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お嬢さまとまぼろし

 太陽が天辺を叩き、サクラコと子供たちの喉がからからに乾いた頃、スミスが山頂から帰ってきた。


「ただいま。花はバッチリ採って来たぜ」

 成功を笑顔で伝えるスミス。衣服には土と泥の跡。

「そうですの。それは良かったですわ」

 サクラコもほほえむ。彼女の周りには相変わらず子供たち。


「知らないおにーちゃん帰ってきた」「誰この人?」「サクラコおねえちゃんのカレシ?」


「なんだ、俺は憶えらてないのか? でも正解だ。俺はサクラコちゃんのカレシだ」

 胸を張るスミス。


「マジで? じゃー、チューしてよ!」「お姫さまのカレシなら王子さまだ!」

 囃し立てる子供たち。サクラコはあらかじめそっぽを向いておいた。


「それじゃ、子供たちのご要望にお応えして……」

 スミスがタコになる。無視するサクラコ。


「ただいま戻りました」

 宿の入り口が開き、マリアが戻ってきた。


「スミスさん、ありがとうございます。あの花で間違いないそうです。でも、ちょっと採り過ぎだって、村のかたが怒ってらっしゃいましたわ」

「ええ? せっかく採って来たのに。また必要になったら困ると思ってさ。その辺に植えておけばいいじゃないか。根っこも花も傷つけずに掘るのは手間だったんだぜ」

「お兄ちゃん、服が汚れてるよ! ちゃんと払ってから入ってこないと、おかみさんに叱られるよ!」


「そいつはカンベンだ!」

 スミスは子供たちに押されて退場する。


「村の病人はすでに回復に向かっているそうで、一安心です」

 ほほえむマリア。

「まあ。それはよろしかったと存じますわ」


「ええ、本当に。……それと、あとでおふたりにお話があります」

 マリアはサクラコを見つめた。

 いつもの少し眠そうな細目ではなく、はっきりと開かれた目で。


「マリアさん、何かお決めになったのね」

「ええ」

 マリアはいつもと少し違う「笑顔」を披露した。


「良いお顔をなさってますわ」

「サクラコさんも昨晩と違って、随分と楽しそうです」

 にっこり笑い合うふたり。



* * * *

 * * * *



 昼食にローストトンビを振舞ってもらい、いよいよ村を出る一行。

 出立の準備を始めるサクラコとスミスを眺めるマリア。彼女はイスに座ったままだ。


「マリアさんは、準備はいいのかい?」

 道具のチェックをするスミス。


「……おふたりに、話があります」

 準備を止めるふたり。



 ……。



「留守番するって?」

 声をあげるスミス。


「ええ。私、この村に残ろうと思うんです。

 病人のかたが回復するのを見届けたいですし、それに、ここには教会がありません。

 結界が無いせいで魔物の危険に晒されています。今朝も魔物が子供たちを襲ったそうですし」


 マリアがサクラコのほうを見る。


「あ、ずっとここに居るというわけじゃないですよ……。

 調査が終わった後に立ち寄ってもらって、一緒に城下町へ連れ帰って欲しいです。

 それから、知り合いに掛け合って、この村の教会の再建を検討してみます。

 タコワの町のほうも人員をこっちに移せば、そのぶん食い扶持を減らせるので、請け負ってくれるかもしれませんし」


「それは良いお考えだと存じますわ」


「なるほどな。分かった」

 スミスは返事をしながら、ちらとサクラコのほうを見た。


「わたくしは、ついて行きますわ」

「だよな」

 苦笑するスミス。


「お約束は守っていただかないと」

 お嬢さまは少しいたずらっぽく笑ってみせた。


「オーケー、助けるよ」

 これからまたふたりきりか。スミスは嬉しいような、先が思いやられるような気がした。


 ふたりは、マリアと子供たちに見送られ村を出る。

 目指すは山向こうにある、古代文明の遺跡。



* * * *

 * * * *



 山道を進むふたり、道はどんどんと険しくなり、草木もまばらに岩肌の露出した部分が目立ってくる。


「そういえば、サクラコちゃん。子供たちに人気だったな。シスターよりも懐かれてたんじゃないか?」

 岩の段差を登るスミス。サクラコに手を差し伸べる。


「ええ、朝からずっと、お相手をしていたものですから、少々疲れてしまいましたわ」

 手を取るサクラコ。


「やっぱり、そっち方面の勉強をしてただけあるんだな。子供は好きなの?」

 お嬢さまを引っ張り上げるスミス。


「ええ。……と、いいましても、実際にお相手させてもらうと、苦労することも多いと感じますわ。好きなだけでは務まらなくって」

「そうだなあ。俺は他人の子供の面倒なんて見ようとは思えないな。実際すごいぜ、サクラコちゃんはさ」

目を見て褒めるスミス。


「お褒めになられても何もお出しできなくってよ」

 はにかむサクラコ。彼女はまだ青年の手を取ったままだ。


「何も要らないよ。むしろこっちがお手伝いさせていただきたいね。子供が好きなんだろ? だったら、作るのを……」

 サクラコは青年の手を投げ捨てた。


 自然の恵みに乏しい地形になれば、野生動物やそれに近しい魔物の姿が見られなくなっていく。

 ふたりは特に魔物らしい魔物に遭遇することなく、日暮れまで歩き通した。


 途中で休憩を挟みながらとはいえど、運動の得意でない二十歳の女子には、荷が勝ち過ぎる旅である。


「今日はこのあたりで野宿かなあ」

 周囲を見回すスミス。完全に岩の山道で、切り立った崖の壁や奈落が点在している。

 見通しは良いものの、それは同時に身を隠せる場所が無いことを示していた。


「この山を越えたら遺跡が見えるはずだ。そっちはずいぶん景色が良いって話だ。できれば今日のうちに遺跡の見えるところまで行きたかったんだけどな」

「わたくしが一緒だったばっかりに、申しわけありませんわ」

 謝るサクラコ。お嬢さまは歩くのもつらくなっているようだ。


「おっと、ごめんよ。責めてるわけじゃないさ。まあ、綺麗な景色は陽の出ているときに拝んたほうがありがたみがあるってもんだ」

 スミスはカバンからランプを取り出すと、魔法で火を点けた。


「サクラコちゃん、そのあたりに岩や石が落ちてたりしないかい?」

 見回すサクラコ。目立った石は転がっていない。

「特に見当たりませんわ。何かにお使いになるの?」

「落石があるか知りたかったんだよ。岩壁を背にして休みたい。そのほうが何か来たときに反応しやすいからね。警戒しやすくても、寝てるあいだにぺしゃんこってのは笑えないだろ?」


「おっしゃる通りですわ」

 感心するサクラコ。

「スミスさんは、お仕事で野宿なさることは、よくおありになるの?」


「木の上で寝たり、屋根の上で寝たりはよくあるな。お陰で、どこでもすぐに眠れるようになったかな」

「まあ、逞しいお方ね」

 口に袖するサクラコ。ふと服が少し臭うことに気付く。


「どこかその辺に座りなよ。村で貰った弁当を食べよう」

 スミスから少し離れたところに座るサクラコ。

 腰を落ち着けても、岩に接している部分が痛くて休まらない。これなら机に突っ伏して寝たほうがましなくらいだ。


 夕食は昼と同じトンビの肉だ。

 昼は焼いたものを香辛料で味付けした上に、何かタレを塗ったものをいただいたが、今回はパンと野菜で挟んであるだけだ。


「あまり、美味とは言えませんわね」

 トンビサンドをかじって呟くサクラコ。彼女はパンを口から離し、鼻を袖で覆っている。


「そうだなあ。もっと香草を効かせればマシになるんだろうけど。鳥の肉はやっぱりニワトリに限るよ。草食以外だと、どうも臭みが強い。はっきり言って、食べるのをやめたい!」

 顔をしかめるスミス。サクラコも同じ思いだった。


「……でも、村の皆さんは誰もお残しになってませんでしたわ」

「そうだな。食事のえり好みなんてできないんだろうな。俺も結構、好きな物ばかり食べてきてるからな。やっぱり舌が贅沢になっちまってる」

 ふたりはトンビサンドを口の中に押し込む。

 

「さて、寝る前にちょっと、やっとくことがある」

「なんですの?」

「サクラコちゃん、ちょいと脚を出してくれ」

「何をなさるおつもり?」

 脚をスミスから離すサクラコ。


「長旅で疲れたろ? ちょいと血行を良くしてやろうかと」

 スミスが両手を“にぎにぎ”する。


「遠慮いたしますわ。わたくしの世界ですと、そういうことをなされば、牢屋にお入りになりますの!」

 とはいえ、サクラコの脚は連日歩き詰めたせいで、ふくらはぎは随分と張っていたし、関節も炎症を起こし始めていた。

 歩いているうちはただの疲労だと思っていたが、いざ腰を落ち着けてみると、明日の旅が難しい程に状態が悪いのを自覚していた。


「信用ないんだな。ちょっと傷ついちゃうなあ」

 助平の盗賊はがっくり肩を落とす。


「……変なことなさらないなら、お願いいたしますわ」

「しない、しないって」

 お嬢さまはスミスのほうへ脚を出す。


 スミスは袴の裾を捲ると、手をかざした。

 露わになる白い脚。彼の手からはもっと白い光が放たれる。


「本当は直接触れたほうが効きが良いんだけどな。……オーケー。どうだい? 少しは楽になったかい?」

 サクラコは裾を直し、立ち上がってみた。脚の具合はすっかり良くなっている。

「まあ! ありがとう存じますわ。スミスさん、こんなこともおできになるのね」

「痛みは怪我のたぐいだからな。治癒魔法ですぐだよ。疲労を明日まで放置したら、すぐは治らないだろうな」


「おっしゃる通りですわ。わたくしも使えればよかったのに……」

 残念そうなサクラコ。彼女は魔法に触れる度に無念さを表明している。


「魔力がまったくないのも才能だけどな。サクラコちゃんの場合は、自分自身に魔法を掛けるよりも効きが早くて面白いくらいだ」

「でしたら、足が速くなる魔法などもできますの? そうすればスミスさんにも着いて行けるのではございませんの?」

「できるけど、身体を制御するのはアタマのほうだからな。反射神経がついてこれなければかえって危ないぞ」


「そうですの……」

 しゅんとなるサクラコ。遠回しにどんくさいと言われた気がした。


「落ち込むなって。今度、暇なときに、いろいろ魔法を掛けて遊んでみようぜ」


「楽しみにしておきますわ。ところで、ひとつ気になっていたのですが……」

「なんだい?」

「魔法をお使いになられるときに、呪文のようなものをお唱えになったり、ならなかったりしていらっしゃるのは、なぜですの?」


 サクラコが見てきた数々の魔法。

 黙って使うものもあれば、何か呪文を唱えて発動しているものもあった。

 彼女はかねてからそれが気になっていた。

 魔法と言えば呪文詠唱。テクマクマヤコンだのビビデバビデブーだの黄昏よりも暗きものだのだ。


「あー、詠唱か。あれ自体には特に魔術的な効果はないんだよ」

「そうなんですの?」

「うん。魔力の複雑なコントロールには、コツと集中力が必要なんだ。

 それをパターン化して、何らかの動作や言葉とセットにして憶えれば楽に同じものを発動させやすいってだけだな。

 使い慣れていれば高度な魔法も、黙ったままつっ立ったままで発動できるようになる」


「それは少々、ロマンがないかと存じますわ。わたくしなら、素敵な文句と一緒に魔法を使ってみたいですわ」


「そうかもな。俺はそういうのは苦手だな。予備動作は少ないほうがスマートで良い」

 苦笑するスミス。


「あら、いつか女性をお助けになった時、キザなことをなさってらしたような?」

 路地裏での一件。スミスは助けた女性の手を使って治療魔法をやってみせていた。


「なになに? 焼きもち?」

 にやつくスケコマシ。


「違いますの!」

 ぷいとそっぽを向くサクラコ。


「あれは魔法のテクニックというよりは、恋のテクニックかな~」

 スミスが何か言った。


「わたくし、少々疲れたのでこのあたりでおやすみさせていただきますわ!」

「あれれ、まだ夜はこれからだっていうのに」


「おやすみなさいまし!」


 サクラコは壁に寄り掛かった。身体の重みでごつごつした岩肌が当たり、痛む。

 しばらくそのままにしていたが、我慢ができずに姿勢を変えることにする。


 地面の上で丸くなってみるが結局、同じ……。サクラコは何度も姿勢を変える。


「寝ないの?」

 訊ねるスミス。彼の表情からして、状況を察しているのは明らかだ。


「……ちょっと、いい場所が見つからなくって」


「だろうね。だから、山を越えてしまいたかった。草の上なら多少はマシだからね」

「……」

 彼の意地悪な話の蒸し返しに、お嬢さまは拗ねてしまいたい気分だった。

 意地を張って硬い地面の上で丸くなる姿は、野良猫さながらだ。


 眺めるスミス。彼女はいまだにもぞもぞやっている。


「ね、サクラコちゃん」


「……」

 返事はナシ。


「こっちに来なよ。俺に寄っかかって寝たら、寝やすいと思うよ」

 スミスは脚を開いて膝を叩く。


「……」

 お嬢さまは姿勢を変えて顔をスミスの反対に向ける。


「今日は冷えるよねー。山の上だから、これからもっと寒くなるだろうなあ」

 風が岩山を撫でる音。


「……」

 身体をさらに丸める野良猫。


「もし魔物が来たらどうしようかなあ。近くに居たら、すぐに透明化の魔法で隠してあげられるんだけどなあ」


「……」

 野良猫はあっちを向いたまま身体を起こし、身体をずり始めた。

 そのうちに彼女はスミスの脚のあいだに収まってしまった。


「よろしい。それじゃ、俺も寝るとするかね」

 言うが早いか、スミスはランプを消し、あっという間に寝息を立て始めた。


 男に身体を預けるお嬢さま。

 幼い頃に父にそうしてもらったことがあったくらいで、大人の男と密着するなんて初めての事である。

 いや、違った。満員電車で少し前までは毎日経験していたか。


 電車の中とは違って、自身の体温が上昇するのをサクラコは感じた。

 でもそれはきっと、背中の男の体温に温められたせいに違いない。

 しばらく身を固くしていたが、程よく暖められた背中が眠気を手繰り寄せる。

 次第に身体の重みをすべて男へと預け、安らかな寝息を立て始めた。



* * * *

 * * * *



 朝。サクラコはベッドから起き上がり、背伸びをする。

 昨日は子供たちの面倒を見たせいか、筋肉痛が彼女の身体を支配していた。

 身体が痛いと頭に血が行かなくなり、低血圧のようになる。


 少々不機嫌なお嬢さまは、無心で着替えを済ませると、朝食もとらないで家を出た。

 少しでも早い時間に出れば、満員電車を回避できるかもしれない。早く講堂に入って、本でも読んでいたほうが有意義というものだ。


 しかし、彼女の目論見は外れる。改札時点ですでに嫌な予感はしていたが、ホームに出るといくつもの人の列が見えた。心なしかいつもより長い。

 到着する電車。パーソナルスペースの存在しない空間に人々が押し込められていく。

 誰かのカバンの角が腿に刺さったまの発車。揺れる度に痛む。


 サクラコは満員電車に乗るたびに不安になる。他人との適切な距離感が守られない空間に、猥褻な悪意を感じてしまう。

 誰かの顔があるのだろう、肩のあたりに空気が触れ続けている。

 背中もいやに暖かい。普段なら誰しもが身を縮めており、接触する面を減らそうとしているはずだった。


 痴漢だろうか? 特に身体をまさぐるような行為はないものの、いつもと確かに違う感触。降りるべき駅はまだいくつも先だ。


 不意に抱きすくめられる感じがした。明らかに彼女へ向けられた動作。


 しかし、お嬢さまはそれに不快感を感じなかった。その代わり、それを受け入れた自分へ嫌悪を向けた。


 募る嫌悪。しかし、唐突になくなる感触。電車が少し空く。

 人々が扉から吐き出されたのだ。いつもは安心するのに、今日は少し寒い気がした。


 サクラコはふと気づく。今日は授業じゃない。実習だった。大学でなくって、園にいかなくっちゃ。

 人の川に流されるようにしてサクラコは電車を出る。向かう先はこども園だ。



「すめらぎせんせーだ!」「おはよう!」「きょうも“じっしゅう”?」

 皇木桜子を囲う子供たちは、トーマスくんに、ヒロユキくんに、アナちゃんだ。


「はーい、みなさん。今日は皇木先生がお歌を歌ってくれますよー」

 現れたのは園の常勤の教員。見覚えのある女の顔。

 彼女はサクラコの顔を見ると、子供へは決して向けないような、曲がった笑顔を浮かべた。


 凍り付くサクラコ。先生はグループの“仲間”の顔をしていた。

 サクラコが異世界に行っているあいだに時が過ぎて、“仲間”は先生になったというのか。


 心臓が早鐘を打つ。心音に合わせて、どこからかピアノの伴奏が聞こえてくる。

 やってくる歌い出しのタイミング。声が言うことを聞かない。


「せんせーお歌、歌わないの?」

 トーマスくんがサクラコを見上げる。


 トーマスくんの将来の夢は勇者で、彼は疫病で母親を亡くしていて……違う。サクラコはようやく気付く。これは夢だ。


「はやく、お歌、歌って?」「歌いなさい。皇木先生」

 彼女を急かすように伴奏が早くなる。


 はやく、はやく、はやく。


 サクラコは歌うのを諦め、目が覚めるようにと自身を急かす。


 どうすれば目が覚める?


  はやく、はやく、はやく!


「せんせ、ヘタクソだから歌わないんでしょ!」

 鍵盤が一斉に叩かれる音。


 嬉しそうに言うトーマスくん。興奮気味なのか、頬は品の無い紅に染まっている。


「ヘタクソ!」「ヘタクソ!」「ヘタクソ!」

 トーマスくんがいくつもの女性の声色を使い、ヤジを飛ばす。ヤジに合わせてサクラコを指さす。

 彼はよほど夢中になっているのか、頬を染める色は鼻まで達し、酔っ払いのような顔色になっていた。



 ――♪



 ヘタクソコールの中に、子供の歌声が混じって聞こえる。村で繰り返し歌った、あの歌。


 「……ヘタクソはあなたかと存じますわ!」


 サクラコはそう叫ぶと、「トーマスくん」を指さした。


 目を丸くするトーマスくん。


「トーマスくんは、そんな事をおっしゃいませんわ!」


 サクラコはにっこり笑うと両腕を伸ばし、子供のほっぺたを思いっきりつねった! 構いやしない、どうせこれは夢だ。まぼろしだ。



 それに、これは子供じゃなくて――魔物だ。



 崩れる景色、現れる岩山。赤い顔のトーマスくんの顔は醜くなり、鉤鼻と髭の生えた、膝丈ほどの中年男のような容姿に変わった。


「あなた、トロールでしょう。わたくし、存じてますのよ!」

 魔物の頬をつねあげるお嬢さま。


「痛い! 痛い! 許して! 降参!」

 子供の泣き顔のような表情になるトロール。サクラコは手を放してやる。


「ははは、手を離したな!? 馬鹿め、踏み潰してやるぞ!」

 トロールの身体からガスのようなものが出たかと思うと、魔物はどんどんと巨大化していった。

 山のような巨体。表情は一変。捕食者の顔で小娘を見下ろす。


「……どうぞ、お踏みなってくださいまし」

 澄ました顔で応じるお嬢さま。


「いいんだなあ?」

 足を持ち上げるトロル。サクラコはそれを見上げもしないで、もう一方の足を眺めていた。


 ……足が岩山にめり込んでいる。


 彼が足を上げたときに、それはさらに岩の中へと潜ったが、岩肌を崩すことはしなかった。

 まるで溶け込むように。ゲームでいうところの、「当たり判定が無い」ような。


「どうなさって? お早くなさってくださいまし」

 一向に踏もうとしない巨人。


「そちらがお踏みにならないのでしたら……」

 そう言うと、サクラコは足をあげた。



 ――ぼわん!


 湯船で出された空気の鳴らすような音と共に、巨人の幻影が消える。サクラコの足元には大の字になる小さいおっさん。


「チクショーッ! 今度こそ本当に降参だ! 踏み潰すがいい!」


「踏み潰したりなんかいたしませんわ」

 口に袖するサクラコ。


「なんだよ。赦すって言うのかよ。お前を食べようとしたんだぞ!」

 不満そうな魔物。


「ええ。わたくし、乱暴は嫌いなの」

 小鬼にほほえみかける。


 サクラコはあたりを見回すと、地面の上に転がるスミスの姿を見つけた。


「や、やめてくれメアリー、そんなところに入れないでくれ……」

 彼は何やらうなされているようだ……。


「スミスさん、スミスさん! しっかりなさってくださいまし!」

 スミスを揺さぶるサクラコ。


「なんだよ、そんな奴ほっとけばいいだろ。オレに負けた情けない奴! やめてくれメアリー!」

 トロールはゲラゲラと笑い転げた。


 ――!


 乾いた音が響く。


 ――!


 再び。


 ――!


 もういっぱつ。


「スミスさん! 起きてくださいまし。スミスさん!」

 寝ているのをいいことに、蛮行を繰り返すお嬢さま。


 スミスの頬が赤く染まっていく。それを見たトロールは、顔の色を反転させて黙り込んでしまった。



* * * *

 * * * *



「こいつが幻術を使って俺たちを騙してたのか」

 腕を組み小鬼を睨むスミス。

 彼の両の頬が赤い。しかし、本人は気付いていないようだ。


「スミスさん、あまり怒らないで差し上げて」

「こいつはトロールだぜ!? 俺たち、もう少しで食われるところだったんだぞ!」


「そうだ! オレは幻覚で相手を倒して、その心を食って生きてるんだ!」

 胸を張るトロール。


「でも、わたくしには通じなくってよ」


 姿勢を正すトロール。


「まあ、サクラコちゃんがそういうなら、勘弁してやるかな……」

「けっ、このスケベ男が。寝込みなら夢を使って簡単に騙せると思ったんだけどなあ」


「残念だったな。俺が寝てなくて」

 トロールの頭を押さえ付けるスミス。


「どうせお前負けたじゃん! 明けがたまで頑張って見張ってたくせに、負けたじゃん!」


「うるせえ」

 押さえつけた腕をぐりぐりとひねる。


「……」


「ま、いいよ。オレも女に負けた。でも、やられっぱなしの上に見逃されたままじゃ、気が済まない。お前たち、遺跡に行くんだろ?」

「そうだよ。良く分かったな」

「このあたりには遺跡くらいしかないからな。それに宝探しに行くやつは多い。……ついてこい、遺跡までの近道を教えてやる」

 ふん、と鼻を鳴らすトロール。


 ちいさなおっさんのあとをついて崖の壁沿いを歩くふたり。

「どこに連れて行こうって言うんだ? 騙そうってんじゃないだろうな?」


「まだ言うか! 嫌な奴!」

 トロールがスミスにあかんべえをする。


「わたくしは、信じますわ」

 おっさんは鼻を鳴らすと立ち止まり、岩壁のほうを向いた。


「ここだ」

 そういうと彼は壁の中へとするりと入って行った。


「あらまあ!」

 驚くサクラコ。壁に手を触れようとすると、そのまますり抜けてしまう。


 恐る恐る中に入るふたり。


「秘密の通路か」

「正確には、もともとあった道をまぼろしの岩壁で隠してんだ。遠回りさせて野宿させれば、寝てる奴らをとって喰いやすいからな」

 自慢げに言うトロール。

 岩の裏はただの道だ。再び岩壁が立ちはだかり、それもするりと抜ける。


「いいか、これは他のトロールと共同で管理してる道だ。みんなにはナイショだぜ?」


 岩山から景色は一変。


 一面に広がる萌葱(もえぎ)色の森、森を割って流れる川。

 川の出どころは岩山から落ちて輝く見事な滝。


 そして、滝のそばにそびえるは巨大な石造りの建造物。

 建物の一部は朽ち、蔓や草木を生やして歴史と共に森に飲み込まれようとしている。


「お美しいわ……」

 呟くサクラコ。


「礼はしたからな。もうお前たちは襲わないよ。それと、遺跡に行くなら気を付けろよ。最近、ヘンな奴がウロチョロしてるからな」

「ヘンな奴?」

 スミスがトロールに尋ねる。


 しかし、魔物はすでに姿を消してしまっていた。



* * * *

 * * * *

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