法律で決められています。もちろん、日本では法的拘束力はありません。しかし、正式な形を採るのであれば、彼にとっても司祭にとっても大きな意味はあります。彼の家族も出席しているでしょう。ウエディングライセンスは式の終了を待ってから行われます」

「いえ、だからそれと結婚を止める機会があることにどう関係するんですか?」 僕の息継ぎを狙うかのように間髪入れず疑問を投げかけてきた。

「最後まで黙って聞いてください。いいですか?」

「はあ」

「ウエディングライセンスが発行される前に止めればいいのです。チャンスは三回ありますが実質的には二回です。まず式前に司祭に面会を持ちかけることです。これが一番平穏にできる方法です。司祭はそのような場合の対処についてはわきまえていると思います。もう一つは式中に申し出る場合です」 テーブルにおいていたコーラを飲んだ。さっきからずっと話している背せいか喉が渇いている。

「式中っていうのは……まさかと思いますが」 しびれを切らした吉本がまた遮るように疑問をぶつけてきた。独り言のようでもあった。

彼の頭には、教会の窓を叩きながら「エレイン!」と叫ぶダスティン・ホフマンが浮かんだのかもしれないし、バルコニーから財前直美が扮する幼馴染に愛を叫ぶ織田裕二が浮かんだのかもしれない。


「映画にあるような劇的なことをする必要はありません。司祭が『二人の婚姻を結んではいけない理由をご存知の方はいらっしゃいますか?』と言ったときに、挙手をして立ち上がればいいのです。あとは別室なり、その場なり、司祭が上手くやってくれると思います」

「それでうまくいくのですか?」

「それはわかりません。佳子さんには彼女なりの考えもありますし、最悪、一人で式場を後にしなければならなくなる可能性もあります。可能性といっても、はっきり申し上げてゼロに近いと思います。このまま手をこまねいて見ているだけならゼロです。そうするなら一生、沈黙を通すべきです」

「わかりました。あのー、少し時間をいただけますか?」

「そうですね。式まであまり時間はありませんが、結論が出たら連絡をください」

細かい点をもう少し詳しく説明してから電話を切った。彼から電話が掛かってくることはないのではないかと思ったが、手付け金に見合った仕事をこなすべく用意を始めた。あの母親はハッキリと教会名を言わなかったため、きちんと調べなければならない。大元あたりにはたくさん教会があり、紛らわしい名前も多くある。もし明日、依頼人が行動に移すとなる場合も想定し、下見に行くことにした。遅すぎる朝食を取り、出かける前に見た時計は一時過ぎを指していた。冴子はまだ夢の中のようだ。


 外に出ると昨日の雨が嘘だったかのように晴れていた。朝から日が照っていたのか、水たまりもほとんど消えていた。マンションには僕が停める駐車スペースはなく、いつもマンションから百メートルしか離れていないビリヤード店に月極めで置かせてもらっている。店は今年で七十歳になる老婆が経営している。駐車場にいくと、店舗兼自宅の入り口にあたるガラス戸のカーテンは開けられていた。中を覗くと人気はなくまだ店は開いていないようだった。買い出しに行っているのかもしれない。

 パルサー・GTi‐Rのセルを回した。この車に買い換える前も同じ車種・同色だった。ただ今の方が、エンジンは比較的、新しいのに乗せ変えてあるためパワーがある。もう十数年も前に廃版になっている車にも関わらず現代のスポーツカーに負けない。燃費はリッターあたりハイオク五キロメートル。走るために魅了されている。日産がこのような車を発売することは今後ないだろう。バイオガソリンが発売され、燃料電池が開発されている、このエコの時代には二十世紀の負の遺物なのかもしれない。


 駐車場を岡山駅方面に出て、県庁筋に入った。大元へは十分とかからない。大供交差点に入る前に伊東堂を通りかかった。ちょうど一年半前、ここの駐車場で大きな爆破事件があった。成人式を三日後に控えた夜だった。

 大供交差点は県内で一番、交通量、分岐路ともに一番多い。右前方に入り、二つ目の信号を右折した。“大元福音カトリック教会”はすぐに見つかった。路上に駐車して敷地に入った。この辺りは教会が多いが、ここは際立って大きい。建物の左右両側に回って出入り口を確認した。

子供一人では開けられないくらいの大きな扉はキーという音を立てただけで思ったより軽く開いた。光を待っていたかのように薄暗かった正面の通路には、僕の影を残して光が伸びていった。ここがバージンロードなのだろう。明日、ここで大騒動が起きる可能性があり、それを教唆する人間がここにいるとは誰も思わないに違いない。

 中は不気味なほど静かだった。静寂という言葉はこういう状態を指すのだろう。十を超える長椅子は正面通路を挟んで礼拝台まできれいに平行をなして置かれていた。扉を閉めると、蝋燭が左右の壁に置かれていることに気が付いた。正面の地上三メートルの位置には、巨大なステンドグラスがあり、天窓から差し込む光を眩しくないほどに反射していた。グラスにはイエス・キリストらしき人間が十字架に張り付けられた状態でうな垂れているのが写し出されていた。ずっと通い続ければ、一年も経たずとも立派なキリスト教徒になっているような気さえする場所だ。

 左の列の一番手前の長椅子に腰掛けた。明日の結婚式がここで行われるかを確かめなければならない。人が入ってくるまで待つことにした。キリスト教の教えにある「隣人愛」というものを改めて考えてみようと思ったが、隣に住んでいる住人の後姿しか知らない僕が人類全般に愛をもって接することは無理なのだろうと改めて思った。聖書は新旧どちらも一行も目を通したことさえない。

 十分くらい経った頃に礼拝台に続く階段の左側の扉から人が出てきた。白装束に黒に近い藍色の頭巾らしきものを被り、顔だけを出した女性だった。女性とわかったのは映画でこのような衣裳を着ている信者を見ただけで、実際これだけを見て年齢どころか男女を判断するのは難しそうだ。その映画では陽気なシスターがゴスペルを子供たちと熱唱していた。目の前に現れた女性はそれとは全く異なる感じで、うつむき加減ではあるが優しい微笑みを浮かべながら挨拶をしただけで僕の横を通り過ぎ外に出て行った。向こうから話しかけられるだろうと考えていた僕はきっかけを失ってしまった。どこの寺でも挨拶をしたらいきなり世間話に入る坊さんがほとんどだったため、同じように考えていたのかもしれない。よくよく考えれば、結婚式以外に利用目的のない教会風の建物にしか入ったことがない。後を追ってすぐに僕も外に出た。

「ちょっとお伺いしたいのですが」

「はい、結構ですよ。何でしょうか?」

「明日、ここで行われる式についてお伺いしたいのですが」

「サリスさんと園田さんの結婚式でしょうか?」

「そうです」 これを確かめるだけで他に訊くことはなかった。旦那の名字がサリスというのは初めて知った。牧師の名前はロス・ニューマンというらしいが、依頼遂行には関係なさそうなことだった。

 時間と牧師の名前を訊いただけで少し世間話をしてその場を後にした。帰りの車の中で、侵入経路と彼女を連れて外に出るための“逃走経路”をシュミレートした。映画のようにバルコニーから叫ぶのはよろしくない。退路を考えるならバージンロードがいいように思える。上手く連れ出せば後は僕が用意した車に二人を乗せる。これは最終手段であって一番は牧師に掛け合うことだ。無論、依頼人からの電話によっては必要がなくなるかもしれないが、請負人として最善を尽くさねばならないことは言うまでもない。“結婚しました”と書かれた車を乗っ取るという現実的な妄想が頭を


 どこにも寄らず真っ直ぐマンションに帰った。冴子の部屋から音が漏れている。夜型の仕事といえど、もう起きているのだろう。二時になろうとしていた。冷蔵庫からアイスを取り出し、テレビをつけると横山秀夫の『陰の季節』のドラマが始まろうとしていた。携帯電話を見るが、吉本からの連絡は入っていない。考えさせてくれ、と言っていたが、もしかしたら掛かって来さえしないかもしれない。話に没頭し、上川達也が真犯人の目星を付けた頃、突然電話が鳴り始めた。電話はいつも突然鳴る。

「どうするか決められましたか?」

「はい。明日、説得しようと思います」

「そうですか。わかりました。具体的な計画を話し合わないといけないので、これから伺ってもいいですか?」

「はい。大丈夫です。僕の家はわかりにくいので、僕がそちらに伺いましょうか?」

「それは助かります。近くに着いたら連絡ください」 ドラマの結末が観られるからというのもある。

「では四時半にそちらに行きます」

「わかりました。お待ちしてます」

 電話を切りまたテレビに戻った。ドラマは小説とほとんど同じように作られていたため、新鮮味はあまり感じられなかった。テレビを消し、今日調べていたことも含め、話さなければならないことを頭の中で整理し始めた。注意点、法的なことも含め思ったよりたくさんある。

 四時半前に再度電話がかかってきた。マンションの下に停車してそこで待つように指示した。マンションに人を入れる時は事前に言うように、と冴子に怒られたばかりだったため、近くの喫茶店で話すことにした。財布と煙草だけ持ってマンションの下に向かった。煙草を一本吸い終えると同時に曲がり角から、白のホンダ・フィットがこっちに向かってきた。ハザードを炊き、依頼人が降りてきた。

 白いポロシャツにジーパン。スーツを着ていないからか、かなり若く見える。大学生を言っても通用するのではないだろうか。

「お世話になります。車はどこに駐車すればいいですか?」

「すぐそこの喫茶店に入ろうと思います。ここに路駐させておいても問題ないですよ」 そう言って『タマキ』と書かれた看板を指差した。このあたりは通りが入り組んでいることもあってパトカーはまず入ってこない。窓際に座れば、車の様子を見ることができる。

「いえ、だいじょうぶです。どこかコインパーキングがあれば教えてください」 この男にとって路駐は御法度なのだろう。点数がなさそうには見えない。法定速度でさえ常に守っている気がしないでもない。コインパーキングの場所を指示し、戻ってきてから一緒に店に入った。ドアに取り付けられた鈴が鈍い金属音を立てた。

 店には誰もいなかった。店員さえもいなかった。いつものことだ。「すいません」 徐々に音量を大きくし、三回目にカウンター奥から物音がした。出てきたのは娘の方だった。もう夏休みが近いからか茶髪を通り越し金髪になっている。化粧も前よりも濃くなっている気がしないでもない。

「ああ、正じゃが。久しぶりー」 通い始めの頃はお兄さんだったのにいつの頃からか呼び捨てになっている。この子の名前はメグだった気がする。

「まだ、いい?」

「いいよ。メグ、忙しいから中おってええかな? もう少ししたらおかんが買い物から帰ってくると思うけ」

「アイスコーヒー二つよろしく」

「わかったー」 間抜けな声だが、面倒だというのが顔に書いている。きっとテレビを見ながら同じようなツレとメールでもしていたのだろう。

この店は昼から夕方まで営業しているが、閉まる時間はかなり適当だ。三時に閉まっていることもある。一応、月曜が休みになっているが、おばさんの都合で週休二日になったり三日になったりする。この“今時のギャル”を店番に使っていること自体、やる気のなさが伺える。安い豆をいつも選んでいるのか、味がよく変わる。他の客を見たことはほとんどない。僕にとっては好都合だ。依頼内容を聞かれる心配がまずない。客をよくここに連れてくる。

「あそこに座りましょう」 指をさした。

「え、ええ」 面倒そうにエプロンを着ける娘を不思議な目で見ていた。

一番奥のボックス席に座った。客がいない分、余計店の広さが際立つ。広い店だというのは確かなのだが。依頼人は店キョロキョロと店内を見渡している。

「もう一度、お訊きしますが。明日、教会に説得に行きますね?」

「はい」 力強い声だった。何かをかみ締めるようにも感じられた。

「わかりました」

 昼に調べた教会の様子と造り、牧師に話しかけるタイミング、彼女を説得する際の注意点、成功した場合の経路などを昨晩話したことと合わせて順序立てて丁寧に説明した。依頼人はメモを取りながら真剣に僕の話に聞き入った。

「おまたせー」 待ち合わせに遅刻したような感じでメグがコーヒーを持ってきた。ありがとう、と言ったが「ごゆっくり」とは言わなかった。ゆっくり居座られたくないと思っているのかもしれない。煮沸したお湯を一気に氷で冷やそうと思ったのか、氷は急激に体積を減らしていった。まだ温いはずだ。まだ口につけないでおこうと思った。心配そうに横目のまま首を少し回した。当のメグはすでにエプロンの紐を外し始めていた。

「これ少し、酸っぱいですね」 一口飲んだ依頼人が言った。思わず口が滑ったといった感じだった。メグに聞こえてないか


「ええ、ここのはハワイ産の豆を使ってますからね。酸味がありますよ」 もちろん嘘だった。客が少ないため古い豆を使っているのだろう。そしてそれを飲んだ客は不味いと思う。悪循環というやつだ。客が少ないのは好都合だが潰れてもらっては困る。

「事後の注意点ですが」 煙草の火を消した。

「はい」

「これは成功した場合ですが、損害賠償が発生します」

「それは覚悟しています」

「式の費用を含め、あらゆる費用を肩代わりしなければなりません。披露宴がわかりませんが、あれば当然にかかりますし、二次会で貸し切った店の費用もそうでしょう。新婚旅行に行くのならその旅費も払う必要があります。成功した場合は園田さんもいくらか負担してくれると思いますが、あとは話し合いです」

「いえ、大丈夫です。全て僕が払います」

「わかりました。あと損害賠償の他に、慰謝料も発生すると思われます」

「えっ? 結婚する前の恋愛の段階では別れても発生しないのではないのですか?」 何かの本で調べたのかもしれないが、深くは知らないようだ。さっきの自信に溢れた顔つきに影が射し込んだ。

「民法上、恋人の間柄では発生しません。しかし、現在、同棲していることや婚約をしているという個別的な事情を鑑みれば、発生するでしょう。これについては、額はわかりません。相手次第です。もしかすると言い値になるかもしれません。示談で決着が付かなければ、裁判に委ねられる事になるでしょう」

「わかりました。覚悟しておきます。他にはありますか?」 覚悟したという割りにさっきより弱気になっているように見えなくもない。

「いえ、これだけだと思います。これだけだといっても式の規模も分かりませんし、全部合わせるとフィット三台でも足りないかもしれません」

「わかりました」 頷きながらゆっくりと返事をした。

 煙草を取り出した。白い煙がゆらゆらと揺れながら上にのぼっていく。まだ一口も飲んでいないコーヒーを啜った。氷を入れすぎたらしい、冷えてはいるが明らかに薄い。そして酸っぱい。

「一日にタバコはどれくらい吸われるのですか?」

「最近はだいぶ減らしましたよ。二箱いかないくらいですかね」

「そうなんですか。それで減らしているっていうのは驚きです。そのタバコのニコチンってきついんですよね?」 本当に驚いた、というような顔をしている。正確にはタバコの重さを決めるのはニコチンではなくタールだ。一度そのタール量に慣れれば、軽いものは軽いと感じるが、重いかはわからなくなる。

「煙草は吸わないんですか?」

「ええ、全く。一度もありません」 確かに健康に気をつけている感じがする。煙草は吸わないが酒は好きなのかもしれない。訊いてみることにした。

「お酒は好きなんですか?」

「昨夜は…みっともない姿を見せてしまいました。御迷惑をおかけしてすいません」

「いえいえ、気になさらないでください」

「酒はほとんど飲めないんですよ。昨日はヤケ酒というか…」

 一緒にバーに来ていた男のことが気になったが、僕がバーにいたことは知らないだろうから自分から訊くことはやめておくことにした。コドモに財布を盗られそうになったことも知らないはずだ。通りすがりの男が親切心を働かせて一晩面倒見たくらいにしか思っていないだろう。

「一人で飲んでいたのですか?」

「同僚と飲んでいました。居酒屋で飲んでいたことは覚えているのですが、どうやらそこで酔い潰れてバーに行ったらしいです。記憶にないんですよ」 苦笑いを浮かべた。

「その同僚の方はどうされたのですか? 僕が道端で見かけた時はお一人でしたよ」

「詳しくは聞いてないのでわからなのですが、タクシーに乗せてから帰ったみたいです。苦労したと怒られました」 また苦笑いを浮かべた。それは僕の台詞だろう。奴はタクシーに乗せるどころか、タクシーを“頼むように頼んだ”だけだ。店で揉めそうになった男が自分の置いていった同僚を助けたとは夢にも思わなかっただろう。僕も全く予想していなかった。こんな事になることも勿論考えていなかった。

「お金のことですが…。明日の分も今お支払しましょうか?」

「いえ、結構です。うまくいったら成功報酬として今日と同じ料金を頂きます」 今日した事といえば電話一本と教会に足を運んだだけだ。前者は失敗ともいえる。そして明日は、車の手配だけだ。事務所名義で領収書を書くわけにはいかない。まずバレることはないが、第二種免許を持っていない人間が白タクまがいのことをするのは宜しくない。

 話を終え、すぐに店を出た。メグを呼ぶのが面倒だったのでカウンター横のレジの前に千円札を置いていった。明日の時間を確認し、店の前で別れた。マンションに戻ろうと歩いていると髪に何かが当たった。見上げると、灰色をした雲が空を覆っていた。今日は休日だが、梅雨前線は休みではないらしい。

 部屋に戻るとリビングで冴子が鏡を見ていた。

「おかえり」

「もう仕事? 早いね」

「うん。そう。今日は出勤前にお客と会って食事することになってるの」 同伴出勤日らしい。客は出勤前にキャストと店外で食事などをしてから一緒にキャバレーに入る。店外でも勘定をするのは客だ。そして、店でも贔屓の娘の売り上げ向上に協力する。

「そっか。仕事がんばれよ」

「うん、今日は結構いいお客さんなの」

「ほう。稼ぎ日ってことか」

「だね。車買ってもらえるかもしれないの。正の車よりもっといいやつだと思うよ」

「俺の車よりいい車なんて探せばいくらでも見つかるだろ」

「確かにね。でも何をもっていい車かっていうのは人それぞれだもんね」 僕が次に言おうとしていた台詞を言われた。

「私はあの車好きよ。オーナーに愛されてる車は全部いい車だよね。じゃあ行ってくるね」

「気をつけてな」 そういってから玄関から出ようとする冴子を呼び止めた。「今度ドライブ行こうか?」

「そういえば、しばらく二人で遊んでないね。うん、行こう行こう。休み確認しとくね」


 台所でコーヒーを作り自室に入った。セッターに火をつけた。コーヒーをそそる。さっき“ハワイ産”豆のコーヒーを飲んだせいで、いつもより美味く感じる。インスタントに負けるコーヒーを出し続けるあの店はもう長くないかもしれない。そんな懸念が頭に浮かんだ。

今日やることはあと一つだけだ。明日の車を手配しておかなければならない。ホフマンとエレインを乗せるにはパルサーはお粗末過ぎる。状況によっては、ドレスを着た花嫁を乗せることになるかもしれない。松下に頼んでみようか。電話を掛けるとすぐに出た。

「何かあったか?」 一声目がこれだった。仕事の話と思っているのかもしれない。一応、上司であるが、歳も一緒で中学校も同じだった。僕が敬語を使うことはない。

「仕事の話じゃなくて個人的な頼みがあるんだが…」

「どんな?」

「車を貸してくれないか?」

「アストロ?」 松下は二台車を持っていて、一台はシボレー・アストロに乗っている。もう一台はマジェスタで、業務用に使っているが名義は松下の個人名義になっている。事務所を通さないシゴトだから、黙ったまま借りるのは気が引ける。

「そう。あのワゴン」

「ええけど、何に使うん? オンナか?」 電話の向こうでそう言いながら、小指を立てている様子が浮かんだ。

「まあそんなところだな」

「結構、人乗せるんか? 合コン?」 興味津々で訊いてくる。

「まあそんなところだな」

「メンツは? 男の空きはねえん?」

「悪いが、ないんだ。四対四で海に行く」

「ああ、じゃけえアストロか。ぼっけえ羨ましいが」

「貸してくれる?」

「しゃーねーな。じゃけど、一番後ろのシートは荷物で埋まって八人は乗せれんよ」

「俺が片付けて掃除するわ」

「まあそれならいいけど…」 まだ不満があるのかもしれない。そんな口調だ。

「ガソリンは満タンで返してな」

「もちろん」

「もう空に近いけどな」 笑いながら言った。あの車のタンクは八十リットルは入るはずだった。今月からガソリン代が高騰していることを考えれば一万は軽く超えるだろう。とは言え、業者にレンタルすることを考えれば安いものだ。今週の仕事を確認して電話を切った。

時計を見ると、七時前だった。どこかに晩飯を食いに行ってもいいと思ったが、雨が降っているし、外に出るのは面倒だった。冷蔵庫の食材を使って簡単な夕食をとった。自室に戻り、『長いお別れ』を探そうとしたが、本棚のないこの部屋で文庫本を見つけ出すのは不可能なようだ。あきらめて小島武夫の『絶対に負けない麻雀』をまた最初から読み直した。先切りや引っ掛けリーチなどの小手先の技術は一通り使えるが、小島九段の言う『ツモのリズムに沿った手作り』というのは未だに身に付いていない。じっくり一通り読み終えると十一時近くなっていた。風呂上りのビールを飲み床に就いた。

 ちょうど一年半前、結果的にではあるが、僕は真理子でなく冴子を選んだ。男と女の関係は最も不可解なものだと思う。何をもって幸せというかは千差万別。吉本がやろうとしていることが幸せになる方法なのかはわからない。一度、離れたものを捉まえるのは容易なことではない。僕はそうしなかった。正しかったかどうかはわからないが、少なくとも間違えではなかったと言える。冴子との関係は円満といえる。そんなことを彼女の前で口にすれば笑われるかもしれないが。


 いつの間にか眠りについていたようだ。目覚まし時計の針がちょうど百八十度に開いている。久々に早寝早起きをした。たまにはいいものだ。地元に帰り、パルサーとアストロを交換した。岡山に戻ってきてもまだ十時にはなっていなかった。昨晩読んだ内容を復習するように小島九段の本をまた読み返した。

 一時半に大供パーキングで待ち合わせをすることにしていた。スーツはフィッチェのダブル。僕は式に出るわけではないからフォーマルな服装をする必要はないが、身なりには気をつけねばならない。髭も三日ぶりに綺麗に剃った。外は気温がかなり上がっているようだ。昨日の雨が嘘のように青空が広がり、朝にはあったはずの水たまりはどこにも見当たらなかった。

ビリヤード店に車を取りに行くと、この時間には珍しく客が玉を突いていた。心地良い衝突音がする。かなり上手い打ち手なのだろうと思う。同じ打つでも麻雀とビリヤードは全く違う。僕はどちらも“中途半端に上手い”。中は覗かず、アストロに乗り込んだ。

 大供パーキングの前に自分の車を駐車し終えた依頼人が立っていた。一昨日に見た時のスーツとは違い、かなりフォーマルなものを着込んでいる。元々、顔が年齢より若く見えるからか、スーツに着せられているという感じがしないでもない。助手席を指差すとすぐに乗り込んできた。

「大きな車に乗ってられるんですね」 思えば依頼人が、僕が車に乗っている姿を見るのは初めてだった。

「ええ。人を乗せるにはちょうどいいですからね」 借り物だとはもちろん言わなかった。

 大供パーキングから教会までは五分もかからない。つかぬ間の会話だったが、依頼人からは焦りや不安は微塵も感じられなかった。一昨日、自分の無力さを涙ながら悔やんでいた情けないサラリーマンとは別人のように感じる。

 教会の一区画前の路上で停車した。

 吉本は大きく息を吸い込んで「では行ってきます」と言った。

「健闘を祈ります」 “成功を祈る”とは言わなかった。

「よろしくお願いします」 車から降り教会に向かって歩いていった。姿はすぐに見えなくなった。


 車内のデジタル時計は二時前を示していた。スーツやドレスを着た若者が車の横を通っていった。他の出席者どころか花嫁に対抗意識を燃やしているような服装の女を何人も見かけた。

 サイドミラーに車椅子に乗っている女性が見えた。タキシードを着た男性がその車椅子を押している。直感的に園田佳子の母親なのだろうと思った。車椅子を押している男性は、昨日行っていた内縁の夫だろう。ミラーに移る二人の姿が徐々に大きくなって行き、ミラーから外れ、車の横をゆっくりと歩いていった。

 男性の姿を見て、僕は目を疑った。マスターだった。

 いや、正しくは前マスターだ。先週会ったばかりで、タキシードを着ている姿は店で見る彼と大差ない。昨日、園田家に電話をかけた時の様子を思い出した。最初に電話を受けた男性の声が、以前聞いたことがあるように感じたのも納得がいく。今思えば、あれはマスターの声だ。間違いない。そう考えれば滝本くんが話していたことにも説明がつく。それまでたまにしか見掛けなかったマスターの姿を六月に入って頻繁に見たこと、同じ曲を何度も弾いていたこと……娘の結婚式の披露宴で弾くためだったのかもしれない。いや、きっとそうだ。

 同時にある考えが頭の中で急速に広がっていった。なんという不運な偶然だろう。僕はマスターの娘の結婚式を混乱させることの片棒を担いでいる。まだ籍を入れていないから戸籍上はマスターの娘ではないが、そんなことは問題ではない。

煙草に火を点け、ゆっくりと深く煙を吸い込んだ。落ち着かなければならない。このシゴトには私情を挟んではいけない。いつ何時、何が起こるかわからない。こういう偶然が起こることだってなくはない。僕は依頼人からシゴトを請け負い、報酬の対価となる十分なシゴトをこなすだけだ。ただそれだけだ。

 頭を整理するまでさらに二本の煙草を要した。二時二十分になっていた。三時から式だが、依頼人はもう牧師に自分の意向を伝えていることだろう。

 長針が三十分を指した時、突然、依頼人が車に戻ってきた。目は充血し、薄っすらと光るものが見えた。

「どうしたんです?」

「車を出してください」 やけに落ち着きを払った声で言った。

「わかりました」 サイドブレーキを解除し、車を動かした。わかりましたとは言ったものの、どこに行けばいいのかも、何があったかもわからないままだった。一旦、幹線道路に出て、来た道とは違う道で大供パーキングに行き、迎えに来た時と同じ場所に停車させた。依頼人は終始無言で時折小さくむせぶような声を出した。

「何があったんです?」

 重々しい沈黙が訪れた。その間、煙草を一本吸った。時間にすれば五分くらいだろうが、何時間も経っているように感じた。


「佳子と話をしました」 その一言を皮切りに溜めていたものを吐き出すように一気に話し始めた。

「牧師さんの控え室の前まで行きました。偶然、佳子がそこにやってきました。向こうはもちろん驚いていました。僕も驚きました。もう三年も会っていないのですから」

「そこで何があったんです?」

「久々に会った友人のように近況やここ三年のことを話しました。とても幸せそうでした。幸せだとも言っていました。何をしに来たかも忘れるくらいでした」 そこで黙り込んだ。さっきより大きな声で話し始めた。

「おめでとう、という言葉しか思い浮かびませんでした。彼女は泣きながら、ありがとうと言い、連絡を自ら絶ったことを謝り始めました。話を終え、教会から出ました」

 その間、彼は真っ直ぐ正面を見据えたまま、時折、頬を掻くような動作をした。涙を拭っているのかもしれないが、横は振り向かなかった。

彼は勇気がなかったのかもしれないし、式を打ち壊したくないという配慮をきかせたのかもしれない。後者なら僕に依頼する前に断るべきだったが、けしかけたのは僕の方だ。しかし、罪悪感は全く感じない。彼が依頼したことであるし、結果はどうあれ納得できる形になったのは確かだろう。

「どうぞ」 内ポケットから茶封筒を出した。三万円が入っているのだろう。

「結構です」

「いえ、受け取ってください」

「今日、僕がしたことといえば、あなたを教会に連れて行ったぐらいです。それで対価は受け取れません」 ガソリン代を差し引いても日当一万を受け取ったことになっている。十分だ。

「そうですか。わかりました。お世話になりました。また何かあったらお願いします」

「ええ。もちろん何もないことを祈ってます」

「そうですね」 ドアを開けた。「タバコを一本いただいてもいいですか?」

「この煙草はかなりきついですよ」

「大丈夫です。一度くらい吸ってみたかったんです」

「初めてだと吐き気を催したり、目眩がしたりするかもしれないので、家に帰ってから吸ってくださいね」

「わかりました。気を付けます。本当にありがとうございました」

 駐車上に向かう彼の後姿を見送ってから発車した。マンションには寄らず松下の家に向かうことにした。車を走らせている間、さっきの彼の言葉を思い浮かべた。

彼はあの煙草を吸うだろうか? 今後、僕に限らず、僕のような人間に仕事を依頼することはあるだろうか?

 どちらもないと思う。予想というよりは希望かもしれないが。


 パルサーに乗り換え、ビリヤード店の駐車場に戻ってきたのが四時過ぎだった。今月分の駐車料金を渡すついでに久々に玉を突くことにした。日曜ということもあり、多くの人が突きに訪れていた。僕は一人黙々とナインボールに打ち込んだ。クッションを二つ通す練習に大半の時間を費やしたが、まだまだ先は遠いとわかった。ちょうど七時になったところで打つのを止め、アモールに向かった。


 店に入ってすぐピアノがなくなっていることに気が付いた。「いらっしゃいませ」とにこやかに笑う滝本くんにピアノの所在を尋ねた。

「あの次の日、といっても昨日ですね。昨日の三時ぐらいに三枝さんがお見えになって、ピアノを持って帰られましたよ」

「そうなんだ」

「そういえば面白い話がありました」 娘が結婚するといった類の話だろうか。

「どんな?」

「自分が辞めてから古藤さんが来たか、って訊かれました。それでハイって答えると、『じゃあ彼がピアノを弾いたんだね』って言ってましたよ。僕は一言も言ってないんですけどね。ちょっとビックリしてそれ以上は訊かなかったんですけど」

 僕らは黙ったまま見つめ合い、相手の頭の中を透視するように考えを巡らせた。マスターの超能力を見破れるアイデアは一つも浮かばなかった。ビールを頼んだ。

「長年引き込んでいるみたいですし、心が通じ合っているのかもしれませんね。もしかしたら、ピアノが教えてくれたのかもしれませんよ」

「それだ!」 冗談で言った滝本くんの言葉で謎が解けた。

「え? わかったんですか?」

「ピアノの声だよ。とはいっても椅子の金属音だけどね。一昨日、あの椅子の高さを調整しようとしたら、擦れ合う音がした。何年も高さを変えてないし、変える必要がなかったから油も注さなかったんだと思う。俺には悲鳴のようにも聞こえた」

「ああなるほど」 納得したような返事をしたが、ビールを注ぎ終えてから、「でもそれだと自分以外の人間が弾いたことはわかっても古藤さんが弾いたと目星を付けていたことの説明はつきませんよね?」と言った。

「確かにね。でもあの人は洞察力は凄いし、身長だけじゃなく座高からも割り出したのかもしれないよ。あとは僕とジャズピアノの話をしていたってことから予想を立てたんじゃないかな」

「確かに三枝さんは凄かったです。僕が今まで出会った中で一番鋭かったと思いますよ」

 結局それが僕たちの結論になったが、はっきりとはわからなかった。

今日は日曜だが、客足が途絶えることはなかった。滝本くんも上機嫌だった。シェイクする手付きが一昨日とは見違えるほど、巧かったように思う。オンナの話から、いつ頃に結婚したいかという話になったところでまたマスターの話題が出てきた。

「昨日、帰り際に『明日、娘が結婚するんだ』と仰ってました。凄く嬉しそうでした。娘と言っても奥さんの連れ児らしいですけどね。その奥さんとは内縁らしくて三枝さんも今年中に籍を入れるらしいです。あまり自分のことは話さない人だったから余計驚きました。古藤さんはご存知でしたか?」

「いや、初耳だよ」 嘘ではない。耳にするのはこれが初めてだ。

「この前古藤さんも弾いてたジャズの曲を演奏することになっていたみたいです。それで熱心に練習していたんですね」

「へぇ、そうなんだ。ワルツ・フォー・デヴィーね」

「あとどこで開くかはわからないんですけど、自分の店を持つつもりだとも言ってました」

「滝本くんも負けないようにがんばらないとね」

「そうですね。これからもよろしくお願いしますね」

 五杯目に頼んだXYZを飲み干し、最後に一杯チェイサーを飲んでから店を出た。



 それから一ヵ月半が経ったくらいだろうか。気温は三十度を超え、滴るように汗が落ちるぐらい暑い真夏の日だった。二時前。仕事の待ち合わせがあり、マンションから田町に向かって歩いていた。不意に聴いたことのある曲が耳に入ってきた。ピアノの曲だ。引き寄せられるように、音が発せられる方に足を運んだ。

 モルタル造りの三階建て、一見するとイギリス映画に出てくるアパートのような建物だ。この建物は前からあったとは思うが、気にしてみたことがない。全て飲食店が入っているようで一階の入り口の横には下に伸びた階段があった。地下といえるほど深くはない。扉には「DEBBY」というプレートが掛けられている。扉の前まで降りていった。ここから流れているらしい。生のピアノの音だ。プロにはほど遠いが、優しさを感じさせるピアノだ曲は『prelude blues』。レッド・ガーランドの曲だ。かつて、一人だけこの曲について語り合ったことがある。僕はその人が演奏している姿を見たことは一度もない。確かめたいという衝動に駆られた。この曲が終わったら扉を開けよう、そう思い扉の前で目を瞑ったまま曲が終わるのを待った。『prelude blues』が終わった途端、すぐに次の曲が始まった。


ワルツ・フォー・デヴィー



 姿は見えないのに演奏者の姿が徐々に頭の中で具現化してきた。確かめる必要はなかった。

それにまだ店は準備中だ。

 僕は階段を上り、田町に向かって歩き始めた。三十メートル進んだ所で後ろを振り返った。何かが見えた気がしたがよくわからなかった。目を凝らしても太陽の熱でアスファルトのすぐ上の空間が歪んで見えるだけだった。また前を向き僕はまた歩き始めた。きっと僕の頭の中で投影された映像だろう。


 見た事もない少女が、父親というには若すぎる壮年の男性が弾くピアノに合わせて、ワルツを踊る姿を見た気がした。


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